女、母性、男


 桐野夏生の小説は悪意をベースに書かれていることが多くて
今回の小説も悪意や怒りが強く心に「何か」を訴えかけてくることが多かった。
 その「何か」とは。
 ストーリーそのものがもつ熱量に応じて、言語化してみる。
 最近よく人も自然という見方を使う。その中で最も人が(私が)手に負えないと感じる自然が感情だった。
 人も自然とは、言い換えれば、私の中では感情も自然ということになった。論理はめちゃくちゃかもしれないが、構わない。直観的にそう出てくるのだからこの言葉を使う。

手に負えない=自然
感情は手に負えない=感情も自然

 もっと考えると何だかおかしい感じもするがこのまま書きとめておく。

 そういった予感と共にこの小説を振り返ると、女の中で最もまともな自然が母性ということになった。
 子を生み育てる能力を目の前の幼子の為に発揮すればいくらかまともな人間になれるのかもしれない。そしてそこで最も重要な視点は「男に囚われない」ということだと思った。
加えて、子どもは偶発的にできる。
 
 無論、人はそこでも自分の利益と損失との間で揺れ動く。

 そしてやはり、マイナスと思われる感情に蓋をしない方がいい。結果としてその方が真摯な人生になると思う。私のやり方は不味くて、マイナスの感情に蓋をしてないものとして善人として振る舞う。善人という点に他人より優れている悦に入って無意味な安心感を得ることを繰り返す。そして、自分の問題は膨れ上がっていく。マイナスの感情に蓋をするにはより大きな善人面が必要で、どんどん馬鹿になってく。

 女にとって、母性が到達点だとすれば、それは、最も抗えない自然を生まれながらにして内包し、理性と闘っているのだとすれば、苦しいのも頷ける。生殖の機会を逃さんとして、本能的になるのだろう。最も抗えない自然、翻弄されながら生を終える。面白いのは、理性があることで、達成しえないこともあるということだ。

 女は生物として、母性を内包し、強く生殖の本能に傾きながらも同時に、理性を働かせて人になり、社会で生きていく必要がある、そうしなくては、人を育てることは困難だ。抗えない自然とともに、強くその影響を受けながら、社会で人としての居場所を創っていかなくてはならない。
 16歳位の時から十年以上、抱き続けた疑問に対して、一つのぼんやりとした答えを見つつある。

 精神と肉体の関係性、そのバランスその発想自体が無意味で、男性的に操作された軟弱な間違った発想・視点である。

 一つの、自然。
 都合の良い視点、区切りである。精神と肉体の関係性など。
 全てを内包して、嵐のように存在する。それが女である。母性という強い自然を抱えて、
 社会生活を送っていく為には、理性をうまく使いながら生きる必要がある。
 非常にアンバランスで、脆い。

 日々の隙間を真実を見極めてのりこなし、一瞬のすべての脆い出来事に翻弄されることなく、ただ淡く泳いでいく感覚が必要である。


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