【濱口竜介特集第一弾】これぞ濱口竜介!最も高純度な濱口作品『親密さ』を語る
どうもグッドウォッチメンズの大ちゃんです。
前回の記事の予告通り、ここからしばらくは以前高知で鑑賞した濱口竜介監督の作品のレビューをアップしていこうと思います。
今回紹介する作品は
『親密さ』
2012年公開
監督・脚本 濱口竜介
製作 工藤渉
主演 平野鈴
佐藤亮
出演 伊藤綾子
田山幹雄
手塚加奈子
新井徹
菅井義久
香取あき
土谷林福
渡辺拓真
ENBUゼミナールの映像俳優コースの卒業制作として製作されたこの作品。
上記、キャストを列挙しましたが、お気づきの通り著名な俳優はほぼ出演していないというこの作品がいかにして濱口竜介監督作品史上最も純度の高い濱口作品になり得ているかを私なりに綴っていきます。
まず、ストーリーは至ってシンプル。
演劇の公演を控える大学生カップルが演劇を上演するまでの右往左往を描いた物語。
ただし、普通の作品と一味違うのは本作では、その演劇を2時間強まるごと上演するのです。よって、4時間15分という普通の商業映画では成立しない長尺となっています。
(ハッピーアワーはどうなるんだという話ですが...)
このような構成もあってフィクションとドキュメンタリーの境界が極めて曖昧な作品と言えるでしょう。
演劇が上演されるまでの稽古のシーンや人間関係の変化はドキュメンタリータッチで描かれていますが、役名がある通りこのパートは構成上フィクションということができます。
そして演劇そのものは物語に沿って進行するわけですから、このパートをフィクションと言うこともできますが、ここで重要なのは通常の劇映画の劇中劇とは異なり役者が丸々その演劇を演じていること。
役名がついたフィクションのレイヤーの上に実際に上演もされた演劇の本番という最もドキュメンタリックなシチュエーションが乗っかってきます。
自分でも書いていて頭がどうにかなりそうなほどの入れ子構造です。
実際に行われた上演なため、演劇を鑑賞する観客が存在します。
さらにそれを映画館のスクリーンを通して観る私たち観客が存在するといういわゆるメタ構造というやつですね。
(ちなみに演劇本編内で朗読劇を鑑賞しに行くシーンがあるので、さらに観客の存在のレイヤーが増えるシーンもあります)
極端に難解なわけではありませんが、このような「演じる」ことから生まれる入れ子構造を生かした作劇は濱口監督が得意とするところ。
代表作でもある『ドライブ・マイ・カー』や『偶然と想像』、『寝ても覚めても』でも登場人物が別の誰かを演じるシーンが存在します。
もはや劇中劇ではない『親密さ』は演じることで人間が別の何かに変わっていくところを濱口作品で最も克明に捉えられていると思います。
しかし、演技による化学反応、俗に言う”何かが起こる”瞬間は容易に捉えられるものではないと濱口監督は過去のインタビューでも仰っています。
なぜかカメラは映ってほしいものが映らず、映ってほしくないもの、映らなくていいものを捉えてしまうと。
このような濱口監督の思想ははっきり、『親密さ』の中で語られています。
主人公である、脚本家兼俳優の良平と演出家の令子が自分たちが撮影した稽古のビデオを見ながら「もっと凄いことが起きていたような気がしたのに」と残酷な現実を突きつけられます。(このシーンでは殊更感傷的に描かれているわけではありませんが)
また帰り道の電車のシーンでは、出演する俳優たちに向かって良平が彼らしい気障なものいいで「お前たちが短所や弱さだと思っているところが長所にだってなりうることがある。そういう脚本になっている」と伝えますね。
どこからどう見ても普通の学生にしか見えない人たちが演劇本編が始まると見違えるような生き生きとして演技を始めるこの映画の構成を予告しているようなセリフです。
今回のレビューでは詳細は語りませんが、この乗り物使いも濱口作品の魅力のひとつです。本作のラストシーンも多くは語りませんが、濱口節炸裂なのです。。
しかし、改めて見てみると裏方に専念する予定だった主人公がいろいろあって自分で演じることになったり、スカイプで国際通話をするシーンがあったりと『ドライブ・マイ・カー』との共通点の多さに驚かされました。
今回の特集上映で両作を見比べることができたのも自分にとっては収穫でした。
劇中劇の扱い方の違いについてはまた改めて『ドライブ・マイ・カー』のレビューの際に触れようかと思っております。
やや本筋から脱線しますが、私が今作で好きなところは、大きい世界の苦しみも小さい世界の苦しみも等しく扱っているところです。
韓国で戦争に参戦しなければいけない兄を持つキャストも良平と令子が完遂しなければいけない目の前の演劇も当人たちから見ると、そもそも単純に比較などできませんが同じくらい大きな出来事として語られます。
演劇本編で語られるトランスジェンダーの俳優の詩も良平が演じる男の詩も、前者の方が意義があり言葉を選ばずにいうと共感が得られやすいものだと思いますが、同じ世界で等しく扱われているように思いました。
決して自分自身に物語を抱えているわけではなくても何かを表現することにさして差はないのではないかというように。個人的な解釈では題材の大小より、当人にとっての切実さがどれくらいのものなのかということが本作では重視されているのではないでしょうか。当たり前ですが、存在する人の数だけ世界の見え方は違いますからね。
登場人物たちから見るとそれこそが世界のすべてと言えそうな演劇の本番もあらゆる多角性をもってここだけが世界のすべてではないと訴えてくるような気が私にはしました。
演劇を移す記録映像としては、カメラワークでコントロールされる場面が通常より多いと感じたからです。
おおよそ演劇本編を丸々、劇中で流すとなると正面の定点カメラ、俳優に向けられたアップのカメラを程よく織り交ぜて構成することを想像するのではないでしょうか。
しかし、本作では舞台上では離れた場所にいる人物が、さも隣同士に座っているような見せ方をしたり、正面から向かい合って話しているような見せ方をしています。
それこそまさしく映画のカメラアングルのようにです。
ここをただの演劇本編と捉えずに演劇でありながら映画としても扱っている作品上の態度も本作の見どころだと思っています。
演劇をする俳優たちを当人とするならば、演劇を鑑賞している観客は他者と言えるでしょう。そしてその他者の中にだれよりも当事者と言える演出家の令子が存在する。
またしても入れ子構造です。
この演劇をみて令子は何を感じるのか。直接的に映画内で語られることはありませんが、そこから生まれた何かがあの感動的なラストシーンに繋がっているといえるでしょう。
そして、演劇本編を見ていてまた面白いことが、前半パートでは存在感が薄かった登場人物たちが前述の通り、見違えるほど演劇上では魅力的な人物に映っているということです。
この演劇の演出自体は『親密さ』の主演も兼ねている平野鈴さんが担当しているとのことですが、これはいったいどういう魔法がかかっているのでしょうか。
特に主人公の腹違いの妹役を演じるあの俳優を見ると、なんだか心が搔きむしられます。
あまり詳細を触れると未鑑賞の方にもったいないのでここで多くは語りませんが、演劇本編内の関係性も結構複雑でその複雑さが意外なところで絡み合う様子が面白きまずい会話劇になっています。
当然ではありますが、この演劇自体が退屈なものだとこの作品は成立しえないので、演劇本編のストーリーもみどころのひとつです。
ありえないほどの長回しで撮られる夜明けの散歩シーンや電車を余りに効果的に使ったラストシーンなどまだまだ書きたいことは山積みですが、僕がどれだけ知恵を振り絞った文章を書いても焼き尽くされたあの鮮明な映像を前にすると乏しさが目に見えているのでここでは控えることとします。
なかなか鑑賞難易度が高いのが玉に瑕ですが、現在の濱口竜介につながる原点としてとても意義深い作品になっていることは間違いないです。
しっかり4時間15分時間を確保してこの世界に浸ってくれる方が少しでも増えることを願ってこのブログを結ばせていただきます。