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4年前の日記

どうも、筒子丸です。

何となく普段使ってる手帳の最初の方をパラパラとめくってたらnoteなんか書き始める遥か前、大いに病んでいた2020年に書いた日記が出て来た。それがちょうど4年後の自分に語りかけていて笑ってしまった。人の昔の日記なんて言う犬も食わないような物だが物好きな読者もいるかも知れんので載せてみる。稚拙な文にはなるが以下が日記の文章だ。


「お前いつも病んでただろw」
誰が言ったのかは覚えてないが、部の奴らの誰かだった事は確かだ。自分にはそんな気など微塵もなかったので驚いた事を覚えている。人生の意味だとか生きる目的などという底のない思考の穴に落ちて行ったのは少なくとも二十歳以降だと記憶している。その前から人目から見た自分は病みがちであった事実を自分はまだいまいち理解しきれていない。そもそも自分の「病む」の定義は人とは違うのではないか?彼女がいない事を嘆くのを病むと言うのであれば確かに自分は14,5の頃からずっと病んでいる事になる。だが、本気ではないにしろ「自殺」の2文字が頭をよぎったのはここ半年の話に違いない。自分の中で「病む」の定義があるとするなら、それは「自身の消滅を願う状態」が一番近いのかもしれない。この間の飲み会でGは言った。「俺やFならわかるけどお前が病むのはおかしいだろ。」と。ごもっともだ。自分のような何の苦労もしていない人間が鬱を自称するのは頑張った結果病んだ人間に対して無礼な気もする。だが現実として、自分は自殺願望というか消滅願望というか、そんなものを抱えているし、明日が来るのが怠いと言う考えも少なからずある。頑張った人間の鬱が「辛い。楽になりたい。」だとするなら自分の鬱は「面倒臭い。何もしたくない。」といった別の所から来る、世間一般に言う屑の考え方なのだろう。自分は屑なのだ。自分の中にある歪な自己愛のフィルターを通しても、これは紛れもない事実として認識できる。本当につくづく面倒臭い男なのだな、自分は。屑だと言う認識はあれど、自分はどこか人よりできるのだと心の隅で信じているし、死にたくない割には生きたくもない。働きたくもないが、親に寄生できる程面の皮も厚くない。なんだかもう八方塞がりな気がしている。自分はこの先「まとも」な人生を送れるのだろうか。まあ元から「まとも」な人生なんぞ送る気はさらさらないが。現実を一ミリも知らない箱入り息子(笑)からすると俺の天職は焼き芋屋らしい。とんだ天職だ。山と焼き芋。それが俺の生き方になるらしいのだ。4,5年後の自分がこれを読んだら腹を抱えて笑うのだろうな。「そんな訳ないだろ」と。人生はとことん先の見えない物なんだから。俺が14で初めて女に振られた頃、そこから7年間一度も告白しない事になるなんて1ミリも思わなかったし、糖尿になるとも思わなかった。小5の正月で親父とした電話が親父との最後の記憶になった事なんてそれこそ夢にも思わなかった。本当に病んでいると、親父が俺に失望しているんじゃないかと思う時もある。でも今、ある程度まともな状態な俺から言わせてもらう。んな訳あるかと。あの親父の事だ。悩んでんなぁ、若ぇなぁ、ぐらいの微笑ましい感じで見守っているのだろう。まあ親父との記憶で鮮明に覚えている物なぞ限られているので憶測でしかないが。
話は大分変わるが今伯父と会うべきか悩んでいる。この前会った時は殴ったろうかとも思ったが、親父とスーパードライを飲む夢が閉ざされたんならせめて奴とぐらいは飲みたいと思ってしまっている今日この頃でした。もう2時半回って眠いから寝る。おやすみ、これ読んでる、いつかもわからん俺。

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