【濱口竜介特集第三弾】あらゆる要素が折り重なる名画『ドライブ・マイ・カー』の神髄について
しばらくご無沙汰していたこの企画を復活させます。
高知県民文化会館で行われた濱口竜介監督特集上映会による、
鑑賞全作品レビューです。
なぜ、ここまで間が空いたかというと、それは怠惰のひとことに尽きます。
自分にとって、『ドライブ・マイ・カー』、また後日に投稿する予定の
『寝ても覚めても』は特別な映画過ぎて、言葉にすることがとても難しいのです。
取り繕ったものになってしまいわないよう、何度も頭で思考を巡らせ何を語ろうか逡巡しておりました。
しかし、そんなこと言っていては書けるものも一生書けないので今こうして、PCと対峙している次第です。
そういえば、4月6日に刊行された『ドライブ・マイ・カー論』ですが、これは本当に素晴らしい書籍でした。
ほぼ毎日「濱口竜介」をTwitterで検索している私にとって、読んでいない評論はほぼないのではないかと思っていましたが、どれも目から鱗の内容で、『ドライブ・マイ・カー』の評論ベスト盤と言えるような1冊です。
このブログを読んでいる暇があるなら、すぐ購入して読んでみることをお勧めします(笑)
そんな冗談はさておき、世論に飛び交う各々の『ドライブ・マイ・カー論』に真摯に耳を傾ける一方で、当記事ではなるべく私が感じたことを私の言葉で語っていく所存です。さあ、いくぞ。
まず、ここで触れる事柄についてです。
1.スタッフワークの素晴らしさ
『ドライブ・マイ・カー』が世界的に評価されている所以として、
喪失と再生の物語がコロナ禍の世界とリンクし多大な感動をもたらしたことが挙げられます。テーマの今日性が日本だけでなくヨーロッパやアメリカでも評価されたのは誰もが知るところです。
当の私もその重層的でありながらシンプルで力強いメッセージに感動させられた観客の一人でした。
ところが、本作の中で意外と語られていない文脈があるとしたら、それは撮影、編集、録音などのスタッフワークの尽力ではないでしょうか。
私は映画を専門的な場所で学んだことがあるわけではないので、ここに書ける内容は限られてきます。
それでも、繊細で計算し尽くされた美しい映像、音声による情報量が少ないと言われる日本語でもクリアに聞こえるセリフ、これ以上ないというタイミングで切り替わるカットや省略の滑らかさを発揮する編集。
これらに言及しないことは本作を語る上であり得ないと断言できます。
(決して従来の批評を貶しているわけではないです、『ドライブ・マイ・カー論』にも素晴らしい分析が記されていました。)
まず、撮影の四宮秀俊さん。
三宅唱監督とのタッグで知られていますが、2010年代以降の日本映画の重要作にはほとんどこの人が絡んでいると言っても過言ではありません。
濱口監督は俳優の動きを制限せずに、重厚でクラシカルな画面をカメラマンに求めると言います。ある程度想像がつきますが、カメラのフレームに収まるには俳優の動きは制限されるもの。俳優の動きについていこうとするとカメラが忙しなくなりアングルが安定せず、格調高い画面からはほど遠くなります。つまり、このふたつの要素はかなり矛盾していると言えます。
しかも、本作に限っては第二の主役と言える赤いサーブ900の動きも捉えなくてはいけないので、撮影の難易度はかなり高かったはずです。
それでも、俳優の演技を生かすことを前提にカメラで物語を語りすぎない絶妙な演技とカメラの調和が本作では作り出されていたと思います。
かなり抽象的な表現で恐縮ですが、場面ごとによって映すべき優先順位を全く間違っていないと感じました。なんというか距離感が絶妙なのです。
これほどの技量があるカメラマンなので、ザ・映像美といった感じでキメキメの映像を撮りたくなりそうですが、物語と俳優に奉仕したカメラからなる映像に潜在的に美しさを感じるようでした。
四宮さんの映像は青を基調とした映像を多用されますが、これが赤いサーブと抜群の相性でしたね。
原作では黄色のオープンカーだったサーブ。
結果的には赤色への変更は英断だったと言わざるを得ません。
次に音。サウンドの音。
奇しくも、主人公家福の妻のこととも重なるところですが、この映画は音も本当に素晴らしいんです。
音声、環境音、劇伴。これらが心地よく有機的に絡まってきます。
まず、セリフがこんなに聴き取りやすい日本映画は滅多にありません。
どうしても、日本語は音で聴くより文字で見ることによる情報量が多い言語のため仕方ないですが、セリフが聴き取りにくい日本映画は多くあります。濱口監督の映画は基本的に会話のベースがとても大きいので、セリフが聞き取れないとどうにもなりません。徹底的に繰り返される本読みの成果もあるでしょうが、今作に限らず濱口監督作品はセリフが立体的にこちらまで突き刺さってくるような感覚があります。不自然なまでにはっきり発話されるセリフは一見リアリティを損なうものに見えかねませんが、そこは文学的なセリフの美しさと俳優による芯が通った声により、本当のものとして浮かび上がってきます。村上春樹原作と濱口監督作品はこの点でも抜群の相性だったのかもしれません。
そのような美しいセリフの数々を余すことなく正確に拾い切った録音の
伊豆田廉明さんのお仕事は素晴らしいものがありました。
それと、車の走行音などの環境音。ほどよいノイズが映画の世界観をリアリティあるものに底上げしてくれますが、これほど車の音が流れている映画は珍しいような気がします。三浦透子さん演じるみさきの心地よい運転もありますが、このほどよいノイズとなる車の走行音が観客を映画の内側にいるような感覚をもたらします。まさしく、映画を観ていることを忘れるようです。家福はみさきの運転を「加速も減速も滑らかでほとんど重力を感じない。彼女の運転は車に乗っていることも忘れてしまうようだ」と評します。
これはつまり、観客に対しての挑戦状とも言えるセリフです。
これを言ったからには観客を映画を観ることを忘れさせるほど没入させなければ説得力が薄まってしまいます。
そこを補う車の走行音や風など環境音の程よい絡まり合いがとても心地よかったです。専門的なことは不勉強で分かりかねますが、リレコーディングミキサーの野村みきさんの功績も大きいのでしょうか。
そして、海外でも評価されている石橋英子さんの劇伴。
もうこれは美しすぎてサントラ単体でも何度も聴いてしまっています。
ここでも、自然とシーンと溶け合うような繊細な音楽使いが随所に発揮されています。同じような表現を多用しますが、いい意味で音楽が使われていることを忘れるようです。
今作では映画のシーンを盛り上げるよりも、そっとそこにいるような緊張した観客の心を解きほぐすような作用がありました。
そこがこの映画が最終的にはたどり着く、どこか前向きな着地にとてもフィットしていたかのように感じます。本当に素晴らしい音楽でした。
そして、編集。
これに関しては本当にもっと指摘があっていいのではないかと思います。
なんといっても今作は179分という商業映画としてはかなりの長尺です。
それを最後まで退屈させずに、鑑賞するのは観客の立場からするとそれなりの負担ではあります。ところが、この映画を観て長く感じたという人は少ないのではないでしょうか。
無駄な回想シーンに入らず、現在軸のみで展開されていく物語構成という面もありますが、なんといってもリズム感のよさ。
決してテンポよく進むというタイプの映画ではないと思います。
本読みのシーンなど、濱口監督作品を知らない人からすると、意図がかなり掴みにくいでしょう。それでも安全運転で走行するサーブの如く、心地よい映画体験と感じさせるのは編集の力が大きいです。
カットとカットのつなぎ目がこんなに気持ち良いと感じたのは初めてでした。ある場面では扉を閉める音をきっかけとして鋭く次のカットへ切り替わり、ある場面では歪な形で次のシーンのセリフが前のシーンに食い込んでくるように切り替わる。地味のところでは「2週間後」「2年後」などテロップが入るタイミングも絶妙です。あの高槻の独白のシーンも家福のリアクションが時折挿入されますが、それもこれ以上ないタイミングですよね。
時に滑らかに、時におぞましく進行していくこの『ドライブ・マイ・カー』。その鑑賞時の感覚を下支えしていたのは編集によるところが大きいと私は思っています。
濱口竜介監督は、今作の魅力を聴かれた際に答えた言葉として、
「決してわかりやすい娯楽作というわけではないが、面白くあろうとし続けている」という旨の言葉を残しました。
監督の言葉通り、物語の展開と着地自体は普遍的でシンプルな映画ではありますが、人によっては淡々としていて退屈だったと言われてしまいかねないこの映画。
それでも、映像なのか、音楽なのか、映画全体のリズムなのか、観客をなんとか着地まで連れていくという創意工夫は全編にわたって施されています。
映画は総合芸術と言われています。
この素晴らしい映画をここまでのクオリティに押し上げたのは紛れもなくスタッフの方々の力が大きいです。
ここでは一部の方にしか触れられていませんが、その方々の多大なる貢献はもっと取り上げられていいものだと私は思っています。
2.秀逸な劇中劇使い
濱口竜介監督作品では、映画の登場人物が劇中で演技を行うことで、
フィクションとドキュメンタリーの境界が曖昧になるという話を
『親密さ』レビューの際に書きました。
『親密さ』は演じることで、俳優そのものが別の存在に変わっていく様を克明に映し出した作品と言いましたが、『親密さ』で描きたかったことを今作ではより洗練された形でフィクションに落とし込まれていると感じます。
演技がとても重要なモチーフになっていること、主人公が演劇の俳優かつ演出家であることを筆頭に『親密さ』と『ドライブ・マイ・カー』はかなり共通点が多い作品だと言えます。
私が考える『ドライブ・マイ・カー』内の劇中劇がもたらす効果は以下の通りです。
〇家福の人物像を示すモチーフ
演技を生業としている、家福は通常の人間より理性的な感情のコントロールができる人物ということが窺えます。日頃の語り口もどこか芝居がかったような淡々とした文学的な話し方をしていますね。
序盤から劇中劇による演技をしている様子を見せて家福の人物像を示すことで、妻の浮気の目撃、妻の喪失、はたや子供との別れも彼は心の傷から目を背け平気なフリ、つまりある種の演技をしてきたような生き方という印象が観客に伝わってきます。左目から流れる目薬が涙のように見えるのも示唆的な表現です。
ところどころ引用される『ワーニャ伯父さん』のセリフが家福の心理をオーバーラップさせるような効果ももたらしています。
〇未完成な演技が完成された演技へと変貌していく過程
ここは一番『親密さ』と近い要素かもしれません。
今作では濱口監督が実際の撮影にも取り入れている抑揚を排した本読みをかなり直接的な形で描写されています。
戯曲のセリフを何度も何度も丁寧に音読することで、セリフそのものが体に染み込み、無意識化された演技ができるようになるとざっくりそのようなメソッドです。
通常の商業映画では考えられないほど劇中で上演される『ワーニャ伯父さん』が完成されていく過程が描かれます。怪訝そうにする登場人物たちもやがてその効果を実感し、実を結びかける瞬間が訪れます。
エレーナ役とソーニャ役のリハーサルのシーンです。
本当に美しいシーンで、思わず見惚れてしまいそうになり、家福も「今何かが起きていた」と発しますが、まだ足りないといいます。
俳優二人の間で起きていた化学反応を最終的には観客に開いていく必要があると。『ドライブ・マイ・カー』の最終盤のシーンでまさしく『ワーニャ伯父さん』のラストシーンが上演される流れでその「何かが起きた」瞬間がまさしく観客の目の前で起きるという構造になります。
演技をしているソーニャとワーニャを見ている観客、さらにそれを見ている観客の我々。『ドライブ・マイ・カー』と『ワーニャ伯父さん』のクライマックスがちょうどリンクし感動が掛け合わさるという構成はフィクションシーンと劇中劇シーンが完全に分離されていた『親密さ』をさらにフィクションの中で洗練された形に昇華したと言えます。
しかし、ここで終わらないのが今作のまた素晴らしいところ。
ここで終われば完璧だったのに、という言葉をかけられたことがあるという濱口監督でしたが、余りにも収まりが良すぎるラストに破れ目のようなものを作りたかったと言います。
みさきが登場する韓国でのエピローグです。
マスクをしていることからコロナ禍、つまり我々が生きている現実世界と近しい世界を感じさせます。ここでのみさきはまさしく『ドライブ・マイ・カー』を見ている我々観客を想起せざるを得ません。映画と劇中演劇でまたいでいた構造をエピローグで映画と現実世界をまたにかけるようなメタ構造にしていきたのには恐れ入りました。
ここでさらに『ドライブ・マイ・カー』は普遍的で感動的な物語になったと感じます。
〇演技がうまく成立するのかというサスペンス
ここに関しては上記2つのポイントと若干重なる要素でもあります。
妻を亡くした家福は動揺の最中、舞台に立ちます。
しかし、そこで発するべきセリフは家福にとっては自身の境遇を想起させる過酷なものです。それでもステージに立った以上はセリフを発して、演技を続けなければなりません。ここで家福はセリフを言えるのかというサスペンスが立ち上がり、映画の緊張感が一気に高まります。劇中劇なので、演劇の成立と家福の深層心理が混ざりあうことでドキュメンタリックでありながらフィクショナルでもある緊張感であると思います。
さらにまた複雑なのは今作では多言語演劇といい、役者のセリフがそれぞれの母国語を発するというもの。これはそれぞれのセリフをリズムで体に染み込ませないと成立しようがないので、余計に家福がセリフを発しないことで舞台上の困惑が強まります。
その多言語演劇によるサスペンスが生かされるのがオーディションのシーン。序盤示されるオーディションは言語がわからないことによる行き違いが若干コミカルに示されますが、続いて示される高槻のシーンがおぞましい(笑)。
高槻はこの場でかなり行き過ぎた芝居をしてしまうのですが、そこで受け手側のエレーナ役の演技が本心から発しているものなのか、演技によって発しているものなのか曖昧なように見えてきます。
ここでのカメラワークも師匠の黒沢清さんを彷彿とさせるおぞましい雰囲気でした。
3.取返しがつかない物語
今作では喪失を抱えた登場人物が多く登場します。
妻と子供を亡くした家福、母を亡くしたみさき、子供を流産したユナ、そして喪失をかなり直接的に自分でもたらしてしまった高槻。
それらはすべて取返しがつきようのないものです。
家福がクライマックスでみさきに語りかけるセリフの中にも
「取返しがつかないんだ」というものがある通り、今作で描かれるものに取返しがつかない人生をどう生きていくかというテーマがあるのは明らかです。思えば、序盤にスタッフロールが流れるのも妻を亡くし、家福が演劇で演技を失敗してしまった後です。まさしく取返しがつかなくなった後に映画はまた新しく始まります。
この手のタイプの作品だと、亡き人たちと過ごしてきた日々を回想シーンで振り返り感傷的に扇動するという描写を行いがちですが、今作では決してその構成をとりません。
劇中で一回も回想シーンはなく、時間軸は現在から未来にかけてしか進みません。家福の家にあるレコードプレイヤーや高速道路なども一方向にしか進まないもののモチーフとして挿入されていると感じるのは深読みが過ぎるでしょうか。
私が参加したトークショーで回想シーンを使わない意図を直接濱口監督に質問いたしました。
回想シーンは基本的には説明にしかなり得ない、撮影現場で何かが起こっている空気感も回想という形で示すとやや後退する。といった旨の回答をいただきました。基本的にはこの原理に則り今作に限らず他の作品群も作られているような気がします。
原作準拠なので、それをトレースしたと言えばそれまでですが、『ワーニャ伯父さん』にも取返しがつかない物語という要素があると感じます。
絶望の前に立たされても大事なことは働くこと。死んでから神様に今までの不幸を嘆けばいいという希望とも絶望ともとれる言葉で締められます。
このセリフを見るに、家福は演劇をすることによってしか今後の人生を生きていけないと言えるのかもしれません。
思えば、演劇周りのスタッフは高槻の事件が起こった後も、頑なに家福へ演劇の中止か続行かの判断を求めます。
やや冷徹にも見えかねない物言いに家福は若干うろたえますが、この場面でやるべきこと、私たちにできることはそれだけですときっぱり答えられます。まさしく働くこと、生きていくこと。
改めて今作は映画的な構造、モチーフ、人物表象。あらゆるところで、取返しのつかなさとそこから生きていくことを描いてる作品です。
劇中劇という多層的なモチーフを扱いながらも、映画の真ん中に強い芯が通っているからこそこれだけ多くの方々に感動を与えたのだと思います。
4.表現を信じる濱口竜介
最後にまとめのような形でこの章について綴っていきます。
今作では劇中で語られる音の物語、劇中劇、多言語によるコミュニケーションなどなど、あらゆる表現が描かれます。
冒頭のシーンは、音の語る物語からでした。かなり抽象的なシーンで、商業映画でしかも3時間もある長尺な作品でこのシーンから始めることはかなりリスキーだと思います。
それでも、なぜこのシーンから始めたか。色々とインタビューで語られていることもありますが、ここは敢えて私なりの考察で。
映画のリアリティーラインは基本的に、細かいリアルっぽさの積み重ねで観客が映画内世界を信じられるように構成されて、クライマックスでフィクション的な飛躍をもたらすという展開をとっています。
しかし、今作では冒頭からそもそも物語という虚構、さらに性行為中による語りという現実世界のリアリティから大きく外れた構図を示してきます。
中途半端なほんとっぽさに拘泥していないなと思うんです。
わりと現実世界に近い世界観に見えるけど、誰が見ても嘘だとわかることの積み重ねを続けて、最終的には本当だと信じさせる力がこの映画にはあります。終盤で高槻の語りを受けて、みさきが真実かどうかはわからないがその人にとっては本当のことだったという旨のセリフを発します。
さらに、家福に対して妻の音は嘘をついていたのではなく、その矛盾しているように見える行いすべてがその人にとって本当で嘘などないのではないかと問いかけるんです。この考え方って現実世界ですんなりと納得させることって意外と難しいような気がします。私たちの目は他者を即座に多面的に判断できるほど聡明には作られていないのではないでしょうか。
しかし、それは物語だとできる。すなわち、虚構や表現ならそれが可能なんだと濱口監督は言いたいのかなと私は思っています。
今作に限らず、登場人物が物語を語る、すなわちなんらかの表現をしているというシーンが頻出します。これはやはり表現の可能性を信じているからなのではないかと。
まさしく、そんな濱口竜介監督の表現に私は心をつかまれてきました。
現時点での最新作はこの『ドライブ・マイ・カー』でしたが、これから発表されていくであろう未来の作品たちにも心を躍らせながら、当ブログを締めさせていただきます。