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生きる意味に疲れたら

この世界とは、仮象である。
といえばなんとなくカッコつけた感じもする。
しかし、生まれた意味とか考えても、
結局は答えも出ずな毎日である。

ややもすれば、お父ちゃんとお母ちゃんが
一時的な盛り上がりの末に、勝手に生まれ落とされた
とかいう感じにも思わなくはない。
そう、我々はお父ちゃんとお母ちゃんの
一夜のアバンチュールによって、
作為的にこの世界に引っ張り込まれたのだ。

じつは、生きているというのは、
とてつもない無駄の上に成り立っている。

でも他人は、"良く生きよ"とか
"そんなんじゃダメ人間だ"、とか
"理知的に""道義的"やれ
挙句果てには、人生をまるっと否定されたりする。

ああ、生きるのって難しい...
それもそのはず、

ただ生きるのは食い物と屋根さえあれば
誰でも難なく出来るものだ。
しかし、人間というものは厄介なもので、
特に集団で生きるから、とやかく言われるのである。
この群れには、ナゾの規則があって
ナゾのTPOがあって、さらに困った事に
礼儀を尽くさねばならないという地獄っぷり。
それにこれぜーんぶ群れの維持ためのコストである。

このように、人間というのは、
"ただ食う"、"ただ寝る"といった事をする為に
わざわざ"意義"を付け加えるのだ。

なぜなんだろう?
困った人が居れば、
持ってるもので助ければ良いではないか。
持ってなければ、あげれば良いじゃないか。
もし何もなければ、一緒に探せば良いじゃないか。
と、色んな疑問が起こるけど、
人間というのは、いちいちそこにクレジットを結び
相手を縛ろうとするのだ。

霊長類学では、こんな面白い話がある。
とある群れが安定的に維持可能となる数は150人である。
これ、ダンバー数といって、この数の範囲なら
なんにもクレジットで縛る必要も、
群れ内でも諍いがあまり起こらない理想的な数らしい。

つまり、今の日本は群れの構成としては、
まったくのダメダメなのである。
このように人数が多すぎるから、
ヘンに働く意義を強調するし、
妙に真面目に生きる事を押し付けられるのである。

そうすべては、群れの維持のためである。
人間は、群れの維持のために病んで行くし、
最悪、自殺していく。
いくら命の尊さを説こうが、一向に減らないのは、
そもそも命の"尊さ"というものが、ダメダメなのである。

勤労の尊さ、聖人君子のような清やかさ、
我慢の精神 etc
のような"尊さ"を面前に、絶望して来たのに、
さらにその予想斜めを行く、"ネオ・尊さ"の概念で
死ぬのを抑え込むのは、もはや本末絶倒なのだ。

人間とは、群れの前に1人の人である。
1人の人の前には、
お父ちゃんとお母ちゃんのアバンチュールがあった。
生きるために必死なのは、また毎日辛いのは、
それは"食うため"、"寝るため"ではない。
それは、多すぎる群れを維持するためである。

だから、みやすけはもっと小さく群れろ、と言う。
どんどん小さくなって、勤労の意義とか、
社交辞令とか、真面目な人生から、
どんどん逃げろ。
そして、小さな仲間で助け合いながら生きろ。

一夜のアバンチュールでできた子供なら、
その子どもが仲間の元へ巣立てるまで、面倒を見ろ。
生きる意味なんか、考えるな。
そんなもん本質的に無いのだから。
生きる意味を考える事、
それこそクレジットで自分を縛る行為だ。

クレジットというムダなもので、生きる事に臆病になるな。
むしろ、生きること自体、全部まるっとムダなんだから。

そうだ、こんなムダなんかのために病む必要なんて、ないのだ。

人間よ、今こそ
胸に秘めたる大志を今すぐに全部棄てよ!

そんな君は今日から自由だ。Fuu〜(^-^)

#コラム #生きる意味 #死にたい #社会とは #辛い

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