あなたはパリサイ人になっていませんか?Are You Becoming Pharisees?
あなたは、今までに『山上の説教』という言葉を聞いたことがありますか?
『山上の説教』とは、マタイの福音書5章でイエス様が、弟子たちやイエス様の元へ集まってきた人々に向けて話したことを指しています。
この『山上の説教』という言葉自体は、後に、神学者であるアウレリアス・アウグスティヌス(Aurelius Augustinus)によって名付けられたと言われています。
アウレリアス・アウグスティヌスは、ローマ帝国時代のカトリック教会の司教であり、神学者、哲学者でした。
ちなみに、神学者というのは、神学の学者を意味します。
『山上の説教』という言葉は、その当時、イエス様が弟子たちや民たちに話した際に、イエス様が、「これは山上の説教だ。」と言ったわけではなく、
後世の時代に、人間がイエス様がお話したことについて『山上の説教』という名前を付けた状態だということです。
多くのキリスト教会では、この『山上の説教』を引用した説教がおこなわれていますが、
この『山上の説教』については、『イエス様がお話した本当の意図と正しい解釈』を理解することが、非常に重要なポイントとなります。
特に、
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」
という箇所においては、
「なぜ心が貧しい人が幸いなのか?」
と、疑問を感じるのではないでしょうか。
おそらく、この言葉の本当の意味を正しく理解していない人たちというのは、意外と多いのではないかと私は推測いたします。
【心が貧しい人】の意味を、正しく解釈していないと、イエス様がおっしゃっている言葉の意味がわかりません。
では、ここで、『山上の説教』と呼ばれているマタイの福音書5章の1節から10節を見てみましょう。
聖書箇所を、より一層、深く理解することができるようになるために、いくつかの翻訳の違う聖書箇所を記載しますので、ぜひ、それぞれを見比べ、その上で、それぞれを総合して理解してみて下さい。
イエス様がおっしゃった『心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。』という箇所においては、この言葉の意味を理解することが難しいとおっしゃる方たちが、意外と多いようです。
また、もしかしたら、『心の貧しい人々』という表現においては、間違った解釈をしている人たちもいらっしゃるかもしれません。
イエス様の言葉の意味を、正しく理解するためには、まずはじめに、『心の貧しい人々』とは、一体、どのような状態の人々を指すのか、ということについて正しい解釈をすることが必要であり、
それと同時に、イエス様がこの話をした際、「なぜ、イエス様はこのようなお話を人々にしたのか?」という動機と目的を理解することができれば、イエス様のこの言葉を理解するために非常に役立つことでしょう。
まずはじめに、『心の貧しい人々』とは、一体、どのような状態の人々を意味しているのかについて掘り下げてみます。
この言葉の意味を、正しく理解するためには、日本語の聖書だけではなく、英語の聖書を読むことで、正しい解釈ができることでしょう。
『心の貧しい人々は幸いである』に関しては、英語の聖書では、
●Humble men are very fortunate.
●Blessed are the poor in Spirit.
という表現が使用されています。
Humble(ハンボル)というのは、簡単に言ってしまうと『謙虚な、控えめな』という意味です。
Humble(ハンボル)の定義は、人・態度・言動などが、控え目であったり、慎ましかったり、へり下っていたり、謙虚な状態を指しています。
Humble(ハンボル)については、質やランクが低いことを表し、『つまらない、質素な、卑しい』などの意味もありますが、ここでは、
・謙虚な
・控え目な
・慎ましい
・へり下る
という解釈が適しているように思えます。
理由は、英語での別のバージョンの聖書訳『 the poor in Spirit』と照らし合わせることによって、その解釈が適していることが導き出されるからです。
『Poor/プア』という言葉は、おそらく、多くの皆さんは『貧しい』『貧乏』という意味として訳すかもしれません。
おそらく、多くの日本人の皆さんが、『貧しい』『貧乏』という言葉を聞くと、金銭面や経済面で貧しい、貧乏というイメージを持つかもしれません。
しかし、『Poor/プア』の定義は、貧しい以外にも、いくつかありまして、例えば、
・乏しい
・困窮している
という意味も含まれます。
『乏しい』『困窮している』というのは、足りないということや、不十分であるという意味を含んでいることがわかります。
そうなりますと、『 the poor in Spirit』というのは、
●霊的なことにおいて困窮している状態
●霊的なことにおいて乏しい状態
●霊的なことにおいて、満たされておらず、足りない状態
であるということがわかります。
つまり、複数の英語の聖書の訳を合体させて解釈しますと、
『心の貧しい人々』というのは、霊的なことにおいて困窮している状態であり、霊的なことにおいて乏しい状態であり、霊的なことにおいて、満たされておらず、足りない状態である。
それを自分自身で理解しており、傲慢にならず、へり下り、慎ましく、謙虚な気持ちと態度で、神様を熱心に求める人たちである。
ということがわかります。
つまり、自分自身が完全ではないことを理解し、自分自身には神様の存在が必要だということがわかっているからこそ、謙虚になり、神様を熱心に求める…。神の国はそのような人たちのためにある。
という意味になるわけです。
それは、人々に『律法に対する正しい解釈』を伝えるためです。
イエス様は、
・ユダヤ教の指導者たち
・ファリサイ派(パリサイ人=ユダヤ人のファリサイ派の律法学者)の者たち
・サドカイ派(サドカイ人の人=ユダヤ人のサドカイ派の律法学者)の者たち
これらの人々を、偽善者と激しく非難していました。
そのことについては、イエス様はマタイの福音書の23章で、明確におっしゃっています。
さらに、イエス様は、彼らが、『神のおきての代わりに人間の規則を教えている』と言っています。(マタイの福音書15:9)
イエス様がいらっしゃったその当時、ユダヤ教内部には、様々な主義主張が共存しており、新約聖書に登場するパリサイ派(ファリサイ派)、サドカイ派をはじめ、ヘロデ党、熱心党、エッセネ派などといった派閥が存在していたと言われています。
本来であれば、神様の教えに関しては、『神様の真理はひとつ』であるため、派閥組織を作る必要性はなく、ただ、純粋に『神様の真理』を信じることが最も重要であるのにも関わらず、
人間というのは、何だかんだ理由を付けて派閥を作り、その派閥の中で階級や位を作り、階級や位を利用して自分よりも下位層の人間を意図的に作り、
権威や自分のポジションにこだわり、他者に対してマウントを取りたがる傾向にあるということです。
それは、今の時代も同じであり、今日のキリスト教会も多くの派閥(教団組織)に分かれており、それぞれの教団によって、聖書に関する解釈や主義主張が異なっている状態です。
さらには、教団独自の人間が作った規則やルールを重要視するあまり、本来の聖書の意図や、神様の言葉や意図を忘れてしまっている人たちも大勢いるのではないでしょうか。
それは、まさに、イエス様の時代の律法学者やパリサイ人たちと同じような状態になっているように思えてなりません。
イエス様は、律法学者やパリサイ人について、このようにも言っています。
つまり、イエス様が人々に伝えたかったことは、
ユダヤ人の律法学者やユダヤ人の指導者たちは、本来の律法の解釈からかけ離れたことを、人々に伝え、
それらは、ただ単に、形式的なものになってしまい、神様の本来の意図とは違うものを人々に強要するものになってしまっていた。
しかし、本来の正しい解釈はそうではない。
ということを伝えたかったのです。
また、イエス様は、律法学者たちが好む『権威』についても、注意勧告をしています。
人間というのは、本当に愚かな側面を持っており、人間が集まり、集団ができ、組織を作ると、必ずといっていいほど、その組織の中で階級や位というものを作ります。
その結果、人間は自分がいかに正しく、自分がいかに偉い立場にいるのかといったことや、自分の権威を示すことをおこない、自分の階級や位、ポジショニングにこだわるようになり、最も重要な本質の部分をおざなりにしてしまう状態になるのです。
もう一度、イエス様がおっしゃたことを思いだしてみましょう。
その当時のユダヤ人の律法学者たちに対して、なぜ、イエス様がこのように厳しい言葉を投げかけていたのかというと、それは、ユダヤ人律法学者たちが、自分たちは完ぺきであると傲慢になっていたからです。
その当時のユダヤ人律法学者たちは、
「自分たちは、律法を学び、律法に詳しく、律法を人々に教えることができる。自分たちには権威があり、自分たちは人々を導くために完全な者である。」
このような考えを持ち、おごり高ぶった状態であったからこそ、イエス様は人々に向けて、
『心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。』
と言い、その言葉の中身というのは、
『心の貧しい人々』というのは、霊的なことにおいて困窮している状態であり、霊的なことにおいて乏しい状態であり、霊的なことにおいて、満たされておらず、足りない状態である。
それを自分自身で理解しており、傲慢にならず、へり下り、慎ましく、謙虚な気持ちと態度で、神様を熱心に求める人たちである。
それは、つまり、自分自身が完全ではないことを理解し、自分自身には神様の存在が必要だということがわかっているからこそ、謙虚になり、神様を熱心に求める…。神の国はそのような人たちのためにある。
ということであり、これが、イエス様が弟子たちや人々に教えたかったことなのです。
また、イエス様は『二人の男』の例え話を用いて、人々に『神様から赦される人々』についてもお話しています。(ルカの福音書18:10-14)
この二人の男の違いは、一体、何でしょうか。
●パリサイ人は、自分が罪人であるということを自覚しておらず、さらには、謙遜になることもせず、へり下ることもせずに、いかに自分が正しい行動をしているのかについて神様に告白しています。
その一方で、
●取税人は、自分が罪人であると自覚し、謙遜な気持ちを持ち、へり下り、神様に赦しを求めています。
イエス様は、この二人の男の例え話を用いて、高慢な者、卑しい者、そして、謙遜な者について、人々に理解させようとしてくださっているのです。
私たちの誰もに必要なことは、どんなに有能であっても、どんなに知識・教養・学歴があっても、傲慢にならず、謙虚になり、神様を熱心に求めることです。
神様の目から見れば、すべての人間は罪人です。
その理由は、私たち人間のすべてには、アダムとイブの罪によって、罪の根(シン・ネイチャー)が根付いているからです。
そのため、油断すると、私たち人間は、パリサイ人のように傲慢になり、おごり高ぶり、謙虚な気持ちを忘れてしまうのです。
だからこそ、すべての人間は、神様の元に立ち返ることが必要であり、その方法以外に、私たち人間が救われる方法はないのです。
イエス様は『山上の説教』を通して、人々に向けて、どのような者が神の国へ行けるのかついて話してくれているのです。
神様は、私たちにこのように言っています。
私たちは、決して、パリサイ人のようにはなってはいけません。
あなたはどうですか?
自分自身を冷静に客観的に見た際、心が伴っていない形式だけの律法を押し付けるパリサイ人のようになっていませんか?
中身が伴っていない形だけの律法主義になってしまったパリサイ人と同じようなことが、残念ながら、今日のキリスト教会でも発生しています。
だからこそ、私たちは自分自身を常に見直し、その都度、神様の元に立ち返り、神様を頼り、神様を求めていくことが必要です。
あなたにとって、私がお話したことが少しでも役立つことを切に願っています。
Article by Toshie Ito ©copyright Good news Minstries with Toshie Ito
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