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2005年、満州国・新京(長春)訪問記

はじめて中国に行ったのは、ある製造業の会社で設計をしていた39歳の時だった。当時ワタシが担当していた製品に、ドイツ・メーカーの部品を採用した。それまでの日本製部品と比べ、その設計の妙に惚れたというのは表向きの理由で、裏の理由は欧州に出張したいからでもあった。その製品がいよいよ量産準備に入り、新しく取引するそのメーカーの生産工程を視察する話があがった。もちろん、設計担当者であったワタシもちゃっかり我先に手を上げ参加することになったのであるが、なんと生産国はドイツではなく中国工場だという。すっかり当てが外れた形だが、これがはじめて中国に足を踏み入れることになった理由である。

出張先は中国東北部の街、長春市。昔の満州国首都、新京である。映画「ラストエンペラー」でみた皇帝溥儀のあの満州国である。なんだか日本と縁が深いようで、いまだに日本人が良い印象を持たれていないのではないかと不安になる場所だ。

北京で入国審査を受けているので、長春空港では何も検査されずにスルッと税関を通過した。開港したばかりの長春空港の内装はまだ整備途中で、チェックインカウンターは昭和時代の会議室にあった長机のような古テーブルで業務をしていたし、ゲート内外の区別すら曖昧であった。

空港から市内へは、出来たばかりでまだ誰も使っていない高速道路が通っていた。ワタシたちの乗ったクルマは真新しい道路を独占使用できる状態だったが、ところどころで牛を引いた農民が横断するので注意が必要である。

そんな高速道路を走って市街地に入ると、車とバイクと電車と人力車がひしめき合う超混雑した交差点が連続する。ドライバーは片手でずっとクラクションを鳴らし続け、街の中心部にあるシャングリ・ラ・ホテルに到着した。シャングリ・ラといえば、香港旅行の際にちょっとトイレを拝借しに立ち寄ったことしかない超高級ホテルである。現地のメーカーが、そこのビジネススイートを用意してくれていた(といっても支払いは自前である)。

はじめての中国。到着後、早速街に出てみると、そこには想像通りのディープな中国が広がっていた。そこら中にある屋台では、日本の10倍はあろうかという超ビッグな焼き鳥やマトンの串焼きが2〜3元(約40〜60円)で売られていた。1本でかなりおなかいっぱいになる。ローカル感満載の本場マッサージ屋に入ると、足裏マッサージが1時間10元(約200円)だった。いきなり大やけどするかのような薬草入りの熱湯を足に掛けられ、何か硬い石のようなものでベテランマッサージ師にゴリゴリやられ、涙を流しながら20分で逃げ出した。道路の片隅では、床屋が客の髪を切っていた。

現地の取引先に連れて行ってもらったレストランで食べた食事は、どこもとても美味しく、日本とはまったく違うハイレベルのガチ中華料理だった。ある日、郊外のレストランに連れられて行った。そこはジャングルの中にテーブルがそこかしこに置かれているような雰囲気のあるところで、ガチョウがガーガー鳴いて走り回るレストランだった。そんな中で食べるガチョウバーベキューは最高であった。

仕事は予定通り終了し、その部品は無事量産開始された。その出張の数ヶ月後、ワタシは会社を退職し外資系企業に転職した。

約1年後、すでに外資系企業に転職していたワタシは、GW初日に妻とショッピングを楽しんでいた。すると会社に持たされていた携帯電話が鳴った。直属の上司からだった。嫌な予感しかない。上司曰く、連休中できるだけ早い日に急遽海外出張をしてくれと。行き先は中国・長春である。そう、実はそのドイツ部品メーカーの日本支社に転職していたのだ。

ワタシが転職した後、その部品は量産されたのだが、案の定と言うか何と言うか、経験不足の中国工場の生産で初期不具合を連発していた。連休中に不具合対策を進め、連休明けに工場訪問する元同僚たちを迎え撃つのがワタシのミッションであった。新しい外資系企業でワタシはその部品とは違う部品を担当していたのであるが、過去の経緯をよく知る者として急遽応援する羽目になったのである。すぐに目の前にあった旅行社のデスクに飛び込んで、仙台発長春行きの中国東方航空の便を押さえ、2日後に再度長春を訪れたのである。

1年で長春はものすごく進化していた。以前とは全く違うピカピカの内装が整備された空港。もう牛が横切ることのない高速道路。空港にはたくさんの客待ちタクシー。当時の中国の目覚ましい発展と、そのスピードに圧倒されたのであった。

現地の工場に入ると、客として見るのと中から同僚の立場で見るのとでは、まったく違う見え方がした。1年前の出張時には顔を見なかった若いメンバーが多く、一から直さなければならないところが山積みであった。とても短期間では根本的には解決できないが、なんとか体裁だけでも整えて元同僚たちの厳しい視察をクリアした。

もちろん夜はガチョウバーベキューと老酒でカンペイし、その後カラオケのフルコースでバッチリ接待もした。元同僚たちにはシャングリ・ラ・ホテルを予約し、我々は隣のローカルホテルで朝食に中華粥をすすっていた。わずか1年で主従逆転、厳しい現実の中で外資系企業社員としての新しい社会人人生が始まったことを実感した。中国の発展スピードに負けず劣らず2000年代始めのワタシの人生も、ものすごくダイナミックに変化していたのだった。