『夜明けのすべて』は”声“の映画
三宅唱の映画は、毎度感覚が研ぎ澄まされて頭が冴える。
どこにでもある街並みがこうも映画的に生まれ変わるのかと驚かされる三宅マジック。
特に暗闇と光の明滅。
信号の色が変わるだけで感動する映画を他に観たことがない。
そして、『ケイコ 目を澄ませて』では音遣いまで進化した。
縄跳びが床に当たる音、ミットとミットがぶつかる音などがリズミカルに刻まれ、いつしか音楽的な響きをもたらす。
目を耳を澄ますことにより、感性を研ぎ澄ますような体験を得られるのが三宅唱の映画だ。
さて、三宅唱史上最大の公開規模となる「夜明けのすべて」はどうだったか?
これまで90分から100分だった上映時間はほぼ120分となり、大手事務所の俳優も出演するとなると、これまでの洗練が損なわれ、悪い意味で大衆化が進んでしまうのではないかという危惧があった。
冒頭の長いモノローグで、嫌な予感が頭をよぎる。
PMSの症状という客観的には症状が伝わりづらいものへの切実な苦悩は、確かに説明が必要なものだ。
ただ、想定より長く続くモノローグに、従来の三宅映画の輝きが損なわれてしまうのではないかという懸念があった。
モノローグによる説明で従来タイトであった上映時間は引き延ばされ、あの研ぎ澄まされる感覚を得られないのではないだろうか。
しかし、中盤のあるシーンでそれは覆される。
光石研が演じる、栗田の弟が残した音声データをラジカセで再生するシーンがある。
姿自体は当然その場にないため、音声だけを聴くというシーンになる。
まるで昭和のアナウンサーかと思うような軽やかな声色に思わず聴き惚れてしまうのだが、ここで冒頭の懸念が杞憂だったことに気付かされる。
まさしく、「夜明けのすべて」は俳優の“声”を聴く映画でもあったのだ。
これまで、俳優の身体性を活かした運動を捉えてきた三宅唱。
ひたすら走り続ける「やくたたず」の高校生、スケボーを軽やかに乗りこなす「Playback」の村上淳、寡黙にボクシングと向き合う「ケイコ 目を澄ませて」の岸井ゆきのなどなど、印象的なシーンを次々と想起する。
しかし、「夜明けのすべて」では自分の身体を自分の意思でコントロールできない人物が主人公となっている。
そこで、キーになるのが俳優の“声”なのだと件の描写で気付かされた。
そう考えると、モノローグ、互助会での対話、ラジカセ、プラネタリウムのガイダンスなど“声”がフィーチャーされるシーンが、三宅唱映画としては最も多い。
確かに、主演の上白石萌音と松村北斗は惚れ惚れするような美声だ。
現に大ヒットアニメーション映画で主演も果たしている。
しかし、それだけではない。
「目は口ほどにものを言う」ということわざがあるが、この映画においては、声色こそがその人物を象徴しているように思える。
上白石萌音が演じる藤沢さんは、穏やかだが心配性で気遣いの人。
松村北斗が演じる山添くんは、やや捻くれていながらも奥底には誠実さがある人。
この声により、藤沢さんと山添くんが存在することを信じざるを得ないのではないか。
やがてクライマックスでは、藤沢さんの声に一同が耳を傾けるという展開へと結実していく。
ほんの少しの緊張を感じさせながらも堂々と発話される声が本当に素晴らしい。
このシークエンスは、プラネタリウムという閉じた空間でで繰り広げられるため、映画館で映画を観ている観客と状況が一致するという作りにもなっている。
作品内外含めて、その場にいる者すべてが1人の声を聞き入るというシチュエーションの一体感の心地よさたるや。
その後の物語の締めくくりとなる山添くんのモノローグにも、1人の人間の前進を感じさせ、清々しい気持ちにさせられる。
この声の連なりによる風通しの良さによって大規模公開に相応しい広く届く映画になったのではないだろうか。
暗闇と光、音の連動、そして俳優の声。
ちなみに三宅唱は、これまでのオファーを受けて映画に取り掛かる体制と異なり、自身の発信により企画を始動しているという。
多種多様な映画作りにより、その都度新たな武器を手に入れてきた三宅唱が、どのような進化を遂げていくかが何よりも楽しみだ。