預言の賜物を授かる人とは?当てはまっていれば、あなたは神様から預言の賜物を授かっていますWho Can Receive Prophecy of a Spiritual Gift?
神の子供として生きているクリスチャンたちは皆、神様から霊的な賜物(スピリチュアルギフト)を与えられます。
神様が神の子供たちに授けるギフトには、大きく分類して7つの賜物があると言われています。
現代では、『才能』のことを『賜物』というように表現している人たちが大勢おられますが、賜物は才能とは違います。
才能というのは、神の子供として生きていない人も持っているものではありますが、賜物は『神の子供限定のギフト』です。
賜物は神様の栄光を表すために用いられる目的で『神の子供に与えられるもの』であり、あなたの特性やあなたの性格に合ったものが神様から与えられます。
神様は、あなた以上にあなたのことをご存知の方です。
そのため、神様はあなたの性格やあなたの能力にピッタリの賜物を贈ってくださるのです。
賜物は、どの賜物が一番偉いかとか、どの賜物が一番、神様から喜ばれるか、そういった順位づけをするものでもありません。
どの賜物も、とても大切な役割があり、どのスピリチュアルギフトも非常に重要なのです。
聖書には、イエス様の弟子が、どの賜物をいただいたのかについても記載されています。
あなたは、ご自分が受け取った賜物がどの賜物であるか、ご存知ですか?
今回は、まずはじめに『預言の賜物』を授かる人たちはどのような人たちなのか、についてお話させていただきます。
今から私がお話することに、もしもあなたが当てはまっている場合は、あなたは、神様から『預言の賜物』を授かっていることでしょう。
まずはじめに、聖書が賜物(スピリチュアルギフト)について、どのように明言しているのかを見ていきましょう。
パウロが記したローマ人への手紙の12章6節から8節に注目して下さい。
ローマ人への手紙の12章6節から8節では、神さまが与えてくれる『7つの賜物』について話されています。
では、7つの賜物について、それぞれの聖書ではどのように記載されているのかを見てみましょう。
それぞれの聖書では、このように神様から授かる賜物について明言しています。
しかし、ここで、若干の疑問が生じます。
三種類の日本語で書かれた聖書を見比べてみますと、同じ言葉が使用されている賜物と、違う言葉が使用されている賜物があります。
これは、一体、どのように解釈したらよいのでしょうか。
三種類の日本語の聖書で記載されている賜物の言葉を見比べたとき、三種類の聖書の中で、共通して同じ単語が使用されている賜物の名前は、
これらの2つだけです。
その他の賜物の名称は、同じものもあれば、違うものもあります。
というようになっています。
私は、1955年改訳の口語訳聖書を持っているのですが、1955年改訳聖書ではどのように言われているのを見てみますと、
と書かれてあります。
1955年改訳聖書では、⑤については『寄付の賜物』という言葉が使用されています。
4種類の日本語翻訳の聖書の意味を並べると、
⑤については、
施し・分け与える・分け与える・寄付
という言葉として訳されている状態なのです。
私自身は、『真実を正しく追及したい』『正しいことを教えたい』という願望を強く持っているため、このように『異なる翻訳の言葉』を聖書の中で見つけてしまいますと、
「それらについての真実を見つけたい!」という強いモチベーション(動機)を持ってしまうため、そうなりますと、私は別の言語で書かれた聖書を確認しなければいけなくなります。
実は、この性質は『教える賜物/Teaching』を私が授かっているため、真実を追求し、事細かに詳細までも習得したいという情熱からきているものです。
もしもあなたが、そのような性質をお持ちの場合、もしかしたら、あなたも私と同じように『教える賜物/Teaching』を授かっているのかもしれません。
まず、私が簡単に比較できる聖書は英語で書かれた聖書です。
では、ここで、英語で書かれた聖書では、賜物についてどのように言っているのかを見てみましょう。
3種類の英語の聖書の中で、賜物(スピリチュアルギフト)について使用されている単語をピックアップしてみましたが、こちらも、同じ単語が使用されているものもあれば、違う単語もあります。
そのため、もしも、私たちが、神様から授かった賜物について、正しく理解したいのであれば、
1冊だけの聖書に頼るのではなく、複数の聖書を読み、それらのすべての単語の定義について確認していく必要があるのです。
では、そのことを踏まえて、それぞれの賜物について、深く掘り下げていきましょう。
パウロが記したローマ人への手紙の第12章6節から8節では、神様が神の子供たちに授ける『7つの賜物』が記載されています。
■第1の賜物
日本語の聖書では、『預言(よげん)の賜物』という言葉が使用されています。
そのため、まずはじめに、
Q.『預言(よげん)』という言葉には、一体、どのような意味があるのか?
ということについて、掘り下げていく必要があります。
現代では、『よげん』という言葉を聞くと、未来のことを伝えるという意味での『予言(よげん)』というイメージを持たれる方たちが多いことを推測いたします。
そのため、『よげん』という言葉を聞くと、『未来について言い当てる人』というような誤解をする方たちが多いようですが、
聖書で使用されている預言と、未来を伝えるという意味での予言は、まったく異なります。
預言は、英語では、Prophesy(プロファシィ)と言います。
Prophesy(プロファシィ)は、古代ギリシア語 の προφητεία プロフィティア(預言) から由来し、神の意志を解釈する能力・神の言葉を話す者という意味があります。
ちなみに、預言者は「 προφήτης 」プロフィティスと言います。
そのため、『預言』というのは、人が神の代わりとなって、神の言葉や神について正しい事を民衆に告げるという意味の言葉として使用されています。
ちなみに、スペイン語では、預言のことを Profecía プロフェシア と言います。
スペイン語の方が、古代ギリシア語 の προφητεία プロフィティア に近い言葉(Profecía プロフェシア)になっているので、とても興味深いと私は思いました。
旧約聖書の時代には、モーセが神様の言葉を民衆に伝えました。
このことは『モーセの預言』と言えますし、同じく、旧約聖書の時代、エレミヤは神様の言葉を民衆に伝えた預言者として非常に有名です。
預言の『預』には、『あらかじめ』『前もって』という意味が含まれておりますので、預言というのは、あらかじめ、前もって、神の言葉を伝えるという意味にもなります。
では、ここで、それぞれ、翻訳の言葉として使用されている言葉が違う聖書を通して、預言の賜物について見てみましょう。
英語の聖書・Good News Bible/Today’s English version では、【Speaking God’s message】という賜物の名前になっています。
これは、日本語に訳しますと、【神のメッセージを伝える】という意味になります。
そのため、預言の賜物(プロファシィ)は、
ということがわかります。
ただし、ここで、誤解しないでいただきたいことは、ただ単に、聖書についての話や解説ができるからといって、預言の賜物を授かっているわけではないということです。
聖書の中にある神様の言葉を、正しく人々に伝えることができる人たちには、『預言の賜物』を授かっている可能性がありますが、ただし、その判断をする前には、必ず、
これらを確認することが必要です。
そうでなければ、どの賜物(スピリチュアルギフト)を授かっているかについて、正しく判断ができないからです。
つまり、たとえ、聖書について詳しく語ることができる牧師さんがいるからといって、必ずしも、その牧師さんが預言の賜物を授かっているとは、簡単には判断できないということです。
もしも、聖書に書かれている神の言葉について、人々が理解できるように、正しく適切に教えることができる者がいたとしたら、もしかしたら、その人は【教える/Teaching】の賜物を授かっているかもしれません。
しかしながら、聖書をただ、朗読しているようにしか思えないような説教をしている者や、ただ単に、聖書箇所についてのあらすじ解釈を説明をしているだけのような者、
あるいは、聖書に関する情報はたくさん持っているが、動機が『預言の賜物の動機』に当てはまっていない者は、おそらく、教えるという賜物も、預言の賜物も授かっていません。
おそらく、その人たちは別の賜物を授かっていることでしょう。
ぜひ、あなたに理解していただきたいことは、
ということなのです。
神様から授かる賜物は、あなたの性格やあなたの性質にぴったりと合ったものが授けられます。
それぞれの賜物は、それぞれの賜物に適した性質と属性があるのです。
おそらく、多くのクリスチャンの皆さんは、教会で説教をおこなっている牧師さんの皆さんは『預言の賜物』を授かっていると思い込んでいるかもしれませんが、教会で説教をしているからといって、必ずしも、その牧師の皆さんが『預言の賜物』を与えられているわけではありません。
預言の賜物は、神学を勉強し、神学校を卒業し、牧師になった者たち、あるいは、教会で牧師として説教をしている者だけに、特別に与えらえるわけではなく、むしろ、牧師であっても、預言の賜物ではなく、別の賜物を授かっている場合もあるのです。
理由は、神様の目から見ると、その牧師の皆さんたちは、預言の賜物ではなく、神様の栄光を示すための働きが最大限におこなえる別の賜物を与えられているからなのです。
神様から授かる賜物については、どれが一番優れているというような競争をするものではありませし、優劣を付けるものでもありません。
神様の栄光を示すためには、すべての賜物が重要であって、すべての賜物が必要なのです。
この7つのすべての賜物をお持ちである方は、唯一、イエス様だけなのです。
私たちは、それぞれが、イエス様の体の一部であるため、私たちは、イエス様がお持ちの賜物の中のひとつを授かっているのです。
そのため、どの賜物が一番偉いか勝負のようなことをおこなってはいけないのです。
私自身は、この賜物について、In Touch Ministry の創始者であり、世界的にも有名な伝道者である、私が非常に尊敬する師でもあるDr. Charles Stanley 牧師から学びました。
Dr. Charles Stanley 牧師は、『教えの賜物/Tesching』を授かった方であり、彼の教えは非常に分かりやすく、的確で、私は今まで、聖書に関して、彼以上に素晴らしい教師に出会ったことはありません。
賜物(スピリチュアルギフト)について、詳しく学べば学ぶほど、神様が私たちに授けてくださった賜物の素晴らしさを知ることができ、神様の偉大さをより実感しています。
また、賜物(スピリチュアルギフト)について、詳しく学ぶことによって、私は他のクリスチャンにの皆さんたちが、どのような賜物を授かっているかを見つけることができるようにもなりました。
神様から神の子供へ与えらえる賜物は、才能とは違います。
クリスチャンの皆さんたちの中には、
と理解していらっしゃる方たちが、意外と多くおられるかもしれませんが、
聖書で言及している『賜物』は、神様から与えられる『スピリチュアルギフト(霊的な賜物)』であり、才能ではないのです。
才能は、神様の子供として生きていないノンクリスチャンの皆さんたちも持っているものです。
そのため、才能はスピリチュアルギフトではないのです。
このことについての詳しいお話は、『なぜ、あなたにピッタリの賜物を知ることが必要なのか?』の中で、お話しておりますので、まだ、ご覧になっていらっしゃらない方は、ご覧になって下さい。
■預言の賜物を授かっている者とは?
預言の賜物を授かっている者たちが、非常に重要視していることは、
などです。
そして、預言の賜物を授かっている彼らは、神様に対して、非常に高い忠誠心を持ち、常に『真実』を追求し、一切の妥協なく、人々に対して『真実』を話します。
そのため、預言の賜物を授かっている人たちは、日々の生活の中では、意外と孤独であるケースが多いです。
理由は、彼らにとっては、他者との協調性を持つことよりも、一切の妥協なく、神についての真実を話すことの方が重要だからです。
預言の賜物を授かっている者たちは、妥協をすることがないため、組織や教団の中の一員として、協調性を持ち、活動していくことができる⑥番目の賜物である『指導・監督(リーディング_Leading・オーガニゼイション_Organization)』の賜物を授かった人たちとは違います。
むしろ、預言の賜物を授かっている人たちは、特定の組織や教団の中の一員として存在することが苦手な面があります。
⑥番めの賜物である『指導・監督(リーディング_Leading・オーガニゼイション_Organization)』の賜物を授けられている人たちは、グループの一員として、他者の皆さんたちとの協調性を図りながら、組織の一員としての役割を果たすことが得意ですが、
預言の賜物を授かっている人たちは、通常、グループの一員としての役割を果たすことが苦手ですので、おそらく、預言の賜物を授かっている人たちは、グループや組織の中で、預言の賜物を最大限に活用することはできないでしょう。
教会を成長させるということを考慮した場合、その教会の代表である牧師さんが、⑥番めの賜物である『指導・監督(リーディング_Leading・オーガニゼイション_Organization)』の賜物を授かっている場合、その教会は統率され、組織化され、教会として成り立っていくことができますが、
もしも、その教会の代表である牧師さんが、⑥番めの賜物である『指導・監督(リーディング_Leading・オーガニゼイション_Organization)』の賜物を授かっていない場合は、おそらく、その教会は路頭に迷う状態になるでしょう。
『指導・監督(リーディング_Leading・オーガニゼイション_Organization)』の賜物には、適切なリーダーシップ能力が必要です。
教会の代表者になる人は、教会員の皆さんを、適切に統率していくためには、人々がついていくようになるための『リーダーシップ能力』が必要です。
もしも、教会の代表者である牧師が適切なリーダーシップ能力を持っていない場合は、その教会に通っている教会員の皆さんは、迷える子羊そのものになってしまうのです。
預言の賜物を授かっている者は、実は、一匹狼タイプの人が多いのです。
その理由は、彼らにとっては、神様についての一切の妥協がないため、もしも仮に、誰かが聖書に関することや神様に関することで、間違ったことを言っていたら、早急に、その人の発言を正します。
そのため、預言の賜物を持っている人は、他者から嫌われる存在になる場合が多いのです。
そして、預言の賜物を持っている人たちが相手を正す方法は、必ず、『聖書の神様の言葉』に則った上で正すということになります。
例えば、
「あなたの発言は、聖書の○○とは違う。」
「神様は、聖書の○○でこう言っている。」
などといった言い方で、聖書箇所を引用し、相手の間違いを正すことを、早急におこないます。
そのため、預言の賜物を授かっている者たちの性格やパーソナリティというのは、通常、組織や教団の中の一員として、他の一員の人たちと足並みを揃えて、順応しながら、神様の栄光を示すための働きをすることに適していないのです。
新約聖書の中で、預言の賜物を授かった代表的な者のひとりは、
です。
洗礼者ヨハネは、イエス様が現れるまで、たったひとりで荒野で、人々に水の洗礼(バプティズマ)を授けていました。
洗礼者ヨハネは、どのグループや組織にも所属しておらず、たったひとりで、人々を神様の元に導くために洗礼を授けていました。
洗礼者ヨハネは、荒野でたったひとりで、まったくブレることなく、熱心に神様の言葉と真実を伝える活動をしていました。
洗礼者ヨハネは、神の言葉を伝える預言者であり、まさに、一匹狼だったと言えるのではないでしょうか。
真実の預言者は、常に神様についての真実を話します。
彼らは真実について黙っていることができませんし、嘘をつくこともできません。
預言の賜物を授かっている者たちが、非常に嫌うのが『嘘』です。
そのため、彼らは、自分たちの私生活の中でも嘘の発言をしませんし、嘘には厳しいです。
そのため、日本にある悪しき風習である『嘘も方便』というものは、彼らは受け入れませんし、預言の賜物を授かっている者は、決して、妥協せず、常に真実を話します。
さらには、預言の賜物を授かっている者たちは、白黒はっきりしている性質を持っています。
彼らにとっては、グレーゾーンはありませんし、白と黒を混ぜ、両方を同調させたり、両方の中間地点を取るというような考えもありません。
預言の賜物を授かっている者たちは、そのような特性を持っているのです。
彼らが発言する動機や、彼らが物事を進める動機には、必ずといっていいほど、
ということが根底にあります。
そのため、もしも、教会が間違った方向に向かってしまった場合や、適していないことをおこなっている場合は、預言の賜物を授かっている者たちは、正しい道や正しい方向に戻すために必要な『正しい発言』を『神様の言葉に沿った状態で』おこないます。
しかしながら、その正しい発言というのは、
「今、教会がおこなっていることは、聖書で言われている○○とは異なることであるため、正しくない。だから、教会は、■■をする必要がある。」
というような、ダイレクトな発言ではありますが、彼らは具体的におこなう内容を構造化して、細分化して、実践するための詳細についてアドバイスをおこなうわけではないのです。
”勧めの賜物Exhortation(エクゾティション)”の賜物を授かっている者の代表例は、パウロです。
ローマ人への手紙を見れば、パウロが”勧めの賜物Exhortation(エクゾティション)”を授かっていることが明確にわかります。
Exhortation(エクゾティション)の賜物を授かっている者は、実際に実行するための事柄について、事細かに指示を出すことが得意です。
パウロが記したローマ人への手紙を、じっくりと読んでみてください。
そこには、皆がおこなう必要性がある事柄について、事細かい指示が出されています。
しかしながら、預言の賜物を授かっている者は、あえて、事細かい指示を出すことはしないのです。
理由は、預言の賜物の属性には、そのための動機(モチベーション)がないからなのです。
預言の賜物を授かっている者たちは、自分の発言にしろ、他人の発言にしろ、常に『バイブルチェック』をおこない、神様の言葉と照らし合わせることに優れた能力を発揮します。
預言の賜物を授かっている者たちは、まさに『歩くバイブル』『歩く百科事典』のような人たちですが、人々に対して、おこなわなければいけないことを、一から十まで、事細かに指示を出していくような役割は担っていないのです。
■預言の賜物を授かった者の性質
新約聖書の中では、私たちはペテロ(Peter)は預言の賜物を授かった者であったことを見ることができます。
【預言の賜物を授かった者の性質】
正直(Honesty)
真実を明らかにして表面化する(Confrontation)
防御・答弁が上手(Defense)
勇敢・勇気・度胸が非常にある(Courage)
啓示する(Revelation)
いわゆる『偽預言者』と言われる者たちは、他の者たちには正しいことを求めますが、自分たちの生活の中には正しさを求めず、むしろ、自分たちの生活には、正しさや真実を入れ込むことを避けます。
『偽預言者』たちというのは、他者には厳しさを要求しますが、自分たち自身には甘いのです。
しかし、真実の預言の賜物を授っている者は、他者には厳しく、自分にも厳しいのです。
理由は、真実の預言の賜物を授かっている者には、そもそも、妥協という思考がないからです。
真実の預言の賜物を授っている者は、常に神の真実を探求し、彼ら自身の生活の中には、常に神が君臨しており、神への忠誠心が非常に高いのです。
預言の賜物を授かる者は、神様に対して不誠実である者や、偽善をおこなっている者、神の目から見て間違いを犯している者、神様に対して誤った思想や考えを持っている者たちを、神の言葉に従うように導き、そして、神に立ち返るように導きます。
預言者としてのペテロの働きについては、使徒の働き第2章40節で確認することができます。
※聖書の種類によっては、ペテロの名前はペトロと記載されていますが、同一人物です。英語ではPeter(ピーター)と記載されています。
預言の賜物を授かる者は、手柄を自分のものにはしません。
彼らは、常に『神の手柄』『神の働き』『神の導き』といったように、神様の栄光を示し、神様を称賛します。
使徒の働きの第3章では、足の悪い物ごいの男性が、ペテロの働きによって歩けるようになった出来事が記載されています。
その際にペテロは、こう言いました。
しかし、ペテロは、この男が歩けるようになったことに対する手柄を自分のものにはしませんでした。
ペテロはこのように言いました。
ペテロは、自分の働きを通して、イエス様の栄光を示すこと、イエス様を称賛することを、忠実におこなっているのです。
40年もの間、立てずに歩くことができなかった男が、イエス様のお名前の力で治った後、ペテロとヨハネは神殿の警備隊に逮捕されてしまいました。
その後、警備隊や祭司たちは、ペテロとヨハネに対して、「今後、一切、イエスのことを話してはならない。」と、ふたりにきつく言い渡しましたが、ペテロとヨハネは、きっぱりと答えました。
預言の賜物を授かる者は、たとえ、自分が投獄される状況であっても、今後、自分に発生する影響を恐れずに、神様の栄光を示すためには、どのような事にも勇敢な態度で臨みます。
たとえ、どんなに自分が迫害されることになっても、自分にとって恐ろしいことが起こることが予想されても、預言の賜物を授かる者たちは、恐れずに勇敢に立ち向かっていきます。
私は、個人的に、『預言の賜物』を授かっている人を知っておりますが、まさに彼は、彼の行動も発言も、彼の生き方すべてが、預言の賜物の性質どおりの人です。
使徒の働き第5章では、土地を売ったアナニヤが代金の一部を手もとに残しながら、嘘をついて欺いたことに対して、預言の賜物を授かっているペテロの対応が記載されています。
預言の賜物を授かる者は、人々がおこなう欺瞞的なことや、偽善的なこと、神に背く行為を暴き出し、それを明確に表面化させ、指摘し、神の元に立ち帰るように警告します。
理由は、預言の賜物を授かっている者にとっては、誰かがそのような態度や行動を取っていることを、黙って見逃がすことができないからです。
■預言の賜物を授かった者の特徴
神様から授かった賜物を活用する際、私たちには、その賜物を活用する際の『動機』があります。
賜物を活用する際の動機のことを『モチベーショナル・ギフト』と呼びます。
この『動機』とは、賜物を活用するためのやる気を起こさせる動機であったり、賜物を活用する際に情熱を持って取り込めるための動機であったりもします。
私たち人間がおこなう行動のすべてには、何らかの動機が発生しますが、私たちが賜物を活用する際には、それぞれの賜物によって、ある特定の動機(モチベーショナル・ギフト)があり、私たちは、自分たちが授かった賜物によって、賜物をおこなう際の動機が異なるのです。
この動機(モチベーショナル・ギフト)を、正しく理解していないと、私たちは、自分が授かった賜物を間違って判断してしまいます。
■預言の賜物を持つ者の動機
モチベーショナルギフト
預言の賜物を授かる者は、さまざまな迫害にも耐える強い精神力とマインドを持っています。
彼らの心は、どんなに過酷な状況に陥っても、決して、折れることはありません。
彼らは、神に対して絶対的な忠誠を誓っており、神の栄光のためであれば、自分の命をも投げ出すことも厭わないという気持ちを強く持っています。
さらには、預言の賜物を授かる者は、神を畏(おそ)れる気持ちや敬う気持ち、偉大な神に対しての尊敬の念を強く持っていますので、決しておごり高ぶらず、自分自身を低くします。
そのことがわかる例のひとつは、ペテロの発言です。
預言の賜物を授かる者の正誤の基準は、神の言葉を基盤にした真理です。
彼らは聖書の御言葉を使用して、人々の間違いを正し、神の言葉を伝え、人々を神の元へ導きます。
使徒の働き第3章では、ペトロは次のように語り、人々を神の元へ立ち返らせる働きをしました。
預言の賜物を授かる者は、自分たちの日常生活の中でも、聖書や神の言葉を引用し、自分の考えや発言の正当性を示します。
彼らにとっては、神と聖書が人生の基盤であり、神と聖書以外に彼らがこの世で熱心に心を注ぐものはありません。
彼らの神に対するコミットメントは非常に高く、彼らは聖書に非常に精通しており、その知識量はまるで『歩く聖書』のような人たちです。
預言の賜物を授かる者は、常に、物事を白黒とはっきりさせることをします。
彼らにとって、曖昧なグレーゾーンはありませんし、黒と白を混ぜて順応させるという考えもありません。
たとえ、人々が聞きたくない事柄であっても、預言の賜物を授かる者にとっては、『黙っている』『言わないでいる』という選択肢がありません。
彼らは、自分が感じた『間違い』や『事実と異なること』については、たとえ、それが、自分たちよりも上の立場の人たちに発生したことであっても、その間違いを正す発言を、臆することなく、おこないます。
マルコの福音書の第8章31-32節では、ペテロが偉大な方であるイエス様を諫(いさ)めようとする姿が記載されています。
預言の賜物を授かる者というのは、自分が感じたことは口に出して言わないと気が済みません。
彼らは、自分たちが思ったことを心の中に留めておくということが非常に苦手なのです。
預言の賜物を授かっている者たちは、本音と建前のようなものは一切ありません。
彼らは、相手が誰であろうと、臆することなく、発言することをしますので、そういった意味では、非常に勇敢であり、そのような性質を持っているからこそ、迫害も気にせず、相手の身分や地位も気にせず、どのような状況でも、神の言葉と真実を伝えるという役割に適しているのです。
イエス様は、神の国や神についての真実や真理について、たとえ話を用いて話しています。
イエス様は、それぞれの人々の聞く能力のレベルに応じてわかりやすく教えることを目的としていたため、神の国や神についての真実や真理について話す際には、頻繁にたとえ話を用いて話しています。
イエス様のたとえ話は、光と影、啓示と秘密、惠みと裁きの意味を同時に含んでいます。
そのため、ときには、辛辣に聞こえるような話もあります。
そのような理由から、もしかしたら、話を受け取る側の立場からすると、厳しく聴こえることや、冷たく聴こえることもあるかもしれません。
しかし、預言の賜物を授かる者は、決して、意地悪な気持ちや、相手を傷つけるという目的で話をしているわけではないのです。
彼らは、正直者であるが故に、自分自身を含め、神の言葉に適していない他者の発言や行動について『正したい』『正しくなってもらいたい』という思いが強いため、相手が誰であっても、ひるむことなく、はっきりと『正しいこと』を伝えるのです。
預言の賜物を授かる者も、神の国や神についての真実や真理について、頻繁にたとえ話を用いて話します。
彼らが使う例や、たとえ話は、とてもわかりやすく、非常に理にかなっており、納得できるものです。
また、彼らはそれを、深く考えることをせずに、瞬時に出来る能力を持っていますので、そこには、何らかの神からの啓示か、精霊(ホーリスピリット)の働きがあるようにしか思えません。
■預言の賜物を授かった者の役割
預言の賜物を授かった者は、教会にとって重要な役割を持っています。
その中のひとつは、『教会を神の御心に沿った正しい方向に導く』ということです。
教会を神の御心に沿った正しい方向に導くためには、預言の賜物を持った者が必要です。
理由は、預言の賜物を授かった者は『本音と建前』の『建前』といった『裏』を一切持っておらず、神のことについては、一切の妥協をせず、間違いを見つけたらその間違いを明確に指摘し、教会が間違った方向に行くことを阻むための役割を果たすからです。
教会に多くの人々が集まり、教会が組織というものになると、必ずといっていいほど、色々な問題が教会内に発生します。
理由は、教会という組織は、人間が作っているものであるため、教会員との協調性のための妥協があったり、間違いを見つけても見逃してしまったり、他の教会員の目を気にして、正しいことを言えなかったり、などといったことが発生するわけです。
なかには、教会員たちが好む聖書箇所のみしか説教しない牧師の皆さんたちもおりますし、逆に、教会員たちが理解できないような、意味がわからないような説教をする牧師の皆さんたちもおります。
また、説教という名の『聖書のあらすじ解説』をしている牧師の皆さんたちも、残念ながら日本の教会には多いことをお見受けしております。
その背景には、教会が『教団』という組織に属し、教団が決めた規則やルールに則(のっと)り、教団の規則やルールにばかり捕らわれているため、人々の心に伝わらない説教になってしまっているということが、残念ながら多くの日本の教会で発生しているのではないでしょうか。
おそらく、多くの牧師の皆さんたちは、今まで、長い時間をかけて、神学を学んでおられると推測いたしますが、それなのにも関わらず、最も重要な役割である
●神の言葉を人々の心に響くように伝える
という部分が、おざなりになってしまっており、ただ単に、聖書を朗読し、聖書箇所を解説するだけの説教をおこなっている方たちが、日本の教会では多いことをお見受けしております。
教会に集まる最大の目的は、私たちを救ってくださった神様への礼拝を捧げるためです。
そのため、教会というのは、皆が笑顔で喜びに満ち溢れる場所になる必要があると思いますが、多くの日本の教会ではその熱気が感じられません。
説教をする者も、説教を聴く者も、両方ともが、まるで死んだ魚の目のような状態で、神様を心の底から熱心に求めているようには見えなかったりもします。
もしも教会に、預言の賜物を授かった者がいたら、彼らはそんな教会の在り方を指摘し、教会を正しい方向に導くために尽力することでしょう。
理由は、そのような教会の在り方が、神様の目から見て正しくないということを、預言の賜物を授かっている者たちは、すぐに見抜くからです。
預言の賜物を授かった者にとっては、
●神の目から見て正しいことをおこなう
ということが、最も優先される最重要事項ですので、預言の賜物を授かった者にとっては、教会や教団の規則やルールに縛られることなく、何があっても臆することなく、
●教会を神の御心に沿った正しい方向に導く
ということをおこなうのです。
だからこそ、教会には、本当の意味での『預言の賜物を授かった者』が必要なのです。
預言の賜物を授かった者は、例えると『スパイス』のようなものです。
日本には、ワサビという極上のスパイスがありますが、お寿司を食べる時、ワサビがなければ、なんとなく、引き締まらない感じがしますが、ワサビをつけると、ワサビの辛さが引き締まった味と満足感をもたらします。
お肉料理を食べる時も、胡椒(コショウ)というスパイスを加えることで、ピリッとした舌の感覚を得ることができ、それによって、味が引き締まり、より一層、お肉の美味しさを感じることができます。
教会にとって、預言の賜物を授かった者はスパイスと同じような役割をします。
教会が、教会員という『慣れ親しんだ人々』だけの集まりの場所になってしまった場合、もしも、預言の賜物を授かった者がいなければ、教会は中だるみ状態になりますが、
もしも預言の賜物を授かった者がいれば、おそらく、教会の中も人々も、引きしまった状態でいることができるでしょう。
教会を神の御心に沿った正しい方向に導くためには、預言の賜物を授かった者が必要です。
あなたは預言の賜物を授かっていますか?
預言の賜物を授かっている者の特徴や性質、動機(モチベーショナル・ギフト)を理解した上で、あなたに質問です。
もし、あなた自身が、預言の賜物を授かっているとしたら、ぜひ、その賜物を活用していただき、神様の栄光を示す働きをおこなっていって下さい。
もしもあなたの周りに、預言の賜物を授かった人がいる場合は、ぜひ、その人が預言の賜物を最大限に活用できるようにお祈りしてあげて下さい。
預言の賜物を授かっている人たちは、どのような迫害にも負けない強い心を持っておりますが、それでも、私たちと同じ人間ですので、ときには、なんらかの誘惑に出会うときがあるかもしれません。
そのため、預言の賜物を授かっている人たちが、引き続き、強固なマインドで、教会の盾になってくれることや、教会を間違った方向に行くことを阻む役割を全うできることを、ぜひ、お祈りして下さい。
実は、私の夫は預言の賜物を授かっております。
そのため、私は預言の賜物を授かった人が、どのような行動をするかを、間近で見ているため、預言の賜物を授かった人について非常によく理解できているように思えます。
もしかしたら、クリスチャンの皆さんたちの中には、預言の賜物を授かりたいと希望する方たちがいらっしゃるかもしれませんが、預言の賜物というのは、授かりたいと思っていても授かれるようなものではありません。
そもそも、預言の賜物を授かる人たちというのは、預言の賜物を授かることにマッチした性質や側面をはじめから持っており、
その性質や側面というのは、私たちが何かを勉強したから備わるというものでもないのです。
そのため、牧師になりたいという願望を持ち、神学校に通って神学を勉強したからといって、預言の賜物を授かるわけではないのです。
また、預言の賜物を授かった者というのは、授かっていない者よりも、聖書や神様の言葉を語ることにおいて、責任が重いです。
責任が重いことについては、【教える/Teacing】という賜物を授かった者も同様です。
私自身は、【教える/Teacing】という賜物を授かっております。
そのため、私は自分が語ることや、自分が教えることにおいて、非常に責任重大な役割を担っていると思っております。
理由は、もしも私が、聖書や神様に関することにおいて、正しい真実をお話しなければ、私は『偽教師』になってしまうからです。
偽教師や偽預言者の末路がどのようなものになるのかについては、聖書を熟読し、聖書を深く理解している方にとってはご存知のことだと思います。
私は、偽教師にはなりたくありませんので、聖書を学ぶことに関しましても、たった1冊の聖書だけに頼るのではなく、いくつもの違う翻訳の聖書を読み、神様の言葉についての理解を深めることをおこなっています。
いくつもの違う翻訳の聖書を読み、聖書を正しく読み解くための作業は、時間と労力がかかります。
しかし、たとえ、労力がかかろうと、神様の言葉である聖書を正しく詳細に読み解いていきたい。そして、それを実行し続ける。
これが、実は【教える/Teacing】という賜物を授かっている人の性質のひとつでもあります。
そのような理由から、ひとりでも多くの皆さんに、賜物(スピリチュアルギフト)について正しく理解していただきたいと思い、賜物についてお話させていただきました。
あなたにとって、少しでも私のお話が役に立つことを切に願います。
Article by Toshie Ito ©copyright Good news Minstries with Toshie Ito
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