明日へのことば(観察型ドキュメンタリー「マルガーシ」制作後記)
私は、その土地とそこで生きる人々について、
ほとんど何の知識も持ち合わせてはいなかった。
「こんにちは」の言い方さえ知らずに、唯一私が抱えていたものは、
「どうか、あなたがたの一員に加えてもらえないだろうか」と
強く願う、少し遠慮がちな気持ちだけだった。
実践と撮影にあたり、講義でかじっただけの文化人類学の「参与観察」を意識した。でもきっとそんなものは必要なかった。
分かつことを前提に据えていることが既に烏滸がましく、浅ましかったのかもしれない。この世界は、記録して残すに値する美しいもので溢れている。
私たちがそれらを見出すことを諦めなければ。
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|明日へのことば(帰国する飛行機の中から)
なぜか、「今のうちに会いに行かなければ」という
静かな焦燥がずっとあった。
でも今振り返れば、
いろいろと小難しい理由をつけてみたものの、
ひとえに「思い出」をつくりたいと思ったんだ。
かたちあるものがいつしかは崩れ、新たなかたちを成していくように、
大いなる自然も、文化も、そこに根づく人々の在り方も、
暇もなく関与と出入りをくりかえして、
ほどかれて、結ばれて、またほどかれて、
更新され続けていく。
同じものがずっとそこにあることを
誰も約束することはできないのだから。
バヤンビレグさんの長兄の息子が、遊牧民としての生き方を継ぐ決意をしたように、その営みからは外れ、都会へ出る決意をする者、勉学に励み、世界への好奇心と見分を育んで、己が国のアイデンティティたるその営みを、実践者ではない立場から支えようとする者もいる。人の数だけ、そこから生まれる分岐点は幾重にも広がりと奥行きを見せていく。
「だから、今のこの瞬間を見たかったんだ」。
変わってしまう前の、
いや、変わりゆくかもしれないこの瞬間に、
自分の五感を浸して、
同じ時を、同じ場所で
生きて、目撃したかった。
この旅を経て、
なにか人生をひっくり返されるような経験をしたわけではない。
常に刺激に溢れた毎日がそこにあったわけでもない。
正直なところ、普通に退屈な日も多かったし
「予想通りだ」と思った経験も少なくはなかった。
ただ、自分はそこで一員として参加し、
介在して、
その一部始終をともに目撃して、見守った。
モンゴルはもう只の遠い異国の地ではないし、
遊牧民はもう神秘的で現実離れした神秘的な存在ではない。
遠かった存在を、まるで身内のように感じている。
そう、自分には新しい家族ができたんだ。
遠い土地で、異なる言葉で、
まるで自分とは違う暮らしをしながら、
それでも同じ時を生きている、そんな人々の家族が。
土地は、思い出を介在して色を持ち始め、
旅は、人を介在して奥行きを持ち始める。
新たな家族を得た旅は、
人生にどんな広がりと奥行きをもたらしてくれるだろうか。
お腹の底をカリカリと掻かれるような
寂しい気持ちを押し込めて、ふっと思いを馳せるのは
予想もつかない自分の「これから」。
草の大海原で、大地をしかと踏みしめて、
全力で今を駆け往く彼らから僕が受け取ったものは、明日を肯定していうエネルギーだった。
頑張って歩いていくから、
なぁ人生よ、一緒に予想外を生きていこうよ。
子どもたちいつしか大人になったとき
確かにそこにあった心の故郷にいつでも帰ることができるような、
童心に立ち返り、あの夏の草原を思い熾すことができるような、
そんなひととときのためにこのビデオを捧げたい。
これは、まだ見えぬ明日への
ケアであり、
祈りであり、
讃歌なのである。
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|観察映画とは
ドキュメンタリー映画のスタイルのこと。社会の不正を暴き、啓発するようなものが多いドキュメンタリーとは少し異なり、60年代のアメリカで勃興したダイレクト・シネマに端を発する、実際の生活の状況の記録を目指すものを指します。観察映画の手法に則った民族誌的な映画制作は、人類学的な調査の一部としても認められており、ナレーションやテロップによる説明、BGM等がない、などの特徴もあります。
日本で観察映画の作成に取り組む映画作家、想田和弘氏によれば、
この映像は「記録する価値がある」という前提に則り、文化人類学で言うところの参与観察や、上記に述べる観察映画のスタイルをリスペクトしつつ、人生にすばらしい光を与えてくれた遊牧民の一家へ送る感謝のホームビデオでもあります。