人生初の観劇『パラサイト』日本を舞台にした結果はいかに...
どうもグッドウォッチメンズの大ちゃんです。
今回は映画ではなく先日生まれて初めて舞台を鑑賞してきたため、その感想を綴っていこうかと。
とはいえ、まるで映画に関係ないわけではなくというよりめっちゃ映画に関係しているんです。
なにを隠そうアカデミー賞を受賞し日本でも大ヒットを記録した『パラサイト 半地下の家族』の舞台版を観劇してきたという次第です。
いくつかの視点から感想を語っていきます。
1.あらすじ
日本版『パラサイト』の舞台となるのは90年代の関西——。
家内手工業の靴作りで生計を立て、地上にありながら地下のように一日中陽がささないトタン屋根の集落で細々と暮らす金田一家。
長男の純平が高台の豪邸で暮らす永井家に家庭教師として雇われてからある計画を実行し始めるが...。(一部引用)
2.キャスト
金田家
文平 古田新太
福子 江口のり子
純平 宮沢氷魚
美姫 伊藤沙莉
永井家
慎一郎 山内圭哉
千代子 真木よう子
繭子 恒松祐里
家政婦
安田玉子 キムラ緑子
3.舞台と映画の違い
これまでほとんど観劇の経験がなく、しかも原作が映画作品であるためそれぞれのフォーマットの違いを意識できるいい経験だったと思います。
『パラサイト 半地下の家族』(以下映画版)と今回の『パラサイト』(以下舞台版)はストーリーラインはほぼ同じですがテイストに明確な違いがあったため原作至上主義的な考えに陥らずそれぞれの魅力を楽しむことができました。
まず、舞台は俳優の演技あってこそと当たり前ではありますがそこを1番強く感じました。
映像というメディアはリテイクや編集が可能なこともあり、俳優の存在だけに依存した作品ではありません。映像、音楽、編集、美術、演技それぞれのエキスパートが結集して表現される総合芸術だと私は考えていてそれに幾度も魅了されてきました。
私としても動画やブログで感想を述べるときにそこを触れずして映画というものは語れないと思っています。
もちろん演劇にも、舞台装置や音楽、演出・脚本という要素はあります。
とはいえ、公演が始まるとステージの上には俳優のみが立ちそこにカットをかけるものを誰もいません。筋書きはありながらも俳優の演技を持ってして成り立つフォーマットだということが今回観劇してみてより強く感じました。
どれほどまでに俳優に裁量があるかはキャリアにもよるのでしょうが、恐らくアドリブに見えるセリフも飛び出しそれに対し思わず俳優が笑ってしまう場面も。
生の演技を見ているんだという感触が確かにそこにはありました。
中でも印象的だったのがキムラ緑子さんと恒松祐里さん。
キムラ緑子さんの演技力はもはや説明不要ですが、言語化するならば余裕が全然違うなと。
演劇というものへの理解度が他の俳優たちより1段階上なのではないかと思ってしまいました。
終盤の迫真の演技もさることながら、アドリブを受ける演技もあるのですが、そこで素が出て笑ってしまうことを全く恐れていないように見えました。公演が翌日以降も行われることを見越して「明日もまた別のものを期待しているわ」と言い出す始末。その佇まいからアドリブを繰り出す俳優のポテンシャルを最大限に引き出しているようにも見えました。
恒松祐里さんは『凪待ち』という映画で存在を認識してから推している俳優の1人でしたが、堂々たる佇まいで圧倒されました。
役に対する自信というか、この場を自分のモノにしてやるんだという気概を存分に感じさせてもらいました。
持ち前の身体能力を活かしたアクロバティックなアクションにはただただ驚き。(受け手のリアクションを見るにこれも恐らくアドリブ)
若手の俳優がアドリブをすることは見ている側からしても遠慮が透けて見えて誰も得しない空間になりそうなものですが、それを微塵も感じさせません。ドラマや映画などで難しい役どころに挑戦してきたことからくる度胸なのでしょうか、一言で言ってしまえばそのようなものを感じさせてくれました。
今後も要注目の俳優だと再認識できていちファンとしてとても嬉しかったです。
4.原作からの変更点
映画版から舞台版への最も大きな変更点は舞台が現代の韓国から90年代の関西の下町になったことでしょう。
これによるメリットは題材的にも作品の質感的にも日本人が自分ごととして引きつけ易くなりました。特に終盤以降の展開で起こるある災害は舞台を変更したことで実際の出来事が反映されています。冒頭の宮沢氷魚さんの語りから西暦が明示されるため、コミカルな調子でも舞台全体にそこはかとない緊張感が漂っていました。
やや図式的でもあった映画版の経済感の格差は脚色によって、より芯に迫るものになったのではないでしょうか。
この町、この生活から抜け出したいという焦燥感は舞台版の方がかなり強調されていました。
その点ゆえなのか下町側の家族のスキルはあまり突出したものとして描いていない印象でした。
飽くまで普通の人という描き方なのでしょうか。
妹が豪邸のお風呂で優雅に浸かっているシーンがカットされているのも象徴的に思えます。
ただ、ここで気になったところをひとつ。
下町側のお母さんが家事が得意ではないという設定になっていたのはあまり作劇に生きているようには見えませんでした。
意図は定かではありませんが、女性表象という批評的観点から見ても首を傾げざるを得ません。
どちらの家族の母親も家事ができないため、単にコメディリリーフ的な役割に留まってしまっています。
意図を洞察するとすれば、家政婦の設定が映画版と若干異なっているのでそこの存在感を強調するためなのかもしれません。
といったところで2つ目の大きな脚色はパラサイトの最大の物語の転換点である実は地下に人がいたという設定のアレンジです。
物語の中盤で大変驚かされる展開。
ここで地下にいたのは映画版は家政婦の夫だったのが舞台版では家政婦の夫と息子でした。
そして夫は病気でかなり弱った状態でもあります。息子のバブル崩壊による借金苦で困窮してこのような有様になったと描写されていました。
前述の震災に加えて実際の背景を取り入れることによって、日本人から見るとより現実的な手触りを感じられます。
その分やや同情的というかこのパートが感傷的になり物語の進行が鈍重になっているきらいもありますが、突きつけてくるものの重さが不景気な2020年代の日本とも重なり如何ともし難い居心地の悪さを感じました。
ここで私がふと気になった細かい脚色点なのですが、映画版では地下室で家政婦の夫を発見、地上のリビングに戻って家政婦に脅されるという展開になるのに対し舞台版ではそこから家政婦が地上に戻ることはありません。
舞台という即座にセットチェンジができないフォーマットの都合もあるかもしれませんが、一度転落したものが這い上がる困難さを表現した脚色ではないでしょうか。
何気ないところかもしれませんが、やはりその格差描写の現実的な描写は演出の鄭義信がいちばんこだわったところなのかもしれません。
また、パラサイトという物語と舞台演劇の相性の良さも感じました。
高台にある豪邸の地下室には困窮しきった人物が苦しい生活を強いられていることを示すために、舞台ではやや大仰なセットチェンジが必要になります。豪邸が回転すると荒んだ地下室に切り替わるわけですが、文字通りハリボテになってしまう豪勢な空間がとても皮肉に見えてきました。
これぞ舞台演劇の特性を活かした構成だったように思います。
5.まとめ
古田新太さんは映画版を鑑賞したときから舞台向きな作品だと感じていたようですが、その直感通り見事な舞台演劇になっていると感じました。
パラサイトそのものが持つ社会性とキャッチーさをそのままに日本を舞台に移し替えることで親しみやすくも風刺性はより鋭くなっている。
そんな感慨を得られました。
個人的にも滅多にない舞台鑑賞を楽しむことができとても満足した時間でした。
出演者には好きな俳優たちが多く、生でそのお姿を拝見できたことも感動しております。
これをきっかけに映画版を再見したり、初めて見る人もいるかもしれません。
そういう意味でも有意義な舞台化だったと言えるでしょう。
今回はイレギュラーな感じで舞台のレビューを行いましたが、次回からはまた映画のレビュー記事を中心に書いていきます。
この記事を気に入った方が少しでもいらっしゃればとても嬉しく思います。
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最後までご覧いただきありがとうございました。