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やさしい・ふつう・むずかしい

Mのひとに優しくするのは優しさなのだろうか。真夏の日に扇風機から優しい風の「ゆらぎ」とか飛ばされても僕はきっとイラついてしまう。罰ゲームの熱湯風呂が見るからにそんなに熱そうじゃない時の芸人は見ていていたたまれない。罰ゲームの是非は置いておいて。

小さい頃、ゲームが苦手な僕はRPGや格闘ゲームで表示される「やさしい」はゲームが苦手な僕に優しいモードだと思っていた。でも、難易度っていう言葉を知るくらい大人になった時に気づいた。なんだ、ゲームは易しかっただけか。僕に優しくしてくれてた訳じゃないんだって。別にそれが悲しかったなんて嘘をつくつもりはないけど、そんな可愛い僕の幻想はすーっと消えていった。気がつかなければいつまでもゲームは僕に優しかったのだろうか。

道徳の授業でよくあるテーマのひとつに「嘘はついてはいけないか」というものがあると思う。ディベート大好き少年少女たちは、『相手を守る嘘もあるからいい!』とか、『嘘はいつかバレるし、本当のことがわからなくなるからよくない!』とか主張して、ルールに則り、思い思いに相手を打ちまかそうとする。別にそこに正解なんてないし、勝敗なんてつけようはないのだけれど。

その授業がどのような形で終わりを迎えたのか、先生がどんな言葉を僕に向けてくれていたのかは思い出せない。でも、モラトリアムを終えてしまった大人の僕がここに結論を下そう。「ケースバイケース」であると。そんなものはディベートではないけど。人生もディベートじゃないから。

いじめと優しさはよく似ている。いじめられた側は覚えていて、いじめた側は覚えていないなんてのは同窓会あるあるというか、もはや人間あるあるだ。優しさもそんなものだと思う。かの有名な藤原先生もこう歌っている。「ねぇ 優しさって知ってるんだ 渡せないのに貰えたんだ」と。

いじめも、優しさも受動態なんだと思う。いじめるつもりがなくても「いじめられさせて」しまうことがあって、そっけない態度がやさしく染みることもある。残念ながらいじめがなくなっていないのと一緒で、きっと「優しくする」なんて言うことは達成できないのだ。

話は続きながらも変わって、思春期の頃の僕、いや俺は思春期思春期していた。思春期特有の尖りを見せていた俺は独自の理論を持っていた。「優しいと思われているやつはそこまで優しくない」という理論だ。

例えば、隣の席の女の子が消しゴムを落としたとしよう。爽やか好青年のAくんは颯爽とその子の肩をたたき、「消しゴム落としたよ。」「あ、ありがとう。」くらいの会話を交わしながら消しゴムを手渡すだろう。一方のひねくれ尖りボーイの俺は、何も言わずに気づかれないように注意を払いながら消しゴムを拾い、その子の机に会話もなくそっと戻していた。

俺の理論で言うと、Aくんより俺の方が優しかったのだ。なぜかと言うと、Aくんは「消しゴムを拾ってあげる」という優しい行為と女の子からの「ありがとう」という感謝を交換しているからだ。一方、俺は無償で優しい行為を提供している。誰にも気づかれることなく、見返りも求めずに優しい行為だけを静かに行なっている俺の方が確実に優しい。当たり前のようにそう思っていた。

もちろん、今はそんな風には思っていない。例えば、優しくされること自体で救われるということもあるだろう。さっきの話だと、俺のほうは女の子は消しゴムが落ちたことにも気付いていない。感情は何も動いていない、プラマイゼロだ。でも、Aくんの方は、確実にAくんに優しくしてもらっている。もし仮にAくんのことが好きだったりしたら、その日は一日ルンルンで過ごせるだろう。結局どちらが嬉しいのかはその女の子に聞いてみないとわからないけど。

またまた話は変わりながらも続く。大学の先生に魔女みたいな見た目をしたカッコいいひとがいた。僕は大学で心理学を専ら学んでいたため、その先生も心理学が専門であった。確か自分のクラス担任でもあったその先生の言葉で今でも鮮明に覚えているものが二つある。

一つは、卒論発表後の打ち上げでおっしゃっていた、「私は人生なんて死ぬまでの間の暇つぶしだと思っています。」というものだ。笑顔で発せられたその言葉は今でも時折自然と思い出される。その言葉があったおかげで、様々な情報に溢れ、流動的に変化し続ける社会や、なんとなく何かをしなくては、自分磨きをして市場価値とかいうものをあげなければならない、という若者特有の謎の焦燥感と少しだけ折り合いがついた気がする。まだまだ若いし、まだまだ悩み続けてはいるけど。

そして、もう一つは大学に入ってすぐのオリエンテーションでの、「なんでも白黒つけようとしないでください。疲れちゃいますから。」という言葉だ。臨床の現場に立ち、様々なひとを見てきた、心という捉え所のないものとずっと向き合ってきた人が放ったその言葉は、高校までの正解を求める勉強のフィールドから、自分自身で答えを探す学問のフィールドへと遷移した自分の胸に深く根を張った。


今でも白黒つけようとしてしまう時はある。でも、その時はそれでもいいと思う。白黒つけてはいけないと言い切ってしまうこともきっと正しくはないのだろう。

きっとついてもいい嘘もあって、めちゃくちゃ頑張らないと倒せないラスボスや、荒々しい自然の風が心地いいときもある。

Mのひとにだってムチを振り回したい夜があるのだ。

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