コーヒーポットと天秤
「(ガラスの割れる音)」
嫌な予感よりも先に、「やっちまったかー」と確信する。
振り返ると、息子がガラスのポットを持ちながら床を茫然と見つめている。どうやら、ガラスの蓋だけ落下して割れたらしい。泣き喚きもガラス片を拾おうともせず、「ヤバイ」に瞬間凍結されたように立ち尽くす息子を見て、ぼくは、不思議と愛しいなと思った。ただ純粋で一切の他意のない姿は、人間本来の姿ではないかとも思った。
人は、成長するに従ってシミの消し方ばかりを学ぶ。
さて、まもなく女性の店員さんが来てくれたのですが、「ケガはない!?大丈夫!?」と、かがんで息子を気遣ってくれた姿を見て、自分の大切な息子を大切にしてくれて嬉しく思った。
「いや、まずあんたが子どもを心配しろよ。なにボーッと見てんねん、アホか。」
と、ぼくも思う。今思い返しても、愛しい嬉しいだのと惚けて、アホかと思う。ただ、それよりも、「息子にケガもないし商品もそんなに高くないだろうから、弁償したらいいか」と、状況を「冷静に」分析していただろう自分に腹が立つ。冷静さを履き違えて、シミを消そうとしていた。しかも、その後息子に、「お姉さんにごめんなさいって言おうね」とか言った。ほんと大バカ者でしかない。
結局、買い取らなくてもよかったのだが、同じデザインの新品を買った。親の責任や申し訳なさも感じたが、それよりも自分の罪滅ぼしのためだと思う。
正直に告白すると、商品代と同じだけ本当に必要な他の商品を買おうかとも思った。くだらない合理性を働かせてしまった自分に腹が立つ。また、ハロウィンキャンペーンでお菓子のつかみ取りをしていたのだが、臆面もなくつかみ取ってしまった。やはり、そこは遠慮すべきではなかったか。
その後も、息子や自分に対する罪悪感と釣り合うように善行(抱っこしてあげるとか)を積んで、天秤の平衡を目指していた自分が情けない。
このコーヒーポットで淹れるコーヒーは、苦いだろうな、と思う。
思い出のコップに注いだら、天秤は釣り合うだろうか。