不器用な父さんなりの愛情
おはようございます。kohです。
今日は高校野球の思い出について書きます。
高校野球の思い出として残っているのは、父さんが抱きしめてくれたこと。
小学2年生から野球をやらせてもらっていた僕。
野球を始めたきっかけは、友達に少年野球団に誘われたからだったね。
周りに流されやすい性格は今でも変わらないけど、当時も内側から出てくる闘志みたいなものではなく、なんとなく始めたことを覚えています。
自分で言うのも変ですが、まあまあの才能を発揮してきました。
友達と夜にたまに素振りしたり、学校の昼休み、放課後に球技や運動をして遊ぶのが日課だったので、特段努力することなく、運動能力が上がっていったのかレギュラーを守り続けてきました。
僕自身まあまあ才能があった(何回も自分で言うな)ので、中学では、部活ではなく硬式野球クラブへ入りましたね。
ここで野球に対し力を入れ始めたと記憶してます。
しかし、このクラブでは少年野球時代にエースや4番として活躍した選手たちが集まっている。
中学の3年間在籍し続けましたが、レギュラーをとったのはほんの数か月だけ、力の差を思い知りました。
そして、高校の選択肢として、甲子園常連校か、将来の安定を見据えた高専か、迷い、結局高専へ入ったね。
入学理由は、就職率が100%、家から通えず寮生活になるから、「安定」と「新しい生活のワクワク」が手に入る、というよく分からない理由でした。
高専は、硬式野球クラブの選手と比べると、レベルは落ちる。
僕と同じように、野球ではなく勉強や就職を見据えて入ってる人ばかりだから。
それでも野球が好きで集まってきた部員たち。
楽しく野球をすることができ、まあまあ才能があった僕(3回目も言うな!)1年生からレギュラーとなれました。
しかし野球に対してそこまで努力することなく、なんとなく3年生まで来てしまいました。
レギュラーを確保し続け、1番バッター、3番バッター、ポジションはショート、と花形を任してもらうことも多く、それなりに活躍し続けましたが、特筆した成績を残すわけではありません。
そんな中、迎えた、甲子園へつながる市の地方大会。
これが高校生活最後の大会
大した努力はしてきてないのですが、目標だけは高く、とりあえずは市の大会で優勝し甲子園へつながる地方大会に出場したいと思ってました。
しかし、結果は2回戦負け。
プロ野球選手になりたいや、甲子園へ行きたい、は何となく小学生の時から思ってました。
しかし血のにじむような努力はしてこなかった。
人一倍、人目を気にする僕は、ベンチの中で大きな声で応援することも、守備で守ってるときに大きな声を出すこともしてきませんでした。
だけど、人一倍泣き虫で、小学生の時は三振をするたびに泣く。
大きな大会で負ければ泣く。
周りの人が泣いてればもらい泣きする(これはどうでもいいか)
最後の地方大会が終わった時、1つのぼんやり描いていた甲子園という目標が無くなり、挑戦する権利すら無くなり、1区切りというか、虚しさと悔しさが合わさり号泣してました。
試合が終わり、片づけをして、球場を出ても泣き続ける僕に父さんは「どうしたのー!!」と抱きしめてくれました。
言葉はどうかと思いますが、不器用な父さんならではの愛情が伝わりました。
毎日朝早く出て、夜中に返ってくる父さん。
休日も仕事ばかり。
だけど、小学生から高校まで、僕の野球の試合は、頻繁に見に来てくれた。
おそらく、父さんとしても、僕の高校野球の終わりが、1つの節目であることを悟ったのだと思う。(今思うとですね。)
「お疲れ様」の意味も込めて、抱きしめてくれたのだと思う
父さんも恥ずかしいから、そういう言葉は言えず「どうしたのー!!」になったのだと思う。
物心ついた時から、父さんが抱きしめてくれた記憶はこの1回だけ。
なので、僕の高校野球の1番の思い出として鮮明に覚えています。
今は普通にサラリーマンをしている30歳、1児の子を持つ僕。
虚しさや悔しさが残らない、毎日にしていきます。
今日も読んでくれてありがとう!!