幸せのかたち
絶望を希望に塗り替えたところで結局安物のペンキは剥がれ落ちて、何食わぬ顔でまた絶望は戻ってくるんだって。誰かが言っていた。
少女は前を歩く母を見ながら、生きてて良かった夜など自分には一生来ない気がしていた。
大袈裟にため息をつき、母はこちらを振り返った。
先々歩いたところで娘の住んでいる場所すら知らないくせに。
小走りで追いつき、仕方なく横に並ぶ。母は少女が口を開くのをじっと待っている。
動揺を悟られまいと、少女は汗ばんだ両手を前に組んだ。
「随分趣味が変わったんだね」
父は少なくとも、あんなに脂ぎっていなかったし、欲望にまみれたにおいもしなかった。
「そうかもね」
と母は応える。
「びっくりしたよ、こんなとこで会うなんてさ」
「お母さんもびっくりよ」
母が肩にかけていたカーディガンの位置を直した。
レモン色の薄いカーディガンと、胸元がレースで下がプリーツ加工になっている白の切り替えワンピース。そして華奢なヒールサンダル。いつにも増してフェミニンな格好だ。
「休暇中か何か? お父さんも来てるんだよね」
「あの人のことそんなに気になる?」
まるで他人みたいな言い方。
伏せた目を掬うように、母が視線を合わせてくる。いつのまにか少女の両肩には母の手がのっていた。
「お母さんとお父さん、離婚したの」
「は? どういうこと?」
『フリンってさ、何かダサくない?』『あれってそういうことだよね。わたし分かるよ、でもお母さんはお父さんのところに戻った方がいいと思うんだよね』『今回のことお父さんには黙ってるから、代わりに鼻の治療代恵んでよ』『フリンはいいけど、あのおじさんわたし好きじゃないな』
どのトーンでどの言葉を選択しようか考えあぐねていたところで、核心を突かれた。
「4ヶ月前」
少女の喉がヒュッと鳴った。
「……なんで?」
「うーん、方向性の違いっていうか」
やっと母の視線と手が外れる。
バンドじゃあるまいし! とヒステリックに叫びたいが、とてもそういう空気にはならない。母が淡々と地雷を落っことしていくので、少女はそれを慌てて土から掘り出し回収する。
「元々合わなかったのよ、決定的に。善男を横浜に行かせるのも私は反対だった。あなたの鼻を巡ってもかなり揉めた。色んな病院回ってドクターショッピングしたって意味ないでしょう。治らないんだから」
母はあくまで子どもの教育方針と健康問題が原因だと強調する。
「そもそも、武家の出の私とどっかの農民だかが、合うはずもないのよ。金の使いどころもとんちんかんで、家のこと何もやらなくて許されて。自分は一人で気楽に生活して仲間と毎日飲んで、ずるいと思わない? どうして私ばっかり窮屈な思いしなくちゃいけないの。ふざけないでって話」
果たして母は、こんなに饒舌になったことがかつてあっただろうか。
お父さんは納得してるの? お兄ちゃんにはもう話した? どうして今まで何も言ってくれなかったの? 家族ってさ、そういうもんだっけ? そんな簡単に、ハイ終わりって、そういう感じだったっけ? 何とか言いなよ、ねえ。
少女がいくら質問を投げかけても、不毛なやりとりは何も生み出さないといった具合に母は払いのけた。
代わりによく通る艶やかな声で言った。
「お母さん、今まで本当の恋したことなかったから」
そして何を思ったのか、母親って嫌われる役回りなのね、とぽそりと呟いた。呆れて何も言い返せなかった。母親の役ならあんたはとっくに降板している。
勝手に開き直って、一体どういうつもりなのか。腐っても母、腐っても家族、ではないのか。母と話していると、なぜかこちら側が全面的に悪い気がしてくるから不思議だ。
少女は叱られた後の小さな子どものように唇を噛み、項垂れた。
浮気された側に全く落ち度がないのは珍しく、何かしらあるはずだ。しかし少女はまるで思い当たらなかった。父が見限られる理由が。
今の父に、間違っても「人生は楽しいか?」と聞いてはいけない。
嘘でもいいから、父の方も浮気していてほしいと思うことはおかしいだろうか。別の、幸せな家族を持っていてほしい。最高の伴侶と結ばれるか宝くじで一等当てるかしなければ、あまりに釣り合いが取れないではないか。
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