音楽における正統性とは何か
「ドイツ(フランス)音楽の本流を組むと正統派ピアニスト」みたいな売り文句をよく目にします。クラシック音楽において、正統性は重要なファクターのようです。
フリードリヒ・グルダは、若い頃からベートーヴェンのピアノ・ソナタを完璧に演奏しながら、ジャンルの壁をぶち破り、ジャズミュージシャンと共演したりして、見事な即興演奏を聞かせました。彼のバッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、どれも一級品ですが、グルダのことを、「ウィーン生まれの正統派ピアニスト」と呼ぶ人はいません。生前、保守派の人々が驚くようなことばかりしてきましたから。
歌舞伎や能のような日本の伝統芸能とちがい、西洋のクラシック音楽は、全世界で親しまれ、演奏されています。特に、第二次世界大戦の勃発で、一流の音楽家(特にユダヤ系)たちがヨーロッパからアメリカに逃れ、そこを活動拠点としながら、後進の育成をしたことも大きかったと思います。
アメリカ生まれのレナード・バーンスタインが、ヨーロッパに進出して、ウィーンフィルとのベートーヴェンやブラームスが高く評価されたあたりから、ファンの考え方は変わったでしょうか。後に続いた小澤征爾さんはどうでしょう。
しかし、チェコのオーケストラが来日すれば、ドヴォルザークを、北欧のオーケストラが来ればシベリウスの楽曲を期待してしまう傾向はまだあります。
「やっぱり本場物は違うなあ」なんて感想が聞こえてきます。本当かな?と思います。
ベートーヴェンの頭の中に鳴り響いていた音を誰も知りません。では何をもって「ベートーヴェンの正統的な解釈」と言えるでしょう。さらに、音楽において、「正しさ」がそこまで重要なのかに疑問が残ります。
この記事を書きながら聴いているのは、ジェームズ・レヴァインがシュターツカペレ・ドレスデンを指揮したドヴォルザークの交響曲第8番と第9番のCD。この演奏、惚れ惚れするほど素晴らしい。
何やら答えの出ないことばかり考えた一日でした。