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【掌編小説】エネミー

「コーヒー入ったよ。 砂糖とミルクは?」
 皆川が大声でそう訊いた時、亜紀は洗面所で念入りに洗った手で、左頬にある傷跡を撫でていた。庭先で皆川の飼い犬に触れた手は、どれだけ丹念に洗っても臭いや汚れが落ちた気がしなかった。
 だから亜紀は、傷跡にそれを伝えることにした。
「大丈夫です」
 亜紀は持参したハンカチで手を拭きながら、右斜め向かいのリビングに向けて答える。どこか無理をしているような笑顔だ。
 食卓にホットコーヒーを二つ並べた皆川は、洗面所から戻って来た亜紀に「美味いよ。こだわってんだ」と亜紀に勧めながら、腰かける。
「犬はこんなに美味いコーヒーを飲むことができないじゃない。だから、代わりに飲んであげなくちゃね。でも、いつも犬の分まで飲むと眠れなくて」
 冗談交じりに言う皆川の向かいに、亜紀は愛想笑いを浮かべながら茶色のレザーバッグを抱えたまま座った。皆川は犬のことを語れるのが嬉しいのか、にやけながら続ける。
「コーヒーは飲まないけど、よく食うんだ。ほら、昨日ゴミ捨て場で会った時に俺が持ってたやつ。あれ、うちのココアのクソ」
 皆川は言った後に、あっ、と気付いた声を上げ、自分の口を軽く押さえてる。
「コーヒー飲んでる最中にごめんね。あ、まだ飲んでないか、飲んで飲んで、亜紀ちゃん。あ、いや、こんな話した後に飲める気になんないか」
 あたふたしながら頭を掻いて言葉を探す。結局、彼は話題を変えることにした。
「いやあ、でもさ、こんな偶然てあるんだね。越した先で再会するなんて」
 照れ臭げそう言う彼に、亜紀は「はい」と静かに返した。
 皆川と亜紀は七年前、同じ町に住んでいた。近所であったが、付き合いは薄かった。理由は、皆川が昼間は仕事で家にいないことと、家の前によく吠える五匹の中型犬がいたこと。そして、独り身の中年でありながら庭付きの一戸建てに複数の犬と住んでいることを、誰が疎んだのか、「変人なのではないか」「女に飢えているのではないか」という噂が立ち、当時小学生だった亜紀は親から皆川の家に近付かないよう言われていたことが理由だ。とはいえ、皆川が町に越してきてから亜紀がその町を出るまでのたった一年の付き合いだったため、近所付き合いが希薄なのも当然だった。
 二人は昨日の朝、ゴミ出しの際に再会した。今度は逆に、皆川が先に越してきていた町に大学生になった亜紀が一人暮らしのため越してきた。
 その際に、皆川は亜紀を自宅に招いたのだ。
「前にいた町の話でもしよう」と。
 亜紀は快く答えた。
「前にいた町の話でもしましょう」と。
 犬種は変わっていたものの、相変わらず、皆川の家の庭先では一匹の犬が吠え散らしていた。
「七年振りだから……亜紀ちゃん今いくつ?」
「十八です」
 亜紀の答えに皆川は感嘆の声を上げ「もうそんなに」と続け、一番気になっていたことを尋ねる。
「今でも犬、飼ってるの?」
「いえ、今は」
 亜紀の作り笑いが崩れかける。皆川は彼女の気など構うことなく、吹き出して更に問う。
「なんで、飼ったらいいじゃん。あんなに大好きだったじゃん」
「ココアが死んじゃった時の辛さを味わうのは、もう嫌なので」
 亜紀の目にじわじわと涙が浮かぶ。
 脳裏をチラつくのは、亜紀のかつての愛犬であるココアの面影だった。亜紀は家族の誰よりもココアを愛していた。いつ何時もココアと離れたくなかった。だからココアの遺骨は亜紀のベッドの枕元ある。毎晩、ココアと遊ぶ夢を見られるようだ。
 皆川は温かみのある声で慰める。しかし、それは同情ではなく、目の奥に怒りを孕んだ慰めだ。
「そうだよね、家族が死ぬって身を裂くような想いだよね。わかる、わかるよ、俺も一気に五匹死んじゃった時はどうしようかって思ったもん。もう一緒に死んじゃおうかなとか思ったもん」
 表面だけが柔らかい言葉が、亜紀に刺さる。亜紀は悲痛な叫びを無理やり飲み込み、切り返した。
「だから犬に触るの久々で。たくさん触っちゃってごめんなさい」
「いいのいいの。懐かれてるみたいでよかったよ。よく吠えるんだよ、うちの犬。普段ならホント、家の前誰か通っただけで狂ったみたいに吠えるのに、今日は亜紀ちゃん来ただけでこんなに静かだもんなあ。それより、ココアちゃんそっくりでしょ。うちの犬」
 亜紀を追い詰める言葉は更に続く。
「あんまり好きな犬種じゃないんだけどね。ブサイクだし。でも犬に変わりはないから」
「名前は」
 亜紀の震える声に、皆川は表情だけにこやかに返す。
「ココアだよ」
 声の奥には今まで隠していた怒りが見え始めていた。
 その言葉は亜紀の胸を殴り付ける。亜紀の腹から胃酸が込み上げて来るが、それを出すまいと、涙目で堪える。胃から喉が灼けるように熱い。
 亜紀が俯いている僅かな沈黙の中、皆川はその命名のわけを語る。皆川の声は、静かに震えていた。
「ココアを近くに置いておけば絶対忘れないでしょ、あの事件をさ。ジャムの痛みを、レオの痛みを、クッキーの痛みを、チャッピーの痛みを、ウォーリーの痛みをさ。あの町に ずっといれば、忘れることなんて絶対できなかったんだろうけど。でもあんな物騒な町にいられないだろ」
「……はい」
「何が、はい、だよ、ふざけんな!」
 皆川は自分のコーヒーカップを勢いよく払い飛ばし、怒鳴りつけた。彼の血眼は亜紀への恨みが生んだものであり、その恨みは死んだ五匹の飼い犬への愛情によって生まれたものだった。
 コーヒーカップが床に落ちて液体とともに割れて散るその音は、感情が激流となってある種の壁を破壊する音に聞こえた。それは、皆川の音でもあり、亜紀の音でもあった。

 七年前、皆川の飼っていたジャム、レオ、クッキー、チャッピー、ウォーリーは殺害された。農薬が混ぜ込まれたドッグフードが原因だった。そしてその翌日、近所の目撃情報により、左頬に大きなガーゼを貼った小学六年生の女の子が犯人だと判明した。
 亜紀は動機をこう語った。
「ココアの仇を取りたかったんです」

 皆川は荒くなった息を整えようと目を瞑り下を向く。
 亜紀も目を瞑った。それは皆川と は違う憤りによる涙を落とさないためだった。
 少し落ち着いたところで、静かに目を開け、 皆川は冷たく穏やかな口調で言った。
「安心してよ。うちのココアに亜紀ちゃんへの恨みをぶつけたりなんかしないから。俺が変人だの女に飢えてるだの根も葉もない噂が前の町で流れてたみたいだけど、人なんかより犬の方がよっぽど俺のことをわかってるって痛感したよ。犬がいれば生きていける。その俺の理解者を君は奪ったんだ。君は犬を大切にしていないだろう。だから、あんな凄惨なことが出来たんだ。頬の傷跡は飼い犬に噛み付かれた跡だよね。すぐわかるよ」
 ひとしきり言うと、皆川は立ち上がり机の下に散らばるコーヒーカップの破片を見る。 目線をそのままに皆川は無表情で続けた。
「亜紀ちゃん、今日は良く来れたね。殺されるとか思わなかったの」
 亜紀は固く瞑った目を開き、真っ赤な目で皆川を睨み付ける。開いた途端、涙の粒が頬を次々と伝う。
 亜紀の表情は、七年前のものに似ていた。
「私だって伝えたいことがあってここに来たんです」
  皆川は亜紀の言葉をよそに、しゃがみこんでコーヒーカップの破片を拾い集めながら単調に言う。
「もう帰っていいよ。俺は、亜紀ちゃんに罪を再認識してもらいたかっただけだから。うちのココアを見る度、思い出してよ」
 亜紀は冷たい涙声で続ける。
「この傷は、あなたの家の狂犬に噛まれた跡です。ココアを噛み殺した狂犬の歯形です」
 亜紀は傷について語るのが苦痛で仕方なかった。傷の話をする度、ある記憶を、嫌なのに、鮮明に思い出さねばならないからだ。
「私は今でも悪いとは思っていません」
 噛み跡は頬以外にも背中、腕、足……身体のどこを見ても蘇るのは、狂犬への恐怖ではなく、ココアの空虚な顔、記憶に焼き付いた悲しみだ。皆川の狂犬たちから、血まみれのココアを抱きかかえて守る記憶。
 抱いた時には、すでにココアは亡骸だった。
 無視してカップの破片を拾い続ける皆川に、穏やかに言い放つ。
「ココアが吠えませんね」
 皆川の手が止まる。彼にも蘇る記憶があった。あんなにも元気に吠えていた、愛犬五匹が玄関前でたまに痙攣をしながら虫の息で悶える光景。缶詰めのドッグフードに見る皆川の悪夢。
 皆川はガラス破片に踏み込み、亜紀の左頬を思い切り平手打ちする。  
 亜紀は鈍い破裂音とともに、椅子からバッグを抱えたまま倒れる。
 痛くも痒くもなかった。
「ココア……ココア……」
 戯言のように呟きながら、 皆川は玄関へ駆けて行った。
 部屋が一瞬静かになったかと思うと、玄関の方から皆川の鳴咽の混じった泣き声が投げ込まれて来た。
 亜紀はゆっくりと立ち上がり、レザーバッグから、よく研がれた鋭利なココアの肋骨を取り出す。
 あれだけ洗ったのに、手からはまだ仄かに農薬の臭いがした。しかし、今の亜紀にとってはそれが嬉しかった。
 亜紀は偶然の再会にもう一度笑った。
 亜紀は嗚咽の聞こえる方へのそのそと向かった。
 亜紀は左頬の傷を撫でた。
 傷が、疼く。

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【罪状】器物損壊罪

皆川がコーヒーカップを弾き割ったため。

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