![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/172807777/rectangle_large_type_2_5b999430485e7cae3dc8053e8181afdf.png?width=1200)
愛聴盤(27-2)クルト・ザンデルリンク"Legendary Recordings"<その2>
前記事の続きです
<前記事>
愛聴盤(27)クルト・ザンデルリンク"Legendary Recordings"|すえきち
<CD5&6>マーラー:交響曲第9番ニ長調
今後、マーラーの交響曲を一曲しか聴けないとするならば、私は迷うことなく「交響曲第9番」と答えるでしょう。この曲は、作曲家の音楽上の最後のメッセージのように思えるからです。
名曲に名演奏あり。この曲には、バルビローリ、バーンスタイン、カラヤンなど錚々たる指揮者たちによる名演奏があることをクラシックファンは知っています。私もそれらを聴いてきた者の一人です。
では、クルト・ザンデルリンクがマーラーの9番はどんな音楽なのでしょう。おおよその期待通り、実に重厚長大。演奏時間は、CD2枚にまたがる90分超えの気合の入ったものです。
1979年の録音。すでに巨匠の域に入ったザンデルリンクの指揮ぶりは、極めてゆったりと、一音たりとも疎かにしない姿勢が保たれ、恣意的なルバートをかけず、基本的にインテンポで進みます。
相変わらずオーケストラの響きは太く、低弦はゴゴゴとした音色を響かせ、重々しい金管は堂々と咆哮します。
一方で、ザンデルリンクの音楽は極めて楷書的で、曖昧さがありません。シベリウスの交響曲では、それが裏目に出て、やや音楽がくどく感じる場面もありますが、マーラーの音楽には、それが奏功しているように思えます。
ザンデルリンクは、第一楽章だけで27分半もかけています。過度な感情移入はなく、自身と音楽の間に一定の距離を保ちながら、実に彫りの深い音楽を奏でます。最後にヴァイオリン・ソロとホルン、木管のアンサンブルで締めくくられる精緻な音楽づくりはさすがです。
第二楽章もゆったりとしたテンポで進みます。ザンデルリンクが30年近く育ててきたベルリン交響楽団のドイツ・サウンドをたっぷりと堪能できます。どのセクションも一糸乱れぬ反応で指揮者の要望に応えます。しかし、ムラヴィンスキーの指揮のような背筋がゾクッとするような緊張感はありません。そこにあるのは、豊かに実った作物を収穫したような充実感です。ザンデルリンクの魅力です。
マーラーはこの楽章に”Im Tempo eines gemächlichen Ländlers. Etwas täppisch und sehr derb”と書き込みました。ザンデルリンクの指揮では、「レントラー風のテンポ」は、やや慎重と歩みますし、「きわめて粗野に」の指示に対して、隅々まで磨き上げられたツヤツヤの音色を聴かせます。乱雑な音楽になるのを敢えて避けていると思えます。
第三楽章。ロンド=ブルレスケ。「ブルレスケ」と言われても、奏者にはおどけている暇は与えられない楽曲。各楽器に忙しく働かせるマーラーの音楽は、名手たちのミスを誘発しそうです。録音が鮮明なので、各楽器の働きぶりが可視化されますが、ここでもベルリン交響楽団の仕事ぶりはスキがありません。優秀な室内楽のようにピタッと合っています。
第四楽章。ザンデルリンクは、実直に、マーラーが楽譜に書いた複雑なテクスチュアを音化することに全力を傾けます。優秀なオーケストラの各声部が均等に鳴り、一本一本の糸が織り成す美しい織物のように、マーラーの音楽の全容を隅々まで浮き彫りにします。(これはホールの残響が少なめな録音であることとも関係しています)
ザンデルリンク自身は、内面に情熱をたぎらせながらも、それを自ら律しているようです。彼の音楽に「嘆き」や「絶望」は希薄です。むしろ、「希望」を感じます。強欲や傲慢さといった人間の愚かさと無関係に、大河が澄み切った流れのまま滔々と流れるような音楽です。
私は、この演奏を聴いて、初めてマーラーの第9交響曲の本質に触れた思いがしました。ザンデルリンクは、この曲に何も足さず、何も引かないのに、自ずからこの指揮者の人間性が溢れ出てくる。これこそ指揮者クルト・ザンデルリンクの真骨頂と言うべきでしょう。
最後までお読みいただきありがとうございました。