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『甘い生活』(1-3・3)

 たとえば、この手。
 今、夫の身体を横向きに倒し、支えながらもう一方で尻に付着した便を拭き取るこの手。
 週に二度、入浴介助のヘルパーが来る日の他は、毎日温かく湿らせたタオルで夫の首や腋や隠部を拭く、この手。

 または、一人暮らしの恋人のためにハンバーグを捏ねるこの手。彼の髪を撫でる時の、この手。

 信じられないような多くの役割を持つからこそ、この手には意味があるのだ、と奈緒は思う。恋人の、まだ二十歳になったばかりだと言う彼の手が驚くほど滑らかで、奈緒は思わず手を引っ込めたりもしたが、私もたかだか二十年前はこれほど滑らかな手を持っていたのだろうな、と自らの二十歳の過去に思いを馳せた。

 南向きの窓から入る日が少しずつ部屋を暖める頃、奈緒は羽織っていたニットのカーディガンを脱ぎ、腕時計に視線を落とす。午前十一時二十分。狙い澄ましたように、インターフォンが鳴った。立ち上がり、玄関の鍵を開ける。

 「訪問介護ステーションほほえみの相田です。ご主人のご様子はいかがですか?」

 短く刈り上げた襟足にかかる赤茶色の髪が、昼前の日光を浴びて眩しく輝いている。相田と名乗るヘルパーは、奈緒が身振りを使って室内に促すとにっこりと笑って、失礼します、とよく通る声で挨拶をした。

 「年越しはショートステイを利用されていたんですね。少し休めました?」

 肩に掛けたショルダーバッグからいくつかのファイルを取り出して、テーブルの上に並べながら美穂が言った。

 「うん、今回はちょっと長かったから。気晴らしに出かけたりして、気分転換できました。あ、さっき三十分くらい前に便が出てたのでオムツ替えてます。私、お昼作っちゃいたいので、身体拭いてもらってもいいですか?」

 「かしこまりました。下着はここにあるのを着ていただけば良いですね」

 相田美穂が訪問介護員としてこの家に来るようになって、まもなく二年になろうとしていた。年齢が奈緒に近いことと、かしこまりすぎずくだけすぎない振る舞いに親近感を感じ、定期的に訪問してもらっている。

 「相田さん、息子さんがインフルエンザにかかったって聞いたけど、大丈夫でしたか?三年生ならいろいろ心配ですよね」

 奈緒は冷蔵庫の中を物色しながら、美穂に話しかけた。

 「ああ、その節はご迷惑をおかけしてほんっと申し訳なかったです。あのあと、下の子にもうつってしまって結局三週間近く出勤できなかったんですよ、もう二人ともけろっとしてます」

 奈緒の夫の身体を片手で支えながら、美穂は左手を使ってその背中を拭いている。初対面の時のことを考えれば、お互いすっかり気を許しているな、と奈緒は思う。三十分という短い時間でも、週に二回は顔を合わせて同じ人の介護という共通の目的を持って動いているのだから、自然と距離感は近くなる。

 奈緒には子供がいない。
 美穂の顔を見るたび、ほっと安心感を覚えるのと同時に、罪悪感にも似た引け目を感じてしまう理由もおそらくそこにあった。そして、同世代の女性としての連帯を感じつつ、ある種、違う生き物のようにはっきりとした区別すら感じ取ってしまう理由も。

 女性であり、妻であり、母であり、訪問介護員である美穂のことを見ていると、自分がどれほど一面的であるかを思い知るようで、奈緒の胸のうちに仄暗い影を落とした。

 奈緒の手のうちで、様々な食材が細かく刻まれていく。咀嚼の出来ない夫の食事は全てのものが判別できないほどに切り刻まれ、それぞれの輪郭が分からなくなるほど煮込まれる。奈緒は、それを厚く重い食器に入れ、冷蔵庫から作り置きの粥を取り出す。電子レンジで温めてしまえば、夫の昼食はものの十分で完成した。

 「相田さん、次回来るのは木曜日ですか?」

 ベッドの隣に置かれた小さな丸いテーブルに食事を運ぶと、椅子に腰掛けながら奈緒は尋ねる。

 「そうですね、今週は木曜日も私ですね」

 「良かった、ちょうど見せたいものがあるの。木曜日なら間に合うかな。待ってますね」

 美穂は、薄く広がった唇の端を持ち上げて、少し首を傾げてから頷いた。
 おそらく、心当たりはないのだろう。彼女はきっと私が趣味で作ったパッチワークでも披露すると考えているのかもしれない、と奈緒は夫の顔に視線を移す。

 この人と一緒に過ごした二十年は、なんだったのだろう。奈緒の胸にそんな思いが去来する。

 奈緒の夫、雄一は目を惹く男だった。
 離婚歴があり、前妻との間に娘が一人いる。奈緒とそう歳の離れていない娘のはずだ。奈緒が雄一と知り合った二十歳の時、雄一は四十歳で、ちょうど事業の経営が上向きになった頃だった。
 雄一の羽振りの良さや人当たりの良さはもちろんだが、奈緒にとって一番魅力的だったのは、雄一がまるでどこか奈緒の知らない世界の住人のように、多くのことを知っていたことだった。時々耳にする事業の話、海外の音楽、車の良し悪し、飲んだことのないお酒。
 二十年経った今、それらは単純に年齢差による視界の違いにすぎないということがわかる。長く生きればその分長く世界を見ているから、なんとなく多くのことを知っている。ただ、それだけの話だ。

 今、奈緒の目の前で口の端から粥をこぼし、大きな目脂をつけ、鼻の頭を皮脂で光らせているこの男は、本当に雄一なのだろうか。
 流行の型のスーツを着こなし、目が眩むほどのネクタイを持ち、毎朝一時間以上身だしなみを整える、あの雄一なのか。

 「奈緒も好きなことにお金使っていいからさ、あんまり無理するなよ。別に結婚したからって変わろうとしなくていいから。今まで通りでいいからな」

 あの言葉は、本当に優しさだったのだろうか。或いは、自分を単純な夫婦関係に縛りつけないための逃げ口上だったのかもしれない。どちらにしても、彼はその程度の言葉ひとつと引き換えに、脳味噌の血管を詰まらせて倒れた挙句、三十八歳以降の奈緒をつまらないものに変えてしまった。奈緒には、もう愛情など一欠片も残っていなかった。手品にかかった時間は終わった。

 玄関で頭を下げ、車に乗り込む美穂の後ろ姿を窓から見送ると、奈緒は寝息をたてる雄一のいる部屋の扉を閉めて、ソファにぐったりと横になった。



『ヤングケアラーと呼ばれる人がいます。本来は大人が担うはずの家事や家族の世話で疲弊してしまう子供たち。彼らの声を聞いてみましょう』

 奈緒が目を覚ました時、つけたままになっていたテレビから女性の声が聞こえた。
 画面には新緑の中を歩く子供が映っていた。中学生くらいだろうか、画像処理されて顔は判然としないが、長い黒髪を一つに束ねた女の子。奈緒は無意識に、自らの髪に手を伸ばす。同じように一つに束ねられた黒髪。

 スマートフォンで、ヤングケアラーと検索する。ヤングケアラー、ダブルケアなどの言葉が明るい画面に次々と並ぶ。困難を抱える人達の叫びと、拡がらない支援。時には、痛ましい事件のニュースさえ飛び込んでくる。

『同級生は彼氏とか、彼女とか、遊びに行ったとかそんな話をよくしてますね。(私は)ないです、ないです。お父さんの食事を作らなくちゃならないから。でも、家族なんで。当たり前じゃないですか』

 私は子供ではない。家族の世話を滞りなく行えるほどに、もう大人だ、と奈緒は諦めたように黒髪を撫でる。

 カーテンを閉め忘れた窓の外には、藍色に沈んでいく街が見える。街灯が降雪に反射して、銀色の砲弾が降り注いでいるようだった。相変わらず、テレビから聞こえるドキュメンタリーのナレーションは、戦時の放送のような深刻さをもって奈緒の耳に誰かの辛さを掬い取るように伝えた。

 内窓を開けると、細かい雪と共に冷たい風が吹き込んでくる。急速に冷たくなっていく頬が心地よい。

 だれか、私を違う名前で呼んで欲しい。奈緒は雲の切れ間に浮かぶ滲んだ月を見上げてそう思う。

 お母さん。妻。奥さん。ヤングケアラー。ダブルケア。
 そのどれにも該当しない奈緒は、自分を慰めてくれる言葉をいつも探していた。辛うじて、妻にはあたるのかも知れないが、その役割はすでに放棄して久しい。

 色々なところで、名前を呼んで欲しい、という声を聞く。私はお母さんじゃない、お前じゃない、新人さん、パートさん。違う、一人の人間なんだ、名前があるんだから名前で呼んで欲しい、と。
 だけど、と奈緒は思わざるを得ない。役割のなくなった自分、とはいったい何なのだろう?母ではない私、妻ではない私、職種ではない私になった時、その輪郭はいったいなにが形作るというのだろう。
 役割とは反射だ、と奈緒は考える。透明な自分を目視するための反射。光を反射させることではじめて目視されるのであって、反射がなければ自分たちは誰の目にも留まらない。与えられた、或いは、気が付けばそうなっていた役割が、自分という人間に輪郭を与える。それがなければ、見るべき自己など存在しないのではないか。
 そして、反射する面が多ければ多いほど多様な輝きを放つ。丁寧にカットされたダイヤモンドのように。

 夫の、雄一の声にならない呻き声が聞こえる。時計を見ると、そろそろオムツを取り替える時間だった。窓を閉めると暗闇に自分の顔が浮かぶ。奈緒は、自分が自分を見ているのか、それとも透明な窓を見ているのか、わからなかった。


 「ここに映っているの、相田さんですよね」

 木曜日の午前十一時二十分。介護用ベッドの脇で、奈緒と美穂はテーブルに置かれたタブレットを挟んで向かい合っていた。
 美穂の後ろで、清々しいほどの青空が広がっている。太陽の光が美穂の背中を灼き、美穂の顔を陰で覆ってしまう。そこには驚くほどに表情というものがなく、核心を突かれた人間は表情が消え去ってしまうものなのか、と奈緒は思った。

 「はじめは気のせいかと思ったんです。財布の中身なんて、正直正確に把握してないから。でも、あれ?っと思ったらやっぱり減ってるんですよ、何度も」

 美穂は正座したまま、動かない。雄一はすでに着替えも済んで、くうくうと寝息をたてている。

 「だから、カメラつけました。あそこと、あそこ。相田さん、十二月だけでも三回盗ってますね。金額は約三万円。その前は撮影してないからわからないけど、相田さんがお子さんのインフルエンザで出勤できなかった十一月は、全然お金が消えなかった」

 タブレットには防犯カメラの映像が映っている。淡い色彩の中で、バッグの中の財布を抜き取り雄一のベッドの下に隠す美穂がはっきりと映っていた。そのあと、介助をしながら時折ベッドの下を探るような動きを数回繰り返し、バッグに財布を戻す。

 美穂は首がどすんと床に落ちるのではないか、と奈緒が心配になるほどに項垂れたまま、小さく、ごめんなさい、と言った。

 「どうして?お金を盗むのに、理由を聞くなんて野暮かもしれないけど、私、相田さんのことは好きだった。信用してたよ。どうしてこんなことしたの?」

 奈緒が美穂の顔を覗き込むようにして言った言葉は、心からの本音だった。今、目の前で青ざめていく美穂を見るのが、奈緒は心底辛かった。

 「お金が必要だったんです。生活していくのに」

 消え入るような声は静まり返った部屋の中ではよく聞こえた。

 「子供にかかるお金も増えていく、夫の給料は上がらない、仕事に穴を開ければ有休もつかない」

 「それは理由にならないよ」

 「そんなことわかってます。聞かれたから答えただけ」

 ふと、雄一に目を向ける。先程まで寝息をたてていた雄一が目を開けて、目が合った。
 奈緒は一瞬、呼吸がとまるかと思ったが、雄一が見ていたのは奈緒ではなかった。奈緒を通り越して、どこか何とも言えないほうを見ている。雄一には、まるで奈緒が見えていないようだった。

 「事業所と警察に連絡します。いいですね」

 美穂は力なく頷いた。奈緒はいつの間にか固く握りしめていた手を広げる。

 「あのっ」

 驚いた奈緒は身体を震わせて、美穂を見る。手に持ったスマートフォンを落としそうになり慌てて両手で押さえた。美穂は目を見開いて脂汗を浮かべたまま、縋るような視線を奈緒に突き刺した。

 「相田さんって、呼んでくれるの高木さんだけでした。どこの訪問先に行ってもヘルパーさん、とか、事業所名で呼ばれて」

 奈緒は、ゆっくりと両手を膝まで下ろすと、小さく鼻をすすった。

 私は恵まれているのだろう。そんなことはわかっていた。介護が必要な家族がいても生活は破綻しない程度に営んでいけるし、手とお金のかかる子供がいるわけでもない。働く必要がない程度には夫の障害年金や保険、不労所得も入ってくる。若い恋人もいる。生活のために罪を犯す必要がないほどに、恵まれている。わかっている。
 
 それでも。
 それでも、たとえ誰かとは比べ物にならないとしても、私には私の苦しみがある。この年齢から家族に縛り付けられ、日々が無為に過ぎていく悲しみや痛みがある。
 誰か、代わりに声を上げてくれる人がいるだろうか。私よりも苦しんでいる数多くの人たちと同じように、私にも名前をつけて手を差し伸べてはくれないだろうか。

 甘えている。
 奈緒は誰にも聞こえないような小さな声で笑った。美穂が続ける。

 「こんなことをしてしまって、本当にすみませんでした。だけど、私も好きでした。本当に。高木さんの、鏡のように屈託のないところが眩しくって」


 事業所が謝罪に来て、警察が調書を取って、あっという間に一日が終わった。今まで味わったことのない疲労感が奈緒を襲って、今日はこのまま眠ってしまおうか、とも考えたが、雄一のオムツを替えてないことを思い出す。

  「髭も、剃ってなかったね」

 雄一からの返事はない。今までも。これからも。
 藍色は深く、濃く、夜に沈んでいく。降り積もった雪に窓から漏れる橙の明かりが映る。暖かい電球色は、外から眺めれば穏やかな団らんが広がっているように見えるだろう。この部屋の中にいるのは、限りなく透明な二人。誰の目にも留まらない。奈緒は、新しい役割を得たであろう美穂のことを思い出してざわめく胸を抑えることができないでいた。

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