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【小説】隔たる日々を折りたたむ中【約25000字】


〈1〉

月のない夜、憧れのような視線を空に送る。
冷えた空気は鋭く澄んでいるのに星ひとつ見えない。

都会の夜空はいつ見ても寂しいな、とはるかは思った。視線を落とすと、星の見えない寂しさを覆い隠すような色とりどりのイルミネーションが目に入り、遥は思わず目を細めた。



等間隔で植えられたイチョウの木は、秋に赤や黄色の葉を落としたあと、今は緩やかに青白い光を纏っている。その不規則な光の中を、遥はコートのポケットに手を入れて歩く。

2年前のセールで買ったアッシュグレーの厚手のコート。はじめは固かった生地も身体に馴染み、今では着やすくくたびれたそのコートを、遥は12月に入ってから毎日のように着ている。

空中に留まり続ける雪の粒のような電球でライトアップされた街路樹を、家族連れや女子高生が見上げているのが見えた。カメラで写真を撮ったり、指を指して笑い合う姿を見て、遥は首を傾げそうになる。


「遥ちゃんは気難しいなあ、顔に出てるよ」

遥の隣でブラウンのロングコートが笑っている。
遥から見ると、雲野くものは見上げるほどに背が高い。

吐き出す息と同じく、透き通るほど色の白い雲野にはよく似合うコートだ。遥は片方の手袋を外して、雲野のコートの手触りを確かめた。


「私、どんな顔してた?」

「こんなに電気をたくさん使ってるのに何を楽しそうに笑ってんだ!って顔」


大通公園が近づいてくると、視界がイルミネーションでいっぱいになった。

「鮮やかすぎて、疲れちゃうんだよね」

「うん、わかるよ。遥ちゃんの地元で見た星空の方が好きだな」

真昼のように眩しい光線が地面を照らして、足元の堅い石畳の微妙な凹凸まではっきりと見える。ピンク、緑、水色、紫と様々な光が遥と雲野を照らしたが、二人が光の隙間を縫うように歩く姿をイルミネーションはあっさりと見送った。


去年の夏に二人で行った遥の実家。
雲野はそれを帰省と言ってくれて、遥は両親に雲野を一度きちんと紹介しようという気持ちになった。帰省の一週間前から手土産を用意した雲野は「遥ちゃんの小学校を見たい」と意気込んだ。

遥の実家までは電車を乗り継いで四時間ほどかかる。最寄り駅にたどり着いた頃には、季節が一回りしたんじゃないかと錯覚するほど遠い。

全体に統一感がなく、所々に見えるさびを隠すようにちぐはぐに塗り直された壁や椅子は、しかしこの小さな駅舎が丁寧に修繕されているように見てとれた。

重たい扉に体重を載せて開けると、高い建物がなくひらけた真っ青な空の下で、背の低い植木が濃い影を落としていた。


「驚いたでしょ?地図で眺めるとすぐ近くみたいに感じるけど、遠かったよね」と大きなデイバッグを背に抱え、左右の手にお菓子をぶら下げた雲野に向かって、遥は微笑みかけた。

「こんなにゆっくりと移動を楽しめることなんてなかなかないから、貴重な時間になったよ。たくさんお話もできた。それに、こういう駅のさびれ方を見ると、ここに住まう人達の生活を近くに感じられて好きだよ」

遥に答えを届けるように、雲野の影が遥の足下までぐんと伸びている。赤茶けたレンガで囲まれた花壇でマリーゴールドがくたびれているのが見えた。



駅からバスに乗って実家に到着した時、くたくたになりながらも雲野はいつもと変わらない物腰の柔らかさで両親ともすぐに打ち解けてくれた。

築30年の家は鴨居も天井も低い。隅々まで掃除は行き届いているが、変色した壁紙や染み付いた家の匂いは、訪れる人に生活の歴史を感じさせないわけにはいかない趣があった。

テーブルの上に置かれたマグカップからはコーヒーの湯気が立ちのぼり、ソファに並んで座った遥と雲野はその湯気を見るともなしに眺めた。
ソファとテーブルは、座る人の膝がぶつかるほどに近い。

居間にあるソファから見通せるささやかなキッチンには、高さの揃えられた棚が並び、厳選された食器が間隔を空けてロジカルに鎮座している。

そのキッチンと居間を何往復もしながら、遥の母は「うちの家族はみんな背が低いけど、こんなに背の高い子が来るなら、うちを作り直さないとねぇ」と言って大笑いした。

遥たちの左にある独りがけのソファにテーブルを囲むように座る父は「毎度毎度、腰を屈めるのは大変だからな」と呟きながら缶ビールを何本も空けて、あっという間に眠ってしまった。


網戸から吹いてくる風が少し涼しくなった夕暮れ、遥は母の軽自動車に雲野を乗せて少し遠くの山間まで走った。

車を走らせて10分程で街の明かりは見えなくなった。

遥が運転する軽自動車の荒ぶったエンジン音の他には何も聞こえない。狭い山道を右に左に曲がりながら落ち着き払った木々をすり抜ける。

車の中でエアコンの冷えた空気が二人の腕に吹きかかる。振動でどこからか給油のレシートがはらりと雲野の足元に落ちた。

ヘッドライトで照らされた舗装道にセンターラインが走っては途切れ、淡々としたリズムで繰り返される。ぐるりと左に曲がる道の直前、車はウインカーを上げて減速した。


突如、一気に開けた視界いっぱいに現れる空一面の星空。
息を飲む。




雲野は大きな口を開けてそれに見惚みとれていた。
トラックが優にすれ違えるであろう山道の路肩に車を停車させて降りると、木々の間を風がすり抜ける音が耳にまで届く。

星明かりに照らされた雲野の横顔を見て、遥は同じ景色を共有できることの嬉しさをしみじみと感じていた。何年後であっても「あの時」で思い出せる景色が同じであるということは、時間を積み重ねてきたことの証だからだ。



一年半ほど経った今、たしかに二人は同じ星空を思い起こしている。私がイルミネーションに顔をしかめていたことも、やがて「あの時」と語られる時が来るのだろうか。そう考えて遥は吹き出しそうになった。

「ずっと遠くで星は輝いてるのに、こんな近くを煌々こうこうと照らすことで星を見えなくしちゃうなんて変だよ。足元ばかり照らしてるような感じ」

視線を落とすと、降り積もる雪の下から凍りついてきらきら輝く真っ黒なアスファルトが見えた。イルミネーションが作り出す二人の影はやがてそのアスファルトの黒と同化して見えなくなってしまった。

顔へ落ちてくる雪を避けるように、遥は雲野の顔を見る。
コートのポケットに手を入れて歩く雲野の嘘くさくない穏やかな笑顔。
星よりも明るい電飾の周囲にできた喧騒を愛おしむように雲野は後ろを振り返った。

「だけど、手の届かない何光年も遠くにある星の光よりも、手を伸ばせば届きそうなくらいに近い電球の光に心を奪われる人の気持ちもわかるよ」

雪は、まるで音を立てるようにして降り続け、雲野の視線を追いかける遥の睫毛まつげに水滴となって居座った。
大通りに沿って立ち並ぶいくつもの飲食店が、脇に積まれた新雪に鮮やかな影を落とす。

「また、新しいお店ができてるね」と雲野が言った。

「お酒が飲めない私達にはなんだか縁遠いお店だけど、いつか行ってみたい気持ちもあるんだよ。ワインで乾杯、ビールで乾杯に憧れてるの」

「遥ちゃんはワイングラスに憧れがあるからね」

「そうそう、あんなに薄いガラスでできてるなんて、素敵じゃない。」

大声をあげる酔客をまるで別世界の住人のように横目で見ながら、地下鉄のホームを目指す。雲野の横顔には、くっきりと濃い影が浮かび上がってはすぐ消えた。
あの夜、星空のほかにもいくつか共有した記憶がある。雲野の横顔があの夏と同じで、煙のように頭に浮かびあがる記憶が。


星空を見た帰り道、浮かれた遥は軽自動車のバンパーをこすってしまった。
二人は顔を見合わせると「この秘密も含めて、いい思い出だよね」と笑った。

窓の外の真っ黒な林がだんだんと遠ざかり、軽自動車は星空から帰還する宇宙船のように、だんだんと街の明かりに近づいていく。
雲野はポツリと「もう一つ、秘密。」と言って、自らの顔を指さした。

「実は、宇宙人なんだ。信じなくてもいいけど」

軽自動車は無事に市街地へ帰還した。あの時、笑ってあげなかったことを遥は今でも後悔している。


〈2〉

《地球から56光年離れた星、クスチェリットレ(日本の音で表した場合)は自由浮遊惑星である。地球のように太陽の周りを公転することによってではなく、惑星内部の地熱によって周期的に季節が入れ替わる。それ以外は、ほとんど地球と変わらない環境をもつ。そのため、一部の富裕層の中でワームホールを使って地球にやってくる宇宙旅行が人気になっていた》


「政治家の〇〇とか、モデルの××もクスチェリットレ人だと聞いたことがある」

遥たちが実家に着いた頃、すでに両親は布団に入っていた。遥と雲野はできるだけ物音を立てないように階段を上った。


遥の部屋にはすでに二組の布団が敷かれている。布団の端が壁を登るように折れ曲がる程度の狭い部屋は、遥が高校を卒業して家を出た時と変わらないままだ。

ピンク色の布地がほつれてスポンジが見えている椅子は、母方の祖母が遥の小学校進学のお祝いに買ってくれた学習机のものだった。
友人に手紙を書いたことや、高校受験の必死の追い込みなどがたちどころに思い出される愛着のある机。

遥がその椅子に腰を下ろすと、雲野も合わせるように布団の上に座った。南を向いた窓には薄い水色のカーテンが引かれていた。

「それで、君もその一部の富裕層として地球にやってきたのね?」と遥は敢えて神妙な顔で言った。

「そう。だけど、旅行にやってきたわけじゃないんだ。あの頃、クスチェリットレでは異常気象がいくつも報告されていた。
当時住んでいた国でも、寒波や猛暑が絶え間なく繰り返されたり、雪が全く降らない年や干ばつ、何週間も続く豪雨なんかもあった。気候が穏やかだった年なんて、記憶にはほとんどない。

そしてあの年、地熱が上昇して一向に下がらなくなった。そこら中で自然発火が起きて、街を歩くことができなくなった。」

雲野はシーツの柄を指でなぞった。記憶の回路を辿るような仕草だった。

「やがて、両親と三人でしばらく地球に避難することにした。幸運にも、我が家には自家用の宇宙船があったから。
その時はまたほとぼりが冷めればすぐに戻ろうなんて話していた。東京の人が避暑のために軽井沢に行くみたいなもんだよ。


だけど、ワームホールに滑り込む直前、見たんだ。星が爆発する瞬間を。


地球のすぐ近くまできた時には、もうあの爆発は夢だったんじゃないかって思えるくらいに静かだった。

そうして家族で地球にやってきた。6歳の時だった。お父さんもお母さんもすぐに宇宙船を処分したのは、もう星に帰ることはできないって理解したからなんだと思う。あの爆発は、夢じゃなかったってことだ」


指がシーツの柄を一周すると、雲野は遥の顔を見て笑顔を浮かべた。遥は思わず笑みを返してしまう。時計の秒針だけが一人、張り切って正確に時を刻む。

「それじゃ、君とお父さんとお母さんはもう地球に住み続けるしかないってこと?」

「そういうことになる。帰る場所もなければ手段もない。だけど、クスチェリットレと地球は奇跡のようにほとんどが同じだから困ることはほとんどない。人の体の組成そせいも全く同じ。一部では、クスチェリットレ人が地球人の始祖なんじゃないかって言われているくらいなんだ」

「ということは、雲野がクスチェリットレ人だと証明することは不可能だね」

「証明する必要もないけどね」

遥と雲野はクスクスと声を殺して笑った。


星空を見て、こんなにたくさんの星の中に生命がいないと言うほうが無理があると思ったことは遥にだってある。
地球と同じ条件でなければ生命が誕生しないわけではないだろうし、その星にはその星の環境によって生命体が発生するわけだから、どんな姿形になるのか、どんな条件が必要なのかなんてわからないのではないか。

だけど、遥の貧弱な想像力では「まったく違う形の生命体」など考えることができなかった。地球の重力によって地面に縛り付けられた想像力は、地球の常識を飛び越えることができない。


雲野も同じみたい、と思って遥は可笑しくなった。
自分は宇宙人と言ってみても、姿形は地球人と奇跡的に同じだなんて地球人の発想そのものだもの、と。

「どこも同じ?全てが?五臓六腑にいたるまで?」

雲野の想像力が試される。
私だったらなんて答えるかな。
腎臓が一つ、とか?
それか汗をかかない、とか。遥は雲野の答えを期待して待った。

雲野は布団にごろんと寝転がると、天井をじっと見つめて、てのひらを神様に見せるように上に向けて両腕を伸ばした。遥は思わずその両腕を見つめる。

本当にきれいな腕。縦に走る血管が隆起しているが、まるでラッピングのように肌理きめが細かく、真っ白だ。


「血が青いんだ」


右腕で左腕を慰めるように撫でながら、雲野は言った。
しばしの沈黙が二人の間に横たわる。雲野の隣に同じように寝そべった遥は、唇を噛みながらそのプラスチックのような腕に触れる。

「もう少しひねってよ」と吐息のように呟くと、雲野は「ごめん」と笑った。


遥は、その青い血を全身に送る心臓に耳を当てた。鼓動は色を教えてはくれないから、そこで流れている血液が赤なのか青なのか、わからない。

「だけど、触れられて良かった。20光年も離れてたらそれどころじゃないもの」


水を打ったような夜の中、土星の輪に似た蛍光管の灯りだけが部屋中を照らしている。
本棚に並ぶ数冊の漫画、コンパクトな大きさの箪笥、その上でハンガーに吊るされて並ぶ二人のコート。

小さな部屋の中の、すべてがつまびらかになる明かりの下で遥の耳は雲野の胸元に押し当てられていた。


目を閉じてイメージする。
脈打つ心臓の中を流れる真っ青な血液は、全身を巡って、雲野の身体をやがて青く染め上げるのだろう。

そうすると、筋肉も青いのだろうか。臓器のひとつひとつを雲野の中に感じてみると、青いそれらをうまく思い浮かべることができず遥は眉をひそめた。

やがて雲野の胸に耳を当てたまま、眠りに落ちる。



その夜、遥は夢を見た。

真っ暗で静かな宇宙を漂う夢だった。遥の乗った宇宙船は大勢の人で溢れかえって、定員オーバーのブザーがひっきりなしに鳴っていた。
船員たちはそれに気がつかず宇宙食を食べたりワインをストローで飲んだりして騒いでいる。

分厚い窓から外を眺めていると、他の宇宙船が見えた。
遥は大声で呼びかけるがもちろん相手には聞こえない。何度も何度も大声を出しているうち、船員たちが遥のことを怒鳴り始めた。
遥はわけもわからず、船内を逃げまどうがやがて真っ暗な宇宙空間に投げ出されてしまう。

必死で助けを求めるけれど、どちらの宇宙船も分厚い窓ガラスで閉ざされていて、遥のことなど誰も気にもとめない。

ふと、こめかみのあたりから出血していることに気が付く。先程の逃走の際にどこかにぶつけたのだろう。
拭ってみると、その手には真っ青な血液が広がっていた。



<3>


シーリングファンが院内の乾燥する空気を攪拌かくはんさせている。エアコンからは観葉植物を揺らすほど温風が吹きつけていた。
ナースステーションの隅で、洗浄されたシリンジやピンセットがラックに置かれている。その上からネブライザーのホースが干されており、それを手で避けて窓の外を見る。

見た瞬間にわかる大雪。やっぱりロングブーツにするべきだった、と遥は唇を噛む。

カルテに患者のバイタルサインを書き込んでいると、後ろから肩を叩かれて飛び上がりそうになる。振り返ると、肩を上下させて笑う大村弘恵おおむらひろえが立っていた。


「ごめんごめん、驚かせるつもりはなかったの。ねえ川窪かわくぼさん、314号の阿部さんの採血お願いできない?私、あの人の採血苦手でさ」


首から下げているネームプレートには数年前に撮影されたままの顔写真が載っている。大村のその笑顔は今より随分痩せていた。
この病院に勤めるようになってもう10年以上経つベテランの看護師である大村は、遥が入職した時の指導係だった。

わからないことを聞いても「大体でいいのよ、大体で」と言うばかりで指導という指導をほとんどしてもらった記憶がない遥は、その当時から大村に苦手意識を持っていた。なんだかいつも使い勝手の良い雑用係をさせられているような気がしてならない。


思った通り、遥が患者の採血をしている最中、廊下からは大村の特徴のある笑い声が聞こえてきた。

確かに阿部さんは右腕に点滴してることが多いし左腕は拘縮こうしゅくがあるけど、知覚鈍麻はないから左腕から採血しても比較的安全なんです、と心の中で唱えながら、遥は「痺れはないですか?」と聞く。
大村に細かな業務を押し付けられるおかげで、苦手だった採血は大抵一回で済ませられる程度には上達した。すぐに、注射針を通って、赤黒い血液がスピッツの中に溜まり始めた。

青い血、か。


雲野は、去年の夏に話して以来、生まれた星の話や青い血の話をしてくることはなかった。

だけど、昨夜のイルミネーションを見て呟いた言葉は、ひょっとして二度と帰れなくなってしまった自分の星のことを思い出しながら話しているのだろうか、と勘ぐってしまう。

〈青い血〉なんて、遥にとっても取るに足らない冗談のひとつで、寝て起きてしまえばすぐに記憶から抜け落ちてしまうような他愛のない話題ではあったが、その夜に見た夢が印象的だったせいで妙に頭にこびりついて離れなくなってしまっていた。


二本目のスピッツをホルダーに差し込む。


あの話を打ち明けてきた一年半前の夏の夜、雲野はたしかに笑っていただろうか?


昼の名残を残したままの生温い夕暮れや、星空を見たあとの山道に広がる吸い込まれそうな林、翌朝の父と母の会話ははっきりと覚えているのに、遥にはそれがどうしても思い出すことができなかった。

私は、私が見たいものを見たいようにしか見ていないのかも知れない。

見なかったものは記憶のかごからこぼれ落ち、なかったものとして堆積たいせきされている。池の底の泥のように。


それは、遥が小さな頃からおそれていたことでもあった。

友人から受け取った手紙に綴られた懐かしいエピソードが自分の解釈とまるで違った時や、自分の感動や怒りを誰かに伝えても思ったような返答がなかった時、遥はいつも自分の物差しを疑ってしまう。


考え方や感じ方は人それぞれ、と頭では理解していても、もしかすると自分の視野の外にあるたくさんの気遣うべき可能性を見落としてしまっていて、誰かの気持ちを気付かずに踏みつけてしまっているのかも知れない。
そう思うと、時々人と関わるのが怖くなってしまう。


地上に散りばめられた幾つもの人工的な星の輝き。
その光と、視界の外で煌めいている星々の間にある距離を駆け抜けるように縮めるには、ある種の確信めいたものが必要だ。
絶対的に正しく、間違いようがないという確信。
或いは、その反対の。



毎日いるのに、猫をただ遠くから眺めているだけの人。

雲野ははじめ、遥の目にそう映っていた。
遥が行きつけの猫カフェで、テーブル席から猫をでたままコーヒーを飲む姿はやはり少し特別に見える。

私は猫に触れたくてこの場所にいるのになあ、と真っ白なマンチカンがおやつを食べている様子を動画に撮りながら遥は考えていた。

23歳で看護学校時代の友人に連れられて初めて猫カフェに来た遥は、人懐っこくて清潔な猫たちにすぐに心を奪われた。
彼ら彼女らのなんと一生懸命なことか。食べて遊べば、あとは何をするわけでもない。人の目を気にせず、自分の思うままに活動する猫に、遥は尊敬の念すら抱きつつあった。


それからというもの、仕事で落ち込んだ時や研修が続いてくたびれた時、遥はこの猫カフェで猫と戯れるようになった。もう足掛け3年になる。

店内は決して広いとは言えないが、小さめなテーブル席が3席とカウンターが4席用意されている。
赤や黄色のポップな配色が施された壁には、カフェにいる猫やお客さんが写った写真が所狭しと飾られている。

「あの、猫を撫でたりとかしないんですか?」

遥が雲野に声を掛けたのは、その日、猫を見る雲野があまりにも真剣な表情をしていたからだった。この数年、毎日のように入り口から一番遠い席に座って猫を見つめているだけの人がいるな、と気になってはいたのだ。


「ああ、えっと、そうですね。自宅がこの近くなのでよく来るんですけど、あまり猫に触りたいとは思っていなくて」と、雲野は手元にあったコーヒーカップを右から左に移動させながら、慌てた様子で答える。


「そうですか、あんまり真剣で、考えていることがお顔に出ているようでした」

「え、そうですか、どんな顔してました?」

「ごはん代はどれくらいかかるんだろ、って顔」

「すごい、よくわかりましたね」


白い歯を見せて笑う雲野は1、2、3…と猫の数を数え始めた。
あ、あそこにもいます、と遥はカウンター下で寝そべっている白いマンチカンを指差す。遥のお気に入りの猫。
目線を向けた雲野の横顔は、そのマンチカンに負けないくらい白く見えた。

「あの子は、いつも可愛がっている猫ですね?」と雲野が真っ直ぐに目を見て言うので遥はしばらく声が出なかった。

「知ってるんですか」

「よく見かける方の推し猫はだいたいわかります。今、入り口横のテーブルにいる女性は、あのマガジンラックの近くにいる三毛猫ですよね」

その通りだった。そうか、この人はもしかしたら猫を見ているのではなく、人間を見ていたのかも知れない。そう思うと遥はやけに腑に落ちた気がした。
猫の可愛がり方には性格が出るような気もするし、人に見られることをあまり意識していない分、自然な姿を見られるのかも、と。


そんなことを考えていると、急に雲野が「あの」と立ち上がった。あまりに唐突だったために遥がぎょっとして振り返ってみると、「お願いがあります」と言う雲野の顔は見上げる程高いところにあり、天井の蛍光灯から逆光を受けて表情はまったく見えなかった。


猫カフェが入った雑居ビルの薄暗いエントランスを出るには、声を押し殺して泣くようなドアを開けなければならず、遥はいつも咳払いをしながらドアを開ける。
外玄関には、まるで昭和の頃からそこに置かれているようなくたびれた植木鉢の中で、パキラが屈託なく葉を広げていた。

遥の前を歩く雲野の背中を見つめながら、一定の距離を保って歩く。


猫カフェを後にし、横断歩道を渡る。5月の風は、春の予感を含んではいるものの暖かいとはまだ言えず、遥は薄手のコートの首元を両手で閉めた。
どこからか、桜の花びらが舞い上がるのが見えた。


車道を通り抜ける車を追いかけるように吹き抜ける冷たい風に眉を寄せながら、ブロック塀を右手に数分歩いたあと、不自然なほど目立つ真っ黄色のアパートの前で雲野は歩を緩める。

そのアパートとアパートに隣接するコンクリート造りの建物の隙間を覗き込みながら「引っ越してきた時はこんな黄色じゃなかったんですけど。最近、塗り直しがあって、仕事に行って戻ってきたらこんな色に」と雲野が笑う。

「あ、いた」と声をあげた雲野は、戸棚にアルフォートを見つけた小学生みたいな笑顔で遥の方に向き直って素早く手招きをした。


伸び始めた雑草の匂いがする。遥は歩み寄って雲野が指差す方向を見た。

「4月頃から一匹住み着いてたんですけど、最近、子供が生まれたみたいなんです。だけど、そのお母さんを見かけなくなって。2日前くらいからずっと赤ちゃんの泣き声がしてたんです」

コンクリート造りの外階段の一番下。小さな隙間に小さな子猫が4匹。

「この子たちを昨日、見つけることができたんですけど、どうしていいか分からなくて。お母さんがいないってことは、やっぱり育児放棄なんですよね?」


スマートフォンを片手に、雲野は画面をスワイプし続けている。だから今日は猫カフェであんなに真剣な顔をしていたのか、と遥は納得した。
子猫に目をやる。
それぞれ違う毛色をしていた。


「え…ちょっと待って。私、わかんないです、子猫を拾ったことないし。やっぱり、保健所、とかじゃないんですか」

「でも、殺処分されるかも、って書いてあって」

「あ、そうか。それはかわいそすぎます。私、誰かもらってくれそうな人探しますね」

「こちらは、昨日探したんですけど全滅で」

子猫が弱々しく泣き声をあげるたびに、二人は何度も何度も様子を確認して声を掛けた。遥は連絡の取れる友人に片っ端から電話をかけたが、すぐに手を挙げてくれるはずもなく、一人の引き取り手も見つけることができなかった。


歩行者用の信号機が青になったことを知らせる音が遠くで聞こえる。風の音が建物に反響してごうごうと唸り、不安な気持ちに拍車をかけた。
二人の頭上に漂っていた近隣住民の生活音や話し声が次第に賑やかになってきた頃、雲野が「猫カフェに戻って聞いてみますか」とポツリと言った。



「相変わらず元気そう」と雲野が顔をほころばせる。


行きつけの猫カフェの店長から保護猫カフェというものがあるということを初めて聞かされた二人は、その足で4匹の子猫を預けに向かった。

その4匹は今も保護猫カフェで元気に暮らしている。もうすぐ3歳になるが、里親は現れていないらしい。

「4匹ともすっかりここに慣れて、のびのび暮らしてますよ。里親さんにもらわれていくのがいいかもしれないですけど、ずっとここにいてくれても嬉しいし」と店長が話してくれたので、二人は胸の中に残る淀みのような罪悪感に少しだけ蓋をして笑うことができた。

この保護猫カフェでは、主に飼育を放棄された猫や保護された野良猫を預かっている。持ち込まれた猫たちは、動物病院で感染症の検査や健康状態のチェックを受ける。年齢によっては去勢手術も行われるそうだ。そのようにして保護された猫を里子に出すところまでがこの保護猫カフェの活動になる。

二人が出会った猫カフェより、室内は広めで、猫の頭数も少し多いように見えた。それだけ保護される猫が多いのだと考えると手放しで喜ぶ気持ちにもなれないが、足下に擦り寄ってくる猫たちの喉を鳴らす音を聞くと遥は思わず笑みをこぼしてしまう。

日当たりの良い窓の前の席に遥は腰を下ろした。うすい水色のカーペットと同色の二人掛けソファがしつらえられているが、猫と目線の高さが同じになるくらい低い。
日向ぼっこをする猫や、おやつを欲しがる猫が次々に集まってくる人気の席だ。

玄関の近くの小さいカラフルなラックでは、猫のポストカードやカレンダーなどが販売されている。

この売り上げがこの子たちのごはん代になると思うと、二人はいつもポストカードを4枚ずつ買って帰った。4匹はそれぞれ名前をつけられて大切に育てられていた。


雲野は、遥と同じソファには座らず、ラックに並べられたグッズを手に取って眺めていた。時々、猫に声を掛けるが自分の場所に呼ぶことはしない。
遥は以前から心に引っかかっていた疑問を、雲野にぶつけた。


「…ね、雲野が猫に触れないのは、引っ掻かれないためかな?」


平日の昼間、窓の外は快晴で、南向きの窓からは突き刺さるような陽の光が真っ直ぐ伸びている。先程まで接客をしていた店長は、バックヤードに行ったきりしばらく戻って来ず、カフェの中には誰もいない。

「この子たちを保護した時も。考えてみれば、私に頼まなくても良かったもんね?

…何の話、と思ってる?」

遥は、視線を猫に向けたまま雲野に問いかけた。
聞き取れないくらいの動作音を立てて暖房が室内の空気を暖めているせいで、コートも着ずに外に出られそうな気がする。日差しはぐんぐんと強くなっていった。

道路を歩く人の真っ白な吐息や、ちらちらと絶えず空から舞い降りる雪の、その音まで聞こえてきそうなくらいの沈黙が耳に痛い。

猫を保護する時、雲野はアレルギーがあるからと猫に触ることをしなかった。
今になって考えれば、あれは傷がつかないようにと考えてのことだったのではないだろうか。

もちろん、傷がつけば血が流れるから。
傷口からぽたりと滴り落ちる青い血を、遥はイメージした。


ラックにあるカレンダーをめくりながら、雲野が話し始めた。
笑いながら、でも、真実か嘘か、言葉の強さからは不真面目ではないことが伝わってくる。

「大人になってしまえば、血を流さないことはそんなに難しいことじゃない。
献血もしないし、血液検査もしない。料理もしないことに決めた。

血の色なんて妄言を、どれだけ真剣に語ったとして誰が信じると思う?

誰かに伝えたとしても、血を見せなければみんな10分で忘れるよ。だから、ずっと血を誰かに見せるおそれがないように生きてきた」


要点を明言しないような話し方をする雲野。
来年のカレンダーの12月を締め括るのは、二人が保護した4匹だった。雲野はその写真をしばらく眺めたあと、カレンダーをラックに戻した。

「だけど、猫はかわいすぎる」

雲野は真剣な表情でこぼした。
その場にしゃがみ込んで、猫を見つめる眼差しは暖かい。

雲野が話し終わった途端、遥が雲野のもとに駆け寄る。
顔を近づけると、雲野は自然に腰をかがめて耳を遥の方に向ける。

「…私に、青い血を見せてくれない、かな」


小声で呟いたあと、遥はなにか、背筋に冷たい汗が流れるような感覚を覚えた。

遥は、雲野のことを深く理解したいと思った。雲野の苦しみも孤独も、ひとかけらの疑いもない眼差しで理解したいと思った。

そのためには、本当のことを知りたい。
すれ違わないために、大理石よりも頑強で歪みのない本当を積み重ねたい。

それは、あの星空の下で告白を聞いた夜から、長く遥の中で、或いは二人の間に横たわる天の河のような隔たりを飛び越えたいという思いだった。

その気持ちを身体が嫌悪するような一筋の冷や汗。


「わかった。約束する」

雲野の短い返事に込められた低温やけどのような響きを、遥の耳は落胆と受け取った。

はっとして雲野の顔を見上げると、遥の不安をくっきりと縁取るように穏やかな笑顔がそこにはあった。


店長がバックヤードから戻ってくることで場面は強引に転換され、暖かな冬とたくさんの猫たちがそれを見守っていた。


<4>


「川窪さん、ちょっといい?」
師長に声をかけられたのは、年も暮れようかという12月の終わりだった。

この数日続いた気温の高い日が過ぎ去って、歩道の脇にできた水たまりが固く凍りついていた。
病棟の中は相変わらず24℃に保たれてはいるが、窓に薄く張りついた氷の模様が季節を誤らないための栞のように強く冬を主張している。

「昨日から本当に寒いねえ」と師長は手をこすりながら独り言のように背中で呟き、カーディガンの肩をすぼめた。
遥はタイミングを逃して返事を曖昧にしてしまった。
数名の患者と挨拶を交わしながら、病棟の長い廊下を歩く。

狭い休憩室の机に遥と師長は向かい合わせで座った。
就業時間中の休憩室は昼の騒々しさと打って変わって眠っているように静かだ。

「急に本題なのだけど、実は今年度で加藤主任が退職するの。やっぱりお父さんの体調が思わしくないそうなのね」

師長はボールペンを指先で挟むようにしてくるくると前後に転がしている。
休憩室の扉の向こうでは、誰かの足音が急ぐように右から現れて左に消えていった。

「次の主任、川窪さんになってほしいの」

え、と口から驚きが洩れたきり、遥は返事らしい返事を口にすることができなかった。

突然の辞令はまったく想定外で、実感も湧かないまま、ただただ師長の顔を眺めるばかりだった。師長はじっと目線を外さずに遥が口を開くのを待っている。

「あの、でも、田中さんとか大村さんとか、もっと経験の長い方はいますし、私に務まるとは正直に言って考えられません」

「経験はもちろん大事だけど、川窪さんだってもう7年目になる。一通りできるようになれば、そこからは経験だけじゃいけないと私は思うのね。
川窪さんは誠実だし、最短距離を選ぶだけじゃなくて、よく考えながら行動できる人だと思ってるの。確実にゆっくりと歩くことは欠点じゃないのよ」

師長は腕時計をちらりと見て「考えておいて」と微笑むと、ゆっくりと立ち上がった。

だんだんと顔が熱くなってくるのがわかる。指一本動かすだけでも力が入ってしまうような感覚。不安と高揚がないまぜになったまま、遥は顔を手で覆う。


同時に、ふと雲野の短い一言の返事が脳裏をよぎる。
わかった、約束するーー。


自分は小さな金魚鉢を泳ぐ金魚なのではないか、と思う。すべてを知ろうとして隅から隅までくまなく泳ぎ回っている姿はあたかも勤勉で誠実に見える。
だけど、結局のところ金魚鉢から出ることはできない。水のない場所で生きる生物のことを知らないままに、想像する。知る由のないことを。

目に映るのは水とガラスで屈折した世界でしかないというのに。


休憩室を出ると、病棟の雰囲気が慌ただしいようだった。通りがかった看護師に「何かあった?」と声をかけると「大村さん、針刺し事故だって」という返事が返ってきた。

ナースステーションに戻ると、大村を囲んで数名の看護師が「阿部さんってなにか感染症あったっけ」「まずは検査したほうがいいよ」などと声をかけている。

今日の阿部さんの受け持ちは私だーー。遥はとっさに時計を確認する。定期の採血時間を少しだけ過ぎていた。大村は師長と面談中の遥に代わって採血を行おうとして、誤って自分の指に注射針を刺してしまったのだ。

遥の姿に気づいた大村は笑顔で左手の人差し指を突き出した。

「ごめんねー川窪さん。私、阿部さんの採血苦手なのに出しゃばってやったらこの通り。なんでいなくなったのよ?」

「すみません、師長と面談をしていて…阿部さんの採血、遅れてしまいましたね」

大村の人差し指には、拭き残した赤い血液が乾いてこびり付いていた。

「時間で採血あるってわかってるんだから採ってから行ってほしかったよね。川窪さんは阿部さんの採血担当なんだからさあ。おかげでこんなことになって、どうしてくれるのよ?」

喉の奥が詰まったように、なにも答えることができない。胸からお腹にかけてざわざわと泡立つような音がする。

「とにかく、流水で洗ってください。阿部さんは感染症はないので心配はないですけど、念の為検査したほうがいいです」

「わかってるわよそんなこと。言われなくたって」


窓の外では、相変わらず雪がまっすぐ落ちるように降り続いていた。



夏が恋しい。
あの真っ青な空と、それを持ち上げるような入道雲と、切り取ったようにくっきりと浮かぶ濃い影が。

一瞬、聞こえたようなセミの声は、せわしない病棟で駆け回るたくさんの人たちのざわめきにかき消され、すぐに遠い八月へと逃げ帰ってしまった。
遙は小さく千切れたため息を一つ吐く。


<5>


嬉しい出来事があったからといって、必ずしもその日が良い一日になるとは限らないということを身を以て知ることがある。
「良い一日」と「悪い一日」は表裏一体で、どちらかがどちらかの呼び水になることは多い。

タイムカードを退勤で打刻した直後、ロッカーの前で、雲野に師長から受けた打診をLINEで報告したところ「すごい!嬉しい報告をありがとう!」と返信があった。雲野がどんな顔で返事を打っているか、目に浮かぶような一文だ。
働いている母は出られないだろうと思ったが、留守番電話に短くメッセージを残しておいた。

遥はほとんど歩きながらムートンブーツを履き、職員玄関を目指して駆けるように歩く。自動販売機の唸り声と緑色に光る非常口の蛍光灯を通り過ぎる。

そうか、嬉しい出来事だよね、と遥は胸の中で確認する。

飲めないワインで乾杯しよう、と提案してきたのは雲野からだった。
遥も雲野も、アルコールは全くと言っていいほど飲めないが「お祝いをするときはワインで乾杯するものだよ」という文面に遥は頬が緩んだ。

残しても大丈夫、ワインは料理にも使える。

そう考えてから、料理をしないことに決めたという雲野の一言を思い出して心臓が大きく一度脈打った。

デパ地下で合流して輸入ワインの店を覗く。
あまりの種類の多さと価格の幅広さに二人ともたじろいだが「いやいや、お祝いだから」と雲野が引きつった笑みで先陣を切った。

フロアに目を向けると、本当に大勢の人がいる。
無表情で前だけを見つめて歩く大学生、お札を押し付け合う二人組の女性、商品そっちのけで話しかける高齢の女性と聞き流す店員。大きなうねりとなって人波は混ざり合い、それはまるで一つの生き物のようにそれぞれの表情を四方へ送り出している。

一人一人がたくさんの感情を抱えて今ここにいるんだろうと思うと、遥は鼻の奥がつんとした。きっとすべての人が何かを祝うためにいるわけではないだろうと思う。

早口言葉のようなワインの名前をひとつひとつ音読して、または手にとって、はぐれた子供を探すみたいにじっくりと眺める。
飲めないのにね、と笑い合いながら、それでも二人はお祝いの夜を彩るただ一つのワインを探して店内をゆっくりと歩いた。自然と互いの手を取り合う。

スイーツ店やお惣菜を売る店と比較すると、ワインショップは混雑しているとまでは言い難かったが、午後7時を回るとさすがに店内は賑わいだした。

結局、選んだのはフランス産で価格も控えめな一本のワインだった。
シンプルな文字で刻まれた名前をぐるりと囲むように花の模様が描かれているラベルが遥の好みだったからだ。これなら家に飾っておいてもいいくらいだよ、と雲野も頷いた。ダイスカットされた4種類のチーズも一緒に買った。

「わりとお互い、冒険できないタイプだよね」

「でも、飲めないワインに時間とお金を割くのだって、冒険といえば冒険だよ」

エスカレーターに乗ったまま遥と雲野は笑い合った。
デパートの正面には1階から屋上まで、右と左を分けるような巨大な窓ガラスが貫いている。エスカレーターに乗ると右手にその巨大な窓ガラスが見えた。

4階の食器売り場でお揃いのワイングラスを見つけると、「これも買おう」と遥はすぐに手に取ってレジカウンターに向かった。

「どうせ、飲めないワインだもの。格好だけでもそれらしくしたいからね」と言って雲野に笑顔を向ける。


買い物客と通勤客が入り混じるコンコースで紙袋をぶら下げて歩くと、遥の足取りは軽かった。

嬉しい出来事があればしっかりと準備をして、きちんとお祝いをする。
一人だと躊躇ってしまうそんな行為も、雲野と一緒なら楽しんでできた。


「ねえ、やっぱりお祝いをするのって大切だね。少しずつ、嬉しいっていう実感が湧いてくる。
私は、どうしても不安や心配が先に立ってしまって、嬉しいとか喜ぶこととかを後回しにしてしまうけど、こうやってお祝いをすると喜びが先にやってきてくれる。どうもありがとう」


雲野といると、同じものを見ているだなんて信じられない時がある、と遥は思った。

夜空いっぱいの星、街を照らすイルミネーション、養育を拒否された生まれたばかりの子猫たち、誰かに認められること。
ともすると負の側面を見てしまいがちな遥の肩をそっと指でつつき、気が付かなかった側面に気づかせてくれるようなところが雲野にはある。そして遥はいつもはっとする。自分で自分の視野を狭めていることに。


エスカレーターから窓の外が見え、ずっと遠くにイルミネーションの明かりが煌めいていた。暗闇の中でその明かりは存在感を強めて、周囲の建物のライトをかいくぐるようにこんな遠くまで照らそうとしている。

相変わらず、星は見えないままだ。
それでも。

デパートの4階から見るイルミネーションは、あの大通りから見たような視界を埋め尽くす明かりではない。随分と遠くにあって、ひょっとすると星空のような光。


こんなふうな気持ちで眺めるイルミネーションは綺麗だね、と遥は思わず口にした。

視界の隅でブラウンのコートが揺れる。ふと、そのコートの感触を思い出す。


「綺麗って思えたら、星空もイルミネーションもどっちも遥ちゃんに嬉しさをくれる光になるよ」


ピンク、緑、水色、紫。

嬉しさをくれる光。


電球の一つ一つは混ざり合って大きな一つの色になる。

色同士の輪郭は曖昧で、瞬きをするたびに見え方が変わる。
それぞれの色が混ざり合うようにも、独立して輝いているようにも見えた。

色の違いなど、ここから見える景色では無いに等しく、それでも私に嬉しさをくれる光に変わりはないーー。


自然とそんな思いが遥の頭に浮かんだ。

大勢の人が歩いている。それぞれの表情が見える。
心の内はわからない。置かれている状況も、抱えている問題も。すぐ隣を歩く人でさえ。

遥は、エスカレーターの降り口でつまずかないかと少し緊張して足を上げる。





10m先から声がして、遥はその方向に視線を向けたが、肩をバシバシと叩かれるまでその声の主が大村だとは気がつかなかった。風景に同化した大きなデパートの柱の陰になっていたからだ。

「いやだ、ちょっとすごい偶然じゃない。川窪さん、このあたりよく来るの?私もたまには家事を休みたくてさあ、地下で中華のお惣菜買ってきたのよぉ。そんなに美味しいわけじゃないけどね」

4階の食器売り場を出たあと、エスカレーターに足をかけようとした瞬間に背後から大きな声が聞こえた。
ショルダーバッグを何度も直しながら遥の肩を叩く大村の右手には、地下にある中華惣菜を売る店のロゴが入ったビニール袋がぶら下がっている。

平日のデパートは混雑しているとまでは言えないが、人出が増えていた。エスカレーターの乗り口付近は人がひっきりなしに通過している。

ベンチが並ぶスペースに移動して、遥と大村は向かい合わせになった。大村の背景がレンガ調の壁になる。

大村はチラチラと雲野の方を見ながら、遥に話しかけた。
雲野は笑みを返しながら、遥に目線を向けた。

「私の指導係だった大村さん。いつもお世話になってて」

硬い笑顔を悟られないように、遥は大村に半分背を向けるような格好で雲野に紹介した。雲野は「こんばんは」と小さく会釈をする。

大村はぎこちなく笑って「背が、大きいのねえ」と雲野を見上げた。
病棟ではあまり見かけることのない種類の笑い顔に、遥は力が抜けた。


大村はファーマフラーで首を隠して真っ白なロングコートを着ていた。
病棟で見る姿とは程遠く、話をしながらも遥は違和感を拭えないままだった。

「今日はあのあと大変だったのよ、うちの病院って意外としっかりしてるのね。念のためって予防内服もしてさ」

遥は自然と唇に力が入る。
昼間と同じ泡立つような胸のざわめきなど感じないふりをして、大村に視線を向けると「あの、すみませんでした」と一度小さく頭を下げた。


大村は、いいのよ別に、だけどこれからは気をつけてね、と胸を張った。

続けて「その紙袋、地下のワインショップのよねえ?川窪さん、お酒飲めないんじゃなかったっけ?」と、雲野の手に下げられているワインを指差す。
ほんの少しの間を置くと、大村はにやりと笑って交互に二人の顔から顔へ視線を泳がせた。

「あ、ねえ、もしかして、それってお祝いなわけ?昇進の」


レディースファッションのお店から店員の気怠い呼び込みの声が聞こえてきた。若い男女が腕を組みながら歩き、小さな声で、うわびっくりした、と笑い合っている。
ひんやりとした風が一瞬フロアを通り過ぎ、天井から吊り下げられた広告がばさっと音を立てて揺れた。

「今日の師長との面談って、その話だったんでしょう?聞いてた人がいてね、教えてもらっちゃった。主任さんになるんだもんねえ、私も近藤さんも追い抜かれちゃったってことよねえ」

はははっとわざとらしく笑う大村の顔は笑顔ではなかった。

「それにしても随分残念なワイン買ったのねえ。何と合わせたらいいか教えてあげようか?ワインって言っても幅広いからスナックも考えないとダメなのよ、わかってる?」

「あ、いえ、大丈夫です。私たち、お酒飲めないので」

「え、二人とも?飲めないのにワイン買うの?意味わからない。ほんと、わかんないわ」

可笑しくもないのに笑顔を浮かべるたび、地下のワインショップで飲めないワインを選んでいるときの嬉しい気持ちが少しずつ萎んでいくのを遥は感じていた。


尖った言葉は遥を切りつけはしない。けれど、その先端は明らかに遥に向いていて、遥の喜びや嬉しさを牽制しながら、同時に、育つ気持ちを刈り取ろうとする。

自然と膨らんでくる自分の感情をこんなふうに整えられることは、もちろん初めてではない。
脅かされ、指をさされ、背を向けられる。あまりにもありふれていて、日常的で些細な出来事は、積み重なっていくごとに感情を内に留める重石となる。

さらには、自分が時折それをすすんで自分に向けていることが、萎む気持ちに拍車をかけるのだ。


「昇進のお祝いに買うんだから、そんな安物のワインなんてやめなさいよ。私がもっといいワイン売ってるお店教えてあげるわよ」

大村の手は雲野が持つ紙袋へ伸びる。雲野は軽く身体をよじってさりげなく避けようとするが、大村は気が付かずにワインの入った紙袋を捕まえた。
遥は、大村さん、いいんですと紙袋をつかんだ大村の手を引き離そうとしたが、反対の手に持ったワイングラスが気にかかってあまり前に出ることができない。

その瞬間、肩からかけたショルダーバッグがずり落ちて、大村はバッグを後ろにポンと振り払うようにしてかけ直した。そのバッグが遥の左手ーーワイングラスが入った袋に当たる。

遥があっという声も出ないまま視線を向けた左手からは、今まさにワイングラスの入った袋が揺れて飛び抜けようとしていた。

「遥ちゃん」

雲野は宙に舞ったワイングラスを受け止めようと、ぐんと左手を伸ばした。大村と遥の間を抜けるように身を乗り出して真っ直ぐに腕を伸ばすが、ワイングラスはフロアーの硬い床の上に着地し、甲高い音を響かせた。
周囲の誰かが、わっ、と短く声を上げた。

雲野の右手にあったワインショップの紙袋が、大村の手と雲野の右手が遠ざかったことで波のような音を立てて破れる。袋の中にあるワインの瓶はバランスを崩して、袋から顔を出した。瓶は無言のまま、破れた紙袋の破片を引き連れて床に落ちた。

鈍い音がして、一見その形を留めているように見えたが、実際にはゆっくりと赤紫の液体がボトルの首から流れ出していた。


遥は咄嗟につむった瞼を開けて、髪を耳にかけて左右を見回す。大村が手を口に当てて立ちすくんでいる。
雲野はバランスを崩して転倒していた。前方に伸ばした左腕はワイングラスを買った食器店の袋を下にして置かれており、周辺にはいくつもの欠片に変わり果てたワイングラスが、天井の照明を受けてキラキラと輝いている。

「痛ったぁ…遥ちゃん、怪我してない?」

雲野の声が耳に届くよりも早く、遥はしゃがみ込み「大丈夫?」と声をかけた。
遠巻きに眺めている人たちの視線を嫌というほど感じる。先程まで聞こえていた楽しげに浮き足だったざわめきは、次第に戸惑いと心配のざわめきに変わっていく。

大村もようやく事態を飲み込んで、一歩、二歩と歩き出しているのだろう。ヒールがコツと鳴る音と、ぶら下げたビニール袋がカサカサと音を立てるのが聞こえた。


遥が雲野にかけた「大丈夫?」に込められた懸念は、二つ。
怪我と、出血だ。

人が転んだ時に、怪我や痛みを心配するのは当たり前のこととして、『見られてはいけない出血』を気にかけるという経験値のない行為が意外にもスムーズに表れたことに遥は自分で戸惑っていた。もしかしたら、以前からこんな事態をどこかでシミュレートしていたのかもしれない。

すぐに着ていたコートを脱いで雲野の左手を隠すように庇う。いやいやいや、ダメダメダメと雲野が小声で囁く声を聞かずに、できるだけガラスの欠片を巻き込まないように左手に被せる。
「汚れるよ」と雲野が髪を指で払いながら言う。遥は、ぐっと力強く雲野の目を見つめて首を横に振った。通行する人が歩く速度を緩めて、次第に小さな人だかりのようになっていた。

ガラス片の上に横たわる雲野の左腕を見た瞬間から、こんなに真剣に出血を隠して〈青い血〉が単なる冗談だったらと何度頭をよぎったことだろう。
しかし、「だからどうした」という思いが常に拮抗していたのだ。

何度新しい波が生まれてもそのたびにより大きな波に飲み込まれていく海のように、遥のなかで疑念と否定はいつだって交互にやってきた。


バランスを崩すことを恐れてはいけない、と遥は思う。

事態を大袈裟に捉えたり、誰かにとっては取るに足らないことに全力を注いだり、簡単なことに労力を割くといったようなバランスの崩し方を恐れるようになったのはいつからだろう。
それは恥ずかしいことだろうか。

99%を過信する楽観はいつも1%の破滅的なリスクを孕んでいる。

遥は失うものを天秤にかけた。
笑われてもいいはずだ。


「ちょっと、大丈夫?」

大村が近づいてくるのがわかった。姿勢を低くして恐る恐るといった様子で、まるで狭い穴ぐらの中を探るようなくぐもった声。

「来ないでください」

遥自身でも驚くほどに声が響いた。顔が紅潮して、熱くなっているのがわかる。
あまりにもはっきりとした言葉に大村は歩みを止めて、身体を起こした。

雲野の左腕をコートに包んだまま、遥は周囲を見渡し、屋外駐車場へ向かう通路に向かって歩き始めた。途中、大村に「あとの処理、お願いしてもいいですか。もし何か請求や弁償があれば後日聞きますので」と言い残した。

割れたワインや水溜りになった床を横目で見ながら、遥と雲野は数名の野次馬の間を縫って廊下を歩く。
新年のバーゲンを予告する巨大なポスターの中では、モデルの白人女性がバッグやスカートを手に持ち、驚いた顔でこちらを向いている。

「お祝いのワイン、割れちゃったねえ。ごめんね」

「いいよ、家に帰ってコーヒーでも飲もうよ」

「ワイングラスも割れちゃった、憧れの」

「憧れの、ね。でも、もういいよ。大丈夫」

人気のない通路の壁には、小さなアルファベットが目線の高さでまっすぐ並び、出入り口まで誘導してくれている。

二人の声がその壁に反響して、よく聞こえた。

透明なガラスのドアを開けると、積もったばかりの雪が冷気と共に建物の中に吹き込んでくる。建物の中は蛍光灯の明かりで眩しいほどだったが、外に出てみると真っ暗な夜だった。

通路の手すりは冷たく凍りついていた。建物自体が鳴らす音と、遠くから聞こえる工事の音。ホテルの窓がオレンジの明かりを放ちながら規則的に並んでいるのが見えた。

風が吹かない冬の夜。
寒くはない。もちろん、コートを脱いだまま何時間も外にいられるわけではないが、暖房が効きすぎている建物から出たばかりの遥にとってはむしろ心地よく感じられた。

雲野の左腕の熱さが、コートの上からでも伝わってくるようだった。
二人はほとんど駆けるようにして駐車場の片隅に向かった。デパートの出入り口から一番遠い駐車スペースに車はほとんど停まっておらず、忘れ去られた舞台のように小さなスポットライトだけが誰もいないアスファルトを健気に丸く切り取っている。

無機質な鉄の柱がどっしりと立ち並んでおり、その柱と柱の中間は塗りつぶしたように暗い。遥と雲野は、その隙間にすっぽりと収まった。両隣にペットボトルのふたよりも大きなボルトが整然と並んでいるのが見えた。時々、ぱらぱらと頭上に雪のかたまりが舞い落ちる。


遥は真っ白な息で見えなくなりそうな雲野の瞳を探す。
じっと遥を見つめる雲野と目が合った。
二人は、しばらく黙ったまま見つめ合っていた。まるですべての言葉を言い尽くしたあとのように、沈黙が広がっていく。

やがて「コート、外して大丈夫」と雲野が言った。

雲野の左腕はコートに巻かれたまま、遥の両手でしっかりと閉じられている。
遥はその手を動かすことができない。
20光年離れた真実が、掴むことのできる距離まで近づいているというのに。


見上げると、星空。ほんの少しの。

「私だって、ほんとうは星の名前も知らない。」

遥は呟く。ただ手の届かない遠くで、忘れ去られないように懸命に瞬いている姿だけを知っている。


このコートの中は、宇宙なのだろう、と遥は思った。

自分がどれだけ残酷な言葉を口にしていたのか、今ならばわかる。

相手を理解するため、相手を守るためという名目で、血を流して欲しいと伝えること。痛みを伴う出血を願うのは、相手のためだろうか。
血が流れることを願ったのは、誰のためだったというのだろうか。
傷ついた雲野の腕を想像して、ようやく自らの傲慢な願いを恥じ入った。

「根本的に違っている」ということを乗り越えるために、まず「根本的に違っている」ことを明らかにして欲しいというのは、ひどく矛盾している。
客観的事実が明確になったとき、違っているという事実は二人のあいだに静かに横たわるだけだ。それは、本来、二人の関係性には影響しない。

何故ならば、この人は目の前にいるこの人でしかない、から。


真っ白な陶器のような肌。時々、目を隠す前髪。見上げるほど背が高く、それでいて威圧感のない細身の身体。
滑らかな声。温もりのある甘い香り。いつも見守るような視線をくれる。受け入れて、否定をしない、芯の強い人。そしてーー。


スマートフォンの着信音が鳴る。
しばらくのあいだ、二人の視線がコートのポケットに注がれる。着信音は、雲野の腕に巻かれた遥のコートから聞こえていた。
雲野は、一本一本遥の指を離していく。遥はその様子をただ黙って見つめていた。

雲野の左腕を隠していたグレーのコートが少しずつ緩んでいき、スマートフォンの重みでポケットが垂れ下がった。
コートのポケットから右腕だけで器用にスマートフォンを取り出すと、雲野は遥に画面を見せた。

「お母さんだって。出てもいいよ」

スマートフォンの画面には、お母さんと表示されている。
ようやく遥は右手の力を抜くことができ、雲野からスマートフォンを受け取った。スマートフォンを耳に押し当てると、母の声が聞こえた。


腕に残ったグレーのコートを雲野はゆっくりと地面に置く。左腕があらわになっていくのを、遥は息を止めるようにして見た。目を離すことができない。

夜は深くなっていき、闇も濃くなった。
目を凝らしても雲野の左腕がどのような様子かははっきりと確認できない。

ーーもしもし、お母さんだけど。あなた、夕方電話くれたでしょ。

「そうだったね。えぇと、なんでだっけ」

ーーしっかりしてよ。あ、そうそう、昨日りんごもらったのよ。食べ切れないから送ろうかと思って。香織ちゃんと仲良くしてる?香織ちゃん、りんご食べないかしら。また一緒に帰ってきてよ、お母さんが待ってるって伝えておいて。

「ああ、うん、今いるけど電話替わろうか」

遥はスマートフォンを雲野に差し出した。
右手で受け取った雲野は、あはは、なんで私?と言って電話に出る。



「もしもし、ご無沙汰しています。雲野香織です」



〈6〉


午前10時、ぐるっと四方の空を見上げても一切れの雲も見つけられないような青空は、なんだか嘘くさい。

冬の日差しが窓から部屋の中へ逃げ込むように滑り込んできたのを見て、居てもたってもいられなくなった遥は、ムートンブーツに足を入れると床に叩きつけるようにして履き、スマートフォンと家の鍵、財布と紙袋を手に取って、玄関の脇に掛けられたカーキ色のコートに腕を通して部屋を出た。

南側の屋根からポタポタと雫が垂れて首を濡らしたので、遥は思わず一人で「ひゃあ」と声を上げた。

布団にくるまったまま電源をつけたテレビから聞こえてきた、この先一週間は暖かい日が続くでしょうという予報を頭の中で反芻する。
ゴミ捨て場まで歩いて振り返ると、昨日降り積もった新雪の上に足跡が点々と残っていた。当たり前だけれど、足跡はこちらに向かって伸びている。



初めて好きになった女の子は、小学校のクラスメイトだった。

クラスで一番運動が得意で、一番勉強のできる女の子。彼女が参観日に履いてきた真っ青なスカートがあまりにも可愛くて、学校にいるあいだ、何度も何度もそのスカートに目がいった。
次の日も、その次の日も、その子に目がいって、私が好きなのはあの青いスカートではなくて、彼女自身なんだと気がついたときはものすごい大発見をした気分だった。

私があまりにもあっけらかんとそんな事実を伝えたものだから、両親は笑顔で受け入れてくれた。小学生の私は、まだ女の子を好きになるということが珍しいことだとは思っていなかったので、それが幸いしたのだと思う。

父と母がその時、どういう気持ちで笑っていたのかを想像しても、あまりに遠い過去は他人の記憶と同じくらいによそよそしく、推し量ることすら難しい。


何一つ、間違ったことをしているわけではない。
それなのに、私にとっては人を好きになるという行為があまりに後ろめたく、罪悪感を伴うものになってしまったのは、世界が自分を完全に理解してはくれないと気がついたからだ。

心を許した友人であっても、頼りになる学校の先生であっても、他者を完全に理解することなどできない。

私は、「あなたにならばどんなことも話せる」というような顔をしながら、自らの核となることについては誰にも話すことができないでいた。
それは、透明なガラス板のように、まるで存在しないかのような仕方で存在する、はっきりとした壁だ。

ガラス板のこちら側は、私しかいない。誰とも、何かを共有することはできない。水槽の中に一人きり、泳ぐ金魚は安心を抱えるのだ。


初めて出会ったときの雲野は、そんな私と同じだと思っていた。
あまりにも穏やかに話しながら、あまりにも温かく笑いながら、それでいて誰も寄せ付けないような冷たさをみぞおちの奥に隠し持っているような顔。

彼女の体に流れる「青い血」は、この世界が作り出したものだ。
手の届く光に気を取られて、何光年も先で懸命に輝いている光をまるでないものにしようとばかりするこの世界が。


だから、あのプラスチックのような滑らかな肌に触れたとき、私は彼女と二人だけの世界を望んだ。狭い水槽の中で二人きりになれるようにと望んでいた。

隔絶された二つの水槽を投げ出して、一つの水槽を二人で泳ぐこと。

私は、それが世界と正しく繋がることだと考えて疑わなかった。
無神経で無理解な「水槽の外」など、知らなくてもよかった。


雲野はーー、彼女は世界を憎んではいなかった。
彼女にとって、世界はどのようにも価値のあるもので溢れている場所だ。
傷を付けられることも、指を差されることもある。

だけど、すべては多面的だ。世界のありようは一つではない。
彼女はそれを知っていた。


私の中で、いまや世界はどんなふうに曖昧だろうか。

きっと素晴らしくて、憎むべきものだ。
繋がることで傷つきながら、繋がることで救われるものだ。


彼女は私に、水槽の中から上を見上げることを教えてくれた。水槽には蓋がないと指を差しながら、こう教えてくれた。

目の前にある曖昧さを愛するのだ、と。



クリーニング店の自動ドアが開くとあたたかく乾燥した香りがした。
値引きセールやポイントカードを勧めるたくさんの貼り紙に埋もれるように、女性店員が顔を覗かせて「いらっしゃいませ」と遥に笑顔を向けた。

目のくらむような枚数の白いワイシャツが女性店員の後ろにずらりと並び、まるで持ち主が受け取りに来るのを待ちわびているようだ。

遥は紙袋の中からグレーのコートを取り出してカウンターに置く。
点々と付着した血液が目に入って、あの真っ暗な駐車場の夜を思い出す。

「お預かりは一点でよろしいですか?」と首を傾げるような話し方で店員が遥に声をかけ、遥はこくりと頷く。

『血が青いんだ』

一等星と三等星が手をつなぐ夜に、雲野が遥にした告白は嘘ではなかった、と遥は思っている。

今、遥の目の前に見えるグレーのコートに染み付いた血液。

その血液は赤く、過去に何百と見てきた、あの採血スピッツの中の赤となにも変わりはない。




〈7〉


窓は東向きだが暑いくらいの日差しが入り込むのは、その大きさのせいだった。
大抵の人は爪先から頭のてっぺんまですべてがその窓にすっぽり収まってしまう。

張り替えられた壁紙は不自然なほど白く、太陽の光をこれでもかと拡散させて、ワックスをまとったばかりのフローリングを眩しく光らせた。

がらんとした部屋のなかには、大きめの段ボールが引越し業者の手によってキャラメルのように規則正しく積み上げられており、それを眺めたまま時刻は正午を過ぎた。もはや、どの段ボールに何が入っているのかわからない。まるで福袋のようだと遥は思う。

新しい部屋は少しよそよそしく、遥を受け入れるかどうか思い悩んでいるように見える。

重たい内窓を滑らせるように開ける。

網戸が姿を現して、ひんやりとした風を室内に招き入れた。
2階の窓からは、幾本かの電線越しにポケットに手を入れたまま歩く雲野の姿がよく見えた。手首にコンビニの袋をぶら下げたまま、両手に湯気の立つコーヒーを持っている。足下を気にしながら歩くその姿を、遥が冷たいフローリングに腰を下ろしたまま眺めていると、顔を上げた雲野が遥に気づく。

大きな口を横に広げて笑顔を作りながら、コーヒーを持つ左手を小刻みに遥に向けて振る。遥は、手を振り返しながら春物に替わった雲野のベージュのコートを見つめた。まだ、あのコートの感触は思い出せなかった。


ーー騙すみたいなかたちになってしまって、ごめんね。


あの日、遥ちゃんの両親と初めて話をして、とても楽しかった。

だけど、同時に忘れていたことを思い出してしまった。

それからずっと、あの星空を見てもずっと、自分は普通ではない、という小さい頃からの思いが頭から離れなくなってしまった。

きっと羨ましくなっちゃったんだねえ。


雲野はあのあと、そう言ったきり黙った。

だけどそれでいい。なにも話さなくていい。遥はそう思う。
彼女の青い血は他人にはーー、遥には見えないのだろう。

それでも、彼女は自分の血が青いことを感じている。
自分はどこか遠い星から来たのだと感じている。
それは間違っているけど間違っていない。
そしてそれを否定する言葉を、この世界はまだ持ち合わせていない。


冷たい風と一緒に時折紛れ込むぬるい風。気のせいに違いないが、新緑の香りを含んでいるような気がした。歩道の脇には土で汚れた雪がまだ腰の高さほどに積み上げられている。新しいアパートの屋根から滝のように流れ落ちる雪解けの水。

遥は内窓を閉じ、積み上げられた段ボールを床に一箱下ろした。
腕まくりをして開封する。


玄関ドアのさらに向こう側から階段を登る音がして、やがてドアが開く。
コーヒーの香りを連れて戻ってくる人を、まっすぐ見つめることにしよう。






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