RISING SUN ROCK FESTIVAL 2023 非日常も日常もすべて等しく、世界。
八月の暴力から逃れるように閉じ籠った家の中で、村上春樹の『街とその不確かな壁』を読み終えた。一ヶ月ほどかけて。
村上春樹の本を読むようになったのはこの数年のことで、しかも考察とか繰り返し読むとかいうことをしないからいつも内容についてはよくわかっていない、と思う。結局のところ、あの『街』は何のメタファーか、なんてはっきりとはわからない。
それでも村上春樹の本を読むのは、なぜかリラックスできるからだ。
ほとんどの小説を僕は結末に向かって読むし、驚いたり感動したり納得することを期待している。だけど、村上春樹の本を読んでもそういうことは起きない。
ホテルステイのような感じだ。
多くの旅行は目的地があり、目当ての食べ物があり、見たいものがあるのだけど、村上春樹の小説を読んでいる時、僕はすでに目的を達している感覚があって、特にどこかに辿り着こうとはしていない。目的地に向かう旅ではない、道程がそのまま目的になる旅。
もしくは、音楽。
その文章のリズムとか、会話文の面白さとか、平易なのに適切な表現とか、そういうものに乗っかっているだけでリラックスできるのは、音楽を聴く行為に似ている。そんな感じの読書体験は、村上春樹でしか体験できない。
ところで、8月11日から13日までライジングサンロックフェスに参加してきた。
二十代の頃の楽しみと言えばもっぱらこればかりで、一年間の日常はこの非日常のためにあるといっても大袈裟ではなかった。奨学金を散財するクソ専門学生時代も、バイト先のコンビニでもらえる廃棄で生きてたクソ貧乏フリーター時代も、年金を滞納しまくっていたクソ派遣社員時代も、いつも変わらず八月はライジングサンだった。「ライジングが終わるとめっきり涼しくなりますね」なんて挨拶すら身の回りで定着していくほどに。
世の中の大半の人がそうであるように、そんな僕だって、なんだかんだと大人になることは避けられない。
スピード違反で切符を切られてお金がなくなったり、お盆休みを希望する職員同士のじゃんけんに負けたり、身重の妻を一人残しては行けなかったり、忘れてた新築の家のボーナス払いにあたふたしたり、三人の子供がそれぞれに騒がしかったり、そもそも音楽から遠ざかったり。
そんなこんなでライジングに行けないことが多くなった。行けないし、いかなかった。
要するに『日常』の比重が大きくなっていったのだ。
たぶん、若い頃には『非日常』のために消化していた『日常』が、年齢を重ねるにつれてもっと重要なものになっていって、『非日常』なんて言ってらんねえよ、てな感じのパワーバランスに変移したのだろう。
素晴らしいことだ。
じっさい、若い時より理由もなく気分が落ち込むことは少なくなったし、ちゃんとしたご飯を食べられているし、笑うことは多い。
それでも、どこかになにかを忘れてきたような感覚があった。
好き勝手やらなくなった分、人間関係は円滑になったけど、当たり障りなくなったとも言える。ちゃんと働くようになった分、色んなものが手に入ったけど、いつももっと欲しがってるような気がする。
クソみたいだった自分をちゃんと好きだった若い頃と比べて、そこそこしっかりしてきた今は自分の足りない部分が目につくようになっている。
不幸ではないが、悶々とする。そんな、社会人三年目のような悩みが、締まりの悪い蛇口みたいにいつまでも滴り落ちていた。
数年振りに参加したライジングは猛暑で、Creepy Nutsが始まる前からヘロヘロ。一緒に参加した子供の体調ばかり気になって、ビールよりもポカリを飲む。
子供に付き合って遠くから聴いたyamaの、アーステントから漏れ出てくる魅力的な声と目まぐるしくも美しいメロディに「これがエモいってことか」と思わされた(子供には『エモい』はもう古い、と言われた)。
10FEETのMCに感銘を受ける長女。
レジャーシートの上で電気グルーヴを聴くと、五歳の末娘から小学五年の長女まで、自然と身体が踊りだすという発見。
夕方にかけて、昼間の日差しが嘘のようにゆったりと流れ込む湿気を含んだぬるい風。
気温が下がってようやく飲めた黒ラベルの一口目。その、子供が狂ったようにリピートしたロングポテトとの相性。
妻の運転する車のオーディオで、聴いた曲をおさらいする一日目の終わり。
早々にレジャーサイトの隙間にレジャーシートを敷き、からあげくんをつまみながらラブサイケデリコを息子と待つ炎天下。
スーパービーバーの真面目なMCを聞いてほしくて、振り返れば目に入る息子の寝顔。
そして、生まれついてのふらふらしたがりの僕をきちんと理解してくれている妻が「一人でふらふらしておいで」と送り出してくれたおかげで訪れた「真夜中に一人でビールを飲んでいると素敵な音楽が聴こえてきて、近づいてみれば初めて聞く名前の自分好みのアーティスト」っていう、ライジングの醍醐味。
そんな様々な出来事があって、テーブルの上にあるビールを濡らす小雨に打たれながら、突然「あ、今の俺に足りなかったのはライジングだったんだ」と、まるで雷に打たれたように実感したのは、『街とその不確かな壁』を読んだからだったのかもしれない。
もしくは逆で、ライジングという『非日常』が、過ぎ去った「あの頃」を思い出させてくれたおかげで、「あの『街』とは、二度と返らない『あの頃』のことなのかもな」と思い至ったのかもしれない。
ただの思いつきで、考察でもなにもない(だから、一番最初に長々と予防線を張ったわけだけど)んだが、村上春樹の『街とその不確かな壁』のなかに出てくる『街』は、言うなれば僕がどこかに置いてきてしまったはずの荷物を引きずってしまっているように、「ぼく」が消化しきれていない過去に対して抱えている「憧憬」なんではないだろうか。
疲れない身体、残された時間、美しい恋。
そんな夢想に浸るには「影」(日常)を棄てなければならない。日常を捨てて、ほんとうはもう二度と戻らない甘い夢に浸ること。「あの時」を「あの時」のまま繰り返し味わおうとすること。
ほんらい、正しく消化できていようがいまいが、身体は歳をとり、終わりは近づいてきて、美しい恋はかならず失われる。僕たちは常に進行するだけの時間の中に身を置いているからだ。
だから、その憧憬だけでできた街では時間は意味を為さない。その瞬間だけを永遠に生きることだから。
イエロー・サブマリンの少年はそちら側に行ってしまったから、人形のようなものだけが残された。ただ、少年と「ぼく」で壁によって隔たれている世界は違う。「ぼく」にとってのあちらとこちらは「現実と夢想」、「現在と過去」であり本来は行き来のできないもの。
少年にとってのあちらとこちらは「異常と正常」であり、境界が曖昧なもの。
だから、少年は街に残ることができ、「ぼく」は影と一つに戻る必要があった。
「あの頃」なんていうのは、残り香みたいなものだ、と思う。
ふとした時に香れば、強く記憶を刺激して懐かしさや後悔や憧れが去来する。だけど、過去に囚われている間、夢想に浸っている間、いつも現実を支えているのは「影=日常」であり、どちらがほんとうの自分だとか、そういったものはないのだ。
時に僕は、非日常に足を突っ込んでみる。
そのぬるま湯に足を泳がせているあいだに、一年間現実を支えた「影」を忘れない程度に。
その行ったり来たりが僕を形作っているのであって、どちらもほんとうで、どちらも裏側になり得る。だけど、おそらくどちらかだけではいられないし、存在していられないものだ。
ライジングが終わって、帰る家があること。
家族と一緒にYouTubeでライブを見たアーティストを振り返ること。
次の日の仕事がなんだかやる気まんまんで、その仕事に手を振って送り出してくれる子供ら。
本体と分離した影が長く生きられないのは、人はパンのみで生きているにアラズみたいなことなんだろう。だから、僕は今からせっせと来年のライジングで必要なものを考えている。
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