韓国の例に学ぶ「差別に見えない差別」 キム・ジヘさんの『差別はたいてい悪意のない人がする』
キム・ジヘさんの『差別はたいてい悪意のない人がする』は、医学書院のウエブ・マガジン「かんかん!」に連載している「『ことばを失う』の人類学:わたしをフィールド・ワークする」に「世間の理屈と<障害者>の理屈」を書くために「制度的差別」と「文化的差別」の良い例がないかと探していて読んだ本です。人権や差別論を研究する韓国人女性が書いた本で、ひじょうに心に残りました。もっとも「かんかん!」に書いたのは高史明(たか・ふみあき)さんと雨宮有里(あまみや・ゆり)さんの在日コリアンに関する社会心理学の論文に出てきた「古典的レイシズム」と「現代的レイシズム」という言葉だけです――わたしは最初、高史明さんは在日朝鮮人の小説家 コ・サミョンさんのことかと勘違いしてしまいましたが、それにしてもあのお歳で(コ・サミョンさんは1932年生まれ)心理学のデータ分析とはと怪訝に思いました。別人でした。いずれにしても、『差別はたいてい悪意のない人がする』は良い本ですが、今回の原稿には入れることができなかったので、書いておこうと思ったのです。
『差別はたいてい悪意のない人がする』を読んでいて、これはどこの国の話だか分からなくなりました。韓国も日本も、マジョリティの態度は同じだと感じたのです。あまりにマジョリティの力が強すぎて、マイノリティはどうすることもできない場面が多すぎるのです。
わたしにとって、韓国の事情が日本とまったく同じだと「発見」できたことは新鮮な驚きでした。なぜなら日本で韓国人や北朝鮮国籍の人は、共に「在日朝鮮人」、あるいは「在日コリアン」というマイノリティだからです。しかし、考えるまでも無く韓国人が韓国でマジョリティなのは当たり前のことでした。そしてマジョリティはマジョリティとして、マイノリティには同じような態度を取るのです(あまりにも当たり前です)。
このエッセイの中でキム・ジヘさんは、韓国では『差別はたいてい悪意のない人がする』実例を挙げていきます。話題になるのは「女性」「障害者」「セクシャル・マイノリティ」「移民」といったマイノリティです。
例えば「障害者」です。「障害者」は乗り合いバスは公共交通ですから、当然、乗る権利があります。そしてステップを一段一段上ったり、杖を突いていたりするので、バスの乗るには時間がかかります。キム・ジヘさんは大学の講義の中で障害者は乗り込むためには時間がかかると説明すると、講義の後の感想で
と書いてきた学生がいたというのです。この学生の感想は「効率主義」に根ざしています。何事もスピードが命だという、どこかの政治家の言葉そのものです。しかし、キム・ジヘさんはこの学生は(あるいはどこかの国の政治家は)「傾いた世界」に立って公平性を語っていると批判します。
今、日本では「障害者は時間がかかる」ことが当然だと思う空気が、少しずつ醸成されてきました。これは街に高齢者が増えたから「高齢者は時間がかかる」ことからの類推だと思います。しかし、効率が最優先の営利企業や公共事業体、あるいは国や地方のお役所でも、マイノリティに十分な「配慮」がないところは未だにあり過ぎるほどあります。つまり、社会全体には高齢者や障害者が多くいるが、このような事業体には高齢者が少ない(なぜなら定年で辞める高齢者がいるから)。いきおい障害者も少ない(なぜなら効率優先だから)。そういうことが関係しているのだと思います。
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三つ、ひじょうに印象に残った話題がありました。ひとつは2018年に起こった済州(チェジュ)島民のイエメン難民拒否事件(2章 私たちが立つ場所はひとつではない)、もうひとつはクィア・カルチャー・フェスティバルへのパレード中止要求、またそれに端を発したセクシャル・マイノリティに対する「偏見を動機とする犯罪」、つまり「ヘイトクライム」(7章 「私の視界に入らないでほしい」)です。そして三つ目は、韓国の維新体制時代の話題(8章 平等は変化への不安の先にある)です。韓国の維新体制というのは、1962年に軍事クーデターによって権力を握った朴正熙(チョンヒ)大統領による軍事独裁体制のこと(182ページ)です。
済州(チェジュ)島民のイエメン難民拒否事件というのは、観光客誘致のために入国手続きを簡略化していた済州島に、内乱を逃れて約500人のイエメン出身難民が押し寄せたが、済州島民はイエメン難民を拒否し、韓国はイエメン難民のノ―ビザ上陸許可を廃止したという事件です。背景にあったのは、一部の人のイスラム教やムスリムに対する嫌悪や偏見でした(ハンギョレ新聞社説「難民の日」を前に残念な韓国大統領府の掲示板)。キム・ジヘさんによると、この拒否は男性よりも女性で顕著だったそうです。理由として挙げられたのは「女性に対する性犯罪の可能性が高い」(44ページ)からでした。
日本も同じですが、自分たちと習慣や宗教、考え方が違う人に対しては、まず「受け入れる」のではなく、取りあえず「拒否する」のです。わたしの子ども時代は大阪の下町で育ちました。友だちには肌が浅黒く彫りの深い顔の子や肌の白いのっぺり顔の子が共にいて、バラエティに富んでいました。わたしは肌の白いのっぺり顔の方だったのですが、肌が浅黒く彫りの深い顔の子と学校のプールでいつまでも遊んでいると、教師から、早く上がれと言ったついでに肌の色をからかわれました。
わたしはインドネシアのスマトラ島で仕事をした経験があるのですが、そこで出会ったのは「他人に優しいムスレム」でした。またアフリカのカメルーンには、日本と行ったり来たりで4年以上の経験があります。そこで出会った人びとも「異教徒にやさしいムスレム」でした。もちろん、ムスリムにも「自爆テロ」とか「イスラム過激派」がいることはよく知っています。しかし、普通の村人はとことん優しい人びとでした。
わたしには、どうしてもイエメン出身の難民が犯罪性を秘めた人びとだとは信じられないのです。
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セクシャル・マイノリティに対する「偏見を動機とする犯罪」も、日本と似た状態にあります。ただ違うのは、キリスト教のプロテスタント団体が強硬に反対し、場合によっては暴力行為にまで及んでいることです(144ページ)。
なぜプロテスタント団体がセクシャル・マイノリティに反対するのか、その理由をぜひ知りたいと思いウエブで調べてみました。すると「韓国のイマを伝えるもっと!コリア」の「韓国のプロテスタントは、なぜクィア・カルチャー・フェスティバルを反対するのですか?」というページに、プロテスタントがセクシャル・マイノリティを拒否する理由が載っていました。
これを読んで、正直、わたしは困ってしまいました。これもまた日本の保守派の人びとの物言いと、あまりにも似かよっていたからです。韓国のキリスト教にせよ日本の神道にせよ、宗教上の物言いですから、それが普段の言い方とは異なっていることは承知しています。したがって宗教者に「その言い方はおかしい」などと目くじらを立てることを、わたしはしません。しかし、相手をことさら悪し様におとしめる物言いや、明らかに科学的にまちがった言い方は「おかしい」というべきだと考えます。例えば「都心で淫らな行為も見せて、汚く見える。」という言い方や「同性愛者の行動が変態らしい。」という言い方は、わたしにはセクシャル・マイノリティを悪し様に貶めているようにしか聞こえません。また「エイズなど性病を拡散する。」という言い方は科学的には間違っています。当然ですが、エイズ・ウイルスは異性間の性行為でも移りますし、一般の性病は同性愛者には限らず感染します。またエイズ・ウイルスは感染した人の血液に触れてだけでも移ります。さらに言えば、感染した母親の子宮や母乳から胎児や新生児に移る母子感染まで報告されているのです。
セクシャル・マイノリティはいくつかの都市で行うクィア・カルチャー・フェスティバルでパレードをしようと計画していたようです。2017年に開かれたフェスティバルは、反対派の妨害はあったものの、大邱(テグ)を皮切りに釜山(プサン)や済州(チェジュ)でも開かれたそうです。しかし、初期は妨害派によって潰され、行政も同調してフェスティバルやパレードを許可しませんでした。
韓国の一般の人たち(反対派の人たちではありません)は次のように言ったそうです。
まさに「現代的レイシズム」の言い方です。
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三つ目の韓国の維新体制時代の話題は、わたしの学部生であったころの記憶に繋がります。韓国の軍事クーデターで権力を握った朴正熙(チョンヒ)大統領による軍事独裁体制は、若いわたし達には重大事件でした。何人もの在日朝鮮人が韓国の大学で勉強をしていたときにスパイを疑われ、何年間も拘束され、拷問まで受けました。そのようなニュースが日本に届くたびに、日本の学生は、そして在日朝鮮人学生も、何をしても韓国の体制は変わらないのではないかと無力感を募らせていました。
その朴正熙(チョンヒ)大統領は側近によって暗殺されました。このニュースを知って、わたしは気が抜けました。彼は無敵だと思っていたからです。その頃からでしょうか、大学では、ほんの少しずつ政治の風が止んできたようです。
なぜキム・ジヘさんが維新体制時代の話を持ち出したのか不思議に思われた方もいるかもしれません。それは、世間では「悪法でも法は法だ」と言って守らなくてはいけないという人がいるが、もし本当に悪法なら、どこが悪法か、それを訴えることは正義だと主張したかったからなのです。
このデモに対して地下鉄を使用している市民たちは「市民を人質にしてどうするんだ!」「忙しい人たちを相手に、何をやってるんだ」(165ページ)「誰が(昇降機から落ちて)死ねって言った?」「あなたに障害者になれって言った人いる?」(177ページ)といったと激しい言葉で抗議したということです。つまり日常生活を妨げる他人のデモ行為を「公共の秩序」を乱す行為と断じたのです。
でも考えてみてください。ここで言う「公共」とは何でしょうか。それは突き詰めれば社会を構成するマジョリティということなのです。それならマイノリティは、デモを行った障害者です。そして「公共」の利益と障害者の意見を秤に掛けたとき、「公共」の利益が勝ると考えたのです。キム・ジヘさんはこれを「マジョリティの不寛容」とおとなしい言葉で表現しています。さらにキム・ジヘさんは、マイノリティは他に有効なコミュニケーション・チャンネルを持つことができず、「市民的不服従」に頼ることになったと言っています。
「市民的不服従」とは政治哲学者のジョン・ロールズの言葉です。ロールズは「必要な場合には『市民的不服従(civil disobedience)』を実践するほうが、むしろ民主主義社会において正義を実現する道になる。」(175ページ)という意味のことを言ったそうです。
実はこの障害者による「市民的不服従」によるデモの効果は、韓国ではまったくなかったようなのです(「障害者の移動権要求にも『嫌悪発言』ハンギョレ新聞_2022年3月28日付けなど)。日本だと、表向きは「障害者の移動権要求はもっともだ」と言いながら、裏では「嫌悪発言」もあるのかもしれませんが、それが韓国では露骨に思えます。
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この記事は医学書院のウエブ・マガジン「かんかん!」に「世間の理屈と<障害者>の理屈」を書くために目を通した文献の内、都合で使わなかったが、それでも記録として残しておきたいものとして書きました。
他には朝日新聞社のウエブ・マガジン「論座 RONZA」に「見えない『制度的差別』と『文化的差別』をどう乗り越えるか_本当の障害者雇用の姿とは~大学の場合」を書いたのですが、こちらは公開後48時間以後は有料になっています。
そうそう、「論座 RONZA」については、わたしの「わたしはもう一度生まれた~脳塞栓症にかかった人類学者の新たな研究テーマ」に対して、二階こうじさん(ペンネーム)が「私に国外移住を決意させた『正直、迷惑』~教員はどうか温かく迎え入れて」という反響を寄せて下さいました。