見出し画像

【小説】初夢なんて見ない①

 杜崎です。好きな銭湯は、高炭酸風呂が余り混んでいない銭湯です。
 先日は開所1周年のお祝い、有り難うございました。
 今週から、6週間、6話に渡って過去書いた長編小説を収監いたします。出身大学の専攻と、元々働いていた会社が農業系だったもので、そこでの経験を散りばめた農家ヒューマン小説です。今日のところはまだ何も展開していない1話目なので、物語がどういうジャンルなのかは判断できかねると思いますが、どうか最後まで読んで頂けると幸いです。ひとつ断言できるのは、明るい話ではない、ということです。
 お目汚しではございますが、6週間、土曜のひととき、どうぞお付き合いくださいませ。

これからも何卒宜しくお願い致します。

杜崎まさかず




 夏なのに風が冷たいのは、昨日の雨が草木を濡らしているからでもあり、日が差し込まない森の中だからでもある。午前十時半、佐岡さおか家所有の野山の中で熱を発するのは、育ち過ぎた雑草を草刈り鎌でかき分けて進む健太郎けんたろうの体温だけだった。
 防虫服を着こんだ状態で山道を歩む健太郎は、四日に一度の当番である『山の清掃』の度に蒸し死にしそうになっているが、そのぶ厚い生地のおかげで生い茂る葉の縁で切り傷だらけにならなくて済んでいる。
 車では入り込めない急勾配な山肌と、見渡す限りに広がる丈夫な雑草群に踏み込み続け約二十分。足の底の感触が、唐突に固くなる。拓けた平地の中心で、二メートル四方のみ土が耕されている。目指していた【初夢草はつゆめそう】の畑に着いたのだ。
 健太郎は休憩用に用意されているパイプ椅子に腰かけ、草刈り鎌を脇に放って息を整える。水筒の水をコップ三杯分飲み干すと、自然と長いため息が出る。目先の虫が葉から樹木に飛び移る羽音すら鮮明に聞こえるこの場所では、健太郎の吐息の音がうるさいくらいだ。
 首にかけていたタオルを水筒の水で濡らして、顔中を拭いていると、だんだんと落ち着いてくる。空気がひんやりしているのが肌に伝わってきて心地いい。鼻をくすぐるのは、湿った土と青葉が混ざった匂い。近いのか遠いのかわからないどこかから、ミミズクが鳴き声をひとつ上げる。
 健太郎は何の気なしに、若手女性シンガーが歌う深夜アニメの主題歌を口ずさみ始める。
「きみの、笑い声に、ハートブレ~イク」
 思い出せない部分には適当な歌詞を充て、ワンコーラス歌い上げる。健太郎の表情は、温泉に肩まで浸かっているかのように、緩んでいる。ここでなら、大人の男性が大声を出しても、誰に迷惑をかけることもない。
「はあ」と息を吐くと、腰を上げ、畑の真ん中に一本だけある、健太郎の身長と同じくらい幹を伸ばした【初夢草】に向かう。ここでの健太郎の仕事は、【初夢草】の根の部分に水筒の水を五滴垂らすこと、手の平ほどある葉の表面を布巾で拭くこと、周りにある雑草や枯葉を掃除することだ。
 健太郎が世話になっている農家の主、佐岡初継はつつぐ曰く、この生育方法で【初夢草】は百二十年葉を枯らしていないという。

 初継の曽祖父の代から育て続けている【初夢草】は、中国から伝わる万能薬草だ。ひと昔前は、万病を治すとされ、ほとんどの漢方薬に調合されていた。その凄まじい薬効は、天然痘や結核の末期患者を完治させるほどに留まらず、先天性の脳障害ですら煎じ汁を一年間飲ませるだけで打ち消してしまうほどだったそうだ。しかし、その噂が広まるとともに乱獲が相次ぎ、野生の初夢草は絶滅寸前にまで追い込まれてしまった。
 そこに医学や薬学の進歩が追い打ちをかける。近年、【初夢草】の薬効が並みの漢方薬でカバーできるほどだったと証明された上に、数多の医薬品が開発された。もはや、現代における【初夢草】の価値は、マニアの心をくすぐる希少性と、根も葉もないスピリチュアルな伝説だけだった。
「ガキの頃のわし言うんは、えげつない阿呆でな。心配したお袋に医者に連れていかれて、そん時、頭に障害があるてわかったんや。それから朝、昼、晩、寝る前、一日四度も毎日このしっぶい初夢草の煎茶飲まされてな。
 そんで次の年の正月よ、初夢を見たんや。真っ赤な羽根をキラキラさせた孔雀みたいなんが富士の山のてっぺんを一周して、わしの目の前に舞い降りる夢でなあ。背中にお乗りなさい、って言うて。ほんで、言われるがままに跨ったらやな、ばさばさあって翼広げて飛びよった。そのまま光ん中に突っ込んで行くところで、目が覚めたんや。
 変な初夢やなあ、思うとったら、その年にな。何の問題もなく小学校に入れたんよ。頭がすっかり治っとるて、医者も腰抜かしとったわ。お袋、泣いて喜んどった。大人んなって調べたらその鳥、鳳凰ほうおうでな。ほれ、中国の、伝説の。親父に聞いたら、やっぱりあったらしいで、そういう話。初夢草の煎茶飲んで治った人間は、皆同じ鳳凰の背中に跨る夢見とったんやわ。不思議よ、理屈こね回したって分からんもんが、初夢草にはあるんよ」と、初継は酒に酔うと必ず話した。【初夢草】の伝説の当事者は自分なのだと、誇らしげに毎回語った。
 それとは逆に、健太郎は特段【初夢草】に物語性やロマンを感じたことはなかった。体調が悪くなれば、ドラックストアで薬を買えばいいし、酷いようなら医者にかかればいい。脳障害が草の成分だけで治るなんて話を信じる人間が今の世の中にいるのか。第一、渋くて酸っぱい上に、口に含んだ瞬間凄まじい臭いを放つ葉を、わざわざ探してまで摂取しようという奴がいるのだろうか。例えるなら、銀杏の実をばら撒いた肥溜めで野犬が暴れたような臭いだ。健太郎は甚だ疑問だったが、【初夢草】にただひとつだけ感じている価値があった。
 根も葉もない伝説を信じて、いつか起こる奇跡を待ちながら今日も【初夢草】の煎茶を一日四回飲む、純な農家と繋いでくれていることだ。
 佐岡家に就農する二年前、健太郎は就活難に喘いでいた。
 メールで今後の健闘を祈られること八十社。いつの間にか、早くこの自分が否定され続ける状況から抜け出したいという気持ちが、企業での華々しいサラリーマンライフを送りたい気持ちを勝っていた。農業の大学で専攻していた作物栽培学の知識を、活かせそうか活かせまいかなど企業選びには関係なくなり、企業研究も一切せず手当たり次第に応募した。結果、成り行き、風まかせ、時の運で内定をもらうことができたが、健太郎の人生はここから狂い始める。
 仕事の覚えが悪い新入社員ひとりを、つまり健太郎を、大量採用した同期に集団でいじめさせる、超の付くブラック企業だったのだ。集団に同じ標的を与え、協力していじめさせることで団結力、また改ざんなどへの罪の意識を薄める手法だ。
 いじめの標的となった健太郎は、三か月と待たずに精神が不安定になり自主退社。それからしばらく、人と顔を合わせるのも嫌になって家に閉じこもった。
 その年の暮れ間近に、元々所属していた作物栽培学のゼミ長である野々村ののむらからかかってきた一本の電話が、佐岡家と健太郎を繋ぐきっかけだった。
 野々村の声は、ここ数か月の間で健太郎が聞いた声の中で最も明るかった。
「おお、けんちゃん元気? OB忘年会の出欠、まだ返ってきてないの健ちゃんだけだったからさ、死んだのかと思ったよ。ハハッ、冗談、冗談。生きててよかったよ」
 野々村に付けられた自分のあだ名を耳にした途端、涙が止まらなくなり、現状のすべてを野々村にすがるように伝えた。
 それから二日後、野々村から再び電話がかかってきた時には、健太郎の再就職先がほぼ決まっていた。
「ゼミの繋がりで仲良くしてる農家がいてさ、丁度若い男手が欲しいんだって。それで勝手に健ちゃんのこと喋っちゃった、ごめん。でも、やっぱり健ちゃんには土が似合うと思うよ。うちのゼミで学んだこと、全部活かせると思うしさ、どう? 一回会ってみない? マニュアル車の運転免許を持ってて、健康なら大歓迎だってさ」
 健太郎が紹介された職場こそが、父、母、娘の三人と男性従業員一人で少量多種品目の野菜を育てる零細農家の佐岡家だった。
 そこが家から県を三つもまたいだ先で、泊まり込みになるとは聞いていなかったが、すぐに距離などどうでもよくなった。イメージしていた仕事をする場とは余りにもかけ離れた、佐岡家の家族を受け入れるかのような情に厚いその待遇に、健太郎は純粋に感動した。零細農家が捻出できる給料は、都心での新卒の初任給を遥かに下回るものだし、ボーナスもない。しかし、部屋に引きこもって、日がな動画サイトでアニメを眺め続けてる健太郎を冷遇する実の家族よりも、余ほど家族扱いしてくれる佐岡家に、健太郎は二つ返事で「働かせてほしい」と頭を下げた。
 それから半年間、健太郎は佐岡家本宅のすぐ横の離れに部屋を用意してもらい、泊まり込みで働き続けた。
 野々村が【初夢草】の熱心な研究者であることは、健太郎が就農してから知ったことだ。作物栽培学の教授であることは在学中から知っていたが、少しオカルトな香りがするこんな薬草を研究し続けているとは驚きだった。健太郎は初継から聞いた【初夢草】の伝説を思い返して、「安定した生活を送りながら、仕事ではロマンを追うって男の憧れる生き方なんだろうな」と妙に納得した。
 そのため、紹介した見返りとして、「毎月一回、【初夢草】の生草を小指ほどの大きさでいいので研究室に送ってほしい」と野々村から懇願された。小売価格で買おうとすると希少価値が付いてとてつもない高さだし、第一生草を手に入れる機会は農家以外ではほぼ無に等しい。健太郎は快諾し、佐岡家には内密に、自分が『山の清掃』の当番になった時にこっそりと採取している。
 つまり、この取引は佐岡家を通さない、いわば窃盗行為なのだが、そんなことは健太郎の気力を阻害するものには全くならなかった。他にも、安月給に身体を酷使する作業の数々、コンビニに行くにも車で一時間という僻地への泊まり込み等々、働き手の気力を削ぐ要素は山ほどあった。それでも、佐岡家の家族同等の情の厚さに勝るデメリットを感じたことは一度もなかった。
 いや、佐岡家の一人娘、初実はつみに限っては、家族とは違う熱い感情が健太郎の体をたぎらせていた。これも立派な働き続ける理由なのかもしれない。その初実が、たとえーー。

 健太郎は、緑色の中に筋張った紫色が走っている【初夢草】の茎の天辺から、水筒の水をピペットを経由して垂らす。一、二、三、四、五滴。山に角が生えたようなその鋭利な茎の先から、水が素早く伝って、葉に隠れる。
 次に布巾で、葉の表面を優しく撫でるように拭いていく。【初夢草】の葉には、強烈な臭いのせいか、虫が寄り付かない。そのため、作業中に毒虫等に遭遇したことは一度もないが、葉を拭いた手には布巾越しでも臭いが染みつくため、これはこれで過酷だ。
 葉の表面の粗いざらつきは、爬虫類の皮膚を想起させる。頑丈でたくましく、風に揺れるとまるで大きな蛇がしっぽを振るったようにも見える。
 全ての葉を拭き終わると、一枚の葉の先を手でちぎって、チャック式のビニール袋に密閉する。これは、野々村に送る用だ。大概、採取したその日にクール便で発送している。
 残る作業は、畑の周りの清掃だ。畑は僅か二メートル四方だが、清掃の範囲は平地全体。畑の十倍、二十倍ではきかない広さで、これを一人で清掃しなければならない。とはいえ、枯れ葉が多く落ちている時期でもないし、雑草もぽつぽつとしか生えていない。
 今日はすぐに帰れそうだ、と見通しをつけ、健太郎は草刈り鎌を片手に、畑を囲む平地をぶらぶらと歩き出す。目に付いた雑草をから刈っていく。
〈君の、笑い声に、ハートブレェイク! イエス!〉
 携帯の着信音が、静かすぎる森にこだまする。健太郎の体が反射的に強張ったせいで、草刈り鎌が草を掴んでいる手をかすめる。
「痛っ」と呟き手を見ると、軍手の上から僅かに血が滲んでいる。浅い切り傷だった。
 ホッとして着信画面を見る。初継からだ。
「はい、もしもし」 
「…………」
 応答がない。しかし、物音は聞こえる。カチャカチャとガラスを重ねるような音に、テレビから流れるアナウンサーの規律的な話し声。それと、笑いを堪えているような息の細切れる音。
 健太郎は誰からの電話で、どんな内容なのか察しがついたが、言わずに応答を待つ。
「もしもし、聞こえますか」
「……あー!」
 初実の元気な声に、少し携帯から耳を遠ざける。
 言葉になっていない声を出しては笑い、出しては笑いを繰り返す。だんだんそれが楽しくなってきたのか、初実の声が徐々に高らかになってくる。
「あー! あー! あー!」
「初実さん、何の電話ですか」
 健太郎は初実の声に割り込む。数秒、初実が笑い治まるまで待つと、「お」と発し、続けた。
「ひやしちゅうかーはじめましたー」
 初実の声の後ろから、「飯だぞー、戻ってこーい」という初継の声が聞こえる。それに呼応し、初実も言う。
「めしだぞー」
 初実の声は電話越しでも、森に響いている。遠くで鳥が飛び立ったが、健太郎にはそれが初実の声に反応したように思えた。
 初実の声、ひとつひとつに健太郎は心を躍らせた。
 美声というわけでも、可愛らしい声でもない。荒っぽくて、快活で、跳ねているようなその声が、健太郎が作っていた他人への心の壁をいとも簡単に破壊してくれるのだ。
 健太郎は初実に恋をしている。それも佐岡家で働く立派な理由なのかもしれない。
 その初実がたとえ、脳障害を持っていても、健太郎の恋心には関係がなかった。


続く


●○●○●○●○●○

【罪状】暴行罪

初実が電話越しに健太郎に対し、突然大声を発したため。(大声が相手の意識を揺らすほどのものであった場合、暴行罪が成立します)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?