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冷夏 後編 【読書時間9分】


情けない話


栞は、すかいらーくに来ている。このあいだと同じバイパス沿いの店に来て、エビフライを食べているのだが。でも、なぜだろう、今日のエビフライは味がしない。

栞は首を傾げる、大好きなメニューなのに、カリカリのころもやフワフワのエビの食感もない。すると中込がやってきてプラスチックの容器に盛られたスパゲティーミートソースを置いていく。
栞は嬉しくなった、これは桃源中の給食のメニューで一番好きなやつだったからだ。食器まで再現されていることに感心した。フォークでゴネゴネと巻いて口に運ぶ、どうしてだろう、さっきのエビフライと同じように、やっぱりこれも味がしない。

栞は、再度首を傾げると、急に目の前に現れた麗子に、
「栞ちゃん、お支払いはどうするつもりなの」
と言われた。

次の瞬間、バイクの騒音が店内に鳴り響く、表ののバイパスを暴走族が走っているのだと栞は思った。そのやかましくて、耳障りな音を聞いていると、次第に視界がぼやけていく。麗子の姿が、テーブルの上の食事が、店内の風景が、ごちゃ混ぜになってやがて真っ暗になった。

顏が枕に埋もれている。素足にタオルケットがかかった感触がある。バイクの音は、すかいらーくの前を走っているのではなく、自宅前の国道を走っているものだったことに気づく。ああ、夢だったのだと栞は気づいた。ベッドの上で寝ぼけた頭でも、今の夢の分析ぐらい出来た。

きっかけは、昨晩聞いてしまった話。スナック麗に数名の常連客が来て、麗子は上機嫌になってウイスキーのボトルを開けて、あたしの奢りとか言って、一緒にバカズカと飲みはじめた。他に客はおらず、飲みが進むにつれて大したことでもないのに、ゲラゲラと皆が笑い出した。

それぞれが、自分の情けない話を披露しはじめて、一人が話終えると皆が笑った。
すると、その内の一人がこんなことを言い出した。
「雅彦さんなんで帰ってこないの」
「知らないわよ。よそで女でも作ってなきゃいいけど」
 麗子はそう答えた。雅彦のように宝石商をしていると、全国の催事場を飛び歩くことが多く、家に帰れないことは、しばしばあるが、雅彦はそれを理由に家に寄りつかなくなった。
「でも、この店なんて、雅彦さんが随分尽力してるっていうじゃない」
「そんなの最初のうちだけ、もうあの人ぜんぜん店にお金入れてくれなくなったもんだから、あたし、やり繰りに困っちゃって、去年なんて店の運転資金はないわ、娘の修学旅行があったりしたから、どうしようと思って。それで、学年主任の先生にお金借りたまま返してないのよ」
 そう言って麗子は大笑いした。客の男たちも一瞬固まったが、つられて大笑いした。栞だけが、カウンターでグラスを磨く手を止めて唖然としていた。

夢に出た、すかいらーくは中込と先日再会した場所で、ミートソースは、お金を指し、それは栞のためにも使われていたのだから、夢では栞が食べていた。最後に現れて、支払いはどうするのと言ったのは、借りた本人の麗子ということだ。

どうするつもりなの、ではないだろ、アンタのせいだ。栞はそう思いはじめると段々イライラしてきて、ベッドから体を起こした。もう一度、昨晩のことを思い出す。


客の男たちの帰った後、麗子は二階の寝室でベッドの上に寝そべっていた。栞は麗子の体をゆすりながら聞いた。

「お母さん、中込先生からお金借りてたの」
麗子は栞の居る方とは反対側に寝返りをうった。

「いくら、借りたの、なんで返してないの」
栞は、再度麗子の体をゆすった。

すると麗子はつぶやくように、
「八万円ぐらいかな。栞ちゃん真面目ねぇ、あの人にそっくり」 
と言った。あの人とは、実の父親のことだと栞は思った。

「すぐに返そうよ」
すがるように言う栞に対し、
「でも、先生も、もう忘れてるんじゃないの」麗子はそう言うと、夏掛けの布団に潜った。

そして、ワンピースを脱ぎ捨てたかと思うと、その後にブラジャーとパンツを布団の中からドサッと落した。
「栞ちゃんも夏は裸で寝てみたら、気持ちいいわよ」
栞はその言葉を聞き、呆れて部屋を出た。情けなくて涙がこみ上げてきた。

最近、母がすっかり飲み屋のオバサンになってしまい、がっかりしている。まだ離婚する前、横浜の家に住んでいた頃は全裸で寝たりしなかった。ちゃんと、パジャマを着ていたし、栞と弟の宏に絵本を読み聞かせ、一緒に寝ていた。大人というのは、職業に感化されてしまう生き物なのではないかと栞は思ってしまう。

とにかく、母はあてにならないから、自分でなんとかしようと思い、店に戻ってアルバイト代の缶を開けて千円札を数えてみたが、二万三千円しかなかった。このあいだ、貯まったバイト代で漫画本をまとめて全巻買ったことを後悔した。今日は、もう夜も遅いので、明日改めて返済方法を考えようと思い眠りについた後に見た夢だった。

栞はベッドから起きて、洗面所で顔を洗った後、パジャマからTシャツとハーフパンツに着替え、ベッドの上に腰かけると、去年行った修学旅行の光景が頭に浮かんだ。
三日目の午前中に奈良公園を訪れた、数人の女子生徒たちがキャッキャッと騒ぎながら鹿にお煎餅をあげている。
栞は、少し離れた日陰に立ってその様子を眺めていた。

「どうした雨宮、つまんないのか」
 栞が、ふと傍らを見ると秀則が立っていた。
栞は、鹿と遊ぶ女子たちから視線をはずして、うつむきながら言った。

「そんなことないです。でも、三年になって新しいクラスになったから、なんか雰囲気が変わってしまって」

「雨宮はさぁ、家庭の事情でいろいろあったから、他の子より少し大人なんだよなぁ」

「いや、そんな」
 栞は、軽く首を振る。

五月のやわらかな風が通り抜けて、新緑の木々をサラサラと揺らした。

「何を遠慮してんだよ。いいか雨宮、お前の人生はお前のものだ、そこに遠慮する必要はないんだからな」
中込は栞に笑ってみせた。栞も、うなづきながら微笑んだ。

その光景を思い出して、栞はベッドの上で涙を流した。頬を伝う雫を素手でぬぐうと、スポーツバッグを取り出して、その中に買ったばかりの漫画本を詰め込んでいった。




レジの前に立って、栞は呆然とした。古本屋の買い取り価格の安さに驚いてしまったからだ。買いそろえるときは一万円以上したのに、売るときには三千円程にしかならなかった。これでは八万円には程遠い。栞は漫画本を売るのは諦め、再びスポーツバックに詰めて店を出た。

重いスポーツバックを下げて自宅への道を歩きながら栞は思った。毎日、夕方から夜遅くまで、母の店を手伝っているわけだから、この時間を使って、よそでアルバイトをすればいいと思った。仮に時給七五〇円の仕事でも、週に五日出勤して、一日五時間働けば、一か月で七万五千円も稼げるではないかと。

家に帰って古新聞の中から求人広告をみつけて、ファーストフードとガソリンスタンドの面接に行ってみたが、数日後に不採用の連絡がきた。アルバイトの面接など行けば受かると思っていたのだが、社会経験に乏しい高校生はこういうときに不利になることもあるのだと栞は知った。

コンビニの店内は、冷房が効いていて半袖では寒いほどだった。小雨で濡れた肌を冷風が撫でていた。
栞は、CDでーたを立ち読みしていた。昌美との約束の日が迫っていたからだ。
誌面に、ユリプロサマーオーディション‘93。と大きく載っていて、あなたは真夏のシンデレラとサブタイトルも付いていた。
グランプリには賞金百万円、準グランプリや三位にも賞金が出るようだ。どれも八万円は優に超えている。
やるしかない、栞は心の中でそうつぶやいて食い入るように誌面を見つめていた。

オーディション


「宏はねぇ、あたしたちと一緒に暮らしたいってさぁ」
生家を出ていく前に祖母から聞かされた言葉だ。弟の宏がそう言ったのではなくて、初枝に言わされたのではないだろう。家族が離別しても、時が経てばまた一緒に皆で暮らせる。そんな甘い考えを宏は幼心に抱いていたのではないかと栞は思っている。

会場に向かう電車の中で、栞は思った。
もし、このオーディションに合格したらテレビに映る自分の姿を宏が見てくれているのではないか。
お金だけでなく、そんな風にも考えるようになっていた。

窓ガラスを染める西陽に応えるようにカウンターの上のワイングラスはキラキラと輝く。栞はスナック麗のカウンターに頬杖をついて座っている。開店時間を見越して栞はエアコンをつけておいた。静かな店内には、送風の音だけが響いている。

オーディションの日は、大雨が降って秋の陽気だったが、今日は気温が高く、室内は蒸し暑かった。
普段テレビを観ず、芸能界に興味のない栞なのでオーディションで何を言えばいいのかわからず、自己アピールをしてくださいと言われたら、
「山梨県から来ました。雨宮栞、高校一年生です。部活はやってなくて、お母さんの経営しているスナックを手伝ってます。バイト代として一日千円貰ってます」とりあえずそう言っておいた。
歌唱審査では、ZARDの『負けないで』を唄った、CDは、ほとんど持っていないのでそのぐらいしか知らなかった。

山梨に帰ってきて数日後には合否の通知が届き、そこには合格した旨が書かれていた。ただし、このあいだのオーディションは予選会だったようで、全国の地区を勝ち抜いた者たちで決定戦がおこなわれるとも書かれていた。ちなみに昌美は不合格だったらしい。

栞は困っていた。予選会が終わったところで資金を使い果たしてしまったからだ。麗子の店を手伝って貯めたお金は、予選会会場への交通費と宿泊費、それと昌美に連れまわされるようにして使った交遊費で消えていた。決定戦は東京でおこなわれ渋谷にあるホールが会場となっているため、また泊りがけで行かなければならない。

ここまで来て資金不足で断念とは・・・・・・。べつに芸能人に成りたかったわけではないのだけれど。栞は、もやもやとした気持ちを抱えていた。もうすぐ開店時間だということに気づき席を立とうとすると、不意に背中に生温かさを感じた。麗子が後ろから栞を抱きしめていたからだ。

「栞ちゃんおめでとう、すごいじゃない。昌美ちゃんのママから聞いたの。オーディション合格したんでしょ」

栞は、耳元でささやくように話す麗子がうっとうしくて引き剥がした。中込への借金を知ってから、麗子とは、ほとんど口を利いていなかった。

「合格してもまだ決定戦があるの。でも、あきらめたの、お金ないし」

ふてくされたように栞が言うと、

麗子は哀しそうな顔をしている。

ふいに栞から離れ、可愛い子ぶった仕草でレジを開け、三万円を取り出して、
「じゃあガンバってね。大事に使うのよ」
微笑みを浮かべ、首を少し傾けながら渡して来た。

栞は唖然とした。中込に借りた八万円は返さなのに、娘の受かるかどうかも分からないオーディションのためには、即座に三万円を渡す。この人の金銭感覚はどうなっているのだろうと思い、その人間性を疑いつつも、無意識のうちに手が延びて、気がつくとその三万円を掴んでいた。

オーディション決定戦の翌日に地元の新聞に栞の記事が載った。

《芸能事務所ユリプロダクションの主催でおこなわれた、ユリプロサマーオーディション‘93決定戦が東京都内でおこなわれ、一万人を超える応募の中から、県内在住の高校生、雨宮栞さんがグランプリに輝いた。審査委員長を務めた同プロダクション社長は語る。彼女が歌唱審査で唄ったZARDの楽曲が印象的でした。ショートヘアが涼しげで、孤高な雰囲気がどことなくボーカルの坂井泉水さんとも重なるような気がしました。冷夏の年にピッタリな子をグランプリに選べたと思っています。雨宮さんを含む入賞者は、デビューに向けてレッスンを受けていくことになり、今後の活躍が期待される》

エピローグ

一九九六年・冬
発売された栞の写真集の発売イベントには、多くのファンがつめかけた。
オーディション合格のあと、芸能生活は順調に進んでいた。
洋一は、サイン入りの写真集を手にし、握手を交わし去っていく。
あの夏の日、オーディションの賞金から八万円を手にして、中込の家へ返済に訪れたことを思い出した。
息子の洋一が、金の貸し借りのことを知っているのか、栞には分からない。
でも洋一は、イベントがあるたびに参加してくれる。父親と息子、親子で支えている気がして栞は心苦しく思う。

列の中に、宏の姿を探したが、それらしき少年はいなかった。もう、洋一と同じぐらいの年になっているはずなのだが。

オーディションに合格後、栞は山梨の家を離れ、芸能事務所が所有する寮で暮らしはじめた。あのとき、昌美の誘いを断っていたら、こんなに早く家をでることができたのだろうか。あの出来事は自立への扉だったと思っている。

都内にあるファッションビルの特設会場には、長蛇の列が出来ている。
栞は、その中程に、麗子の姿を見つけた。
隣にいる男性は、雅彦ではない。
昨年、麗子と雅彦は離婚に至ったが、とっくに二人の仲は冷え切っていた。

栞のイベントには、麗子も度々訪れている。
そのたびに違う男を連れている。ぶっきらぼうな男もいれば、物腰の柔らかい男もいた。いずれも麗子の美貌目当てに店に通う男たちだ。今日は、ウエーブのかかった長い髪に、全身黒ずくめの男と手をつないで並んでいる。アーティスティックな不思議系の男を連れてきたのだと栞は思った。思わず溜息をついてしまいそうになるが、ファンの前なので呑み込んだ。

オーディションのあと、麗子の店で栞のお祝いパーティーが開かれた。
栞よりも麗子が喜んで、大騒ぎしていた。
寮生活をはじめて、しばらくすると急に母親と過ごした日々を懐かしく思い出すようになる。
親とは、離れているほど愛おしいものなのだと栞は気づいた。
もう少しで、麗子たちの番がくる。
栞は、ファンに笑顔を振りまきながら、男と並ぶ母と再会することが疎ましくも、楽しみでもあった。

『冷夏』了
『雪害・前編』へ続く。
雪害(せつがい)前編【読書時間6分】|プラントプレス

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