第六章:監査法人と休職、退職
※この物語はフィクションです。
閲覧中に気分を害されたり、過去のトラウマがフラッシュバックしたりした場合は一度深呼吸をするか、閲覧を控えてください。
ここ最近サステナビリティ、男女平等といった数年前には共感を得られなかった耳障りの良い言葉が流行っているようだ。このような時代に迎合して会社の開示書類にも非財務情報として温室効果ガスの排出量、女性の管理職比率が記載されているが、これらの情報に気を留めている物好きな投資家や就活生はいないだろう。これらの情報よりかは、各会社の3年後離職率、休職率、平均休職期間、社員あたりの専属医療従事者の数を知りたいというニーズのほうがあるはずだ。ただ仮にこれらが財務情報として監査の対象となった場合、真っ先に処分を受けるのは監査法人であろう。
前提
10数年前までは、繫忙期と閑散期の境目が明確であった。四半期開示制度やJ-SOXは存在せず、さらには監査自体も小国レベルの品質しか求められていなかったため、繫忙期に働きさえすれば閑散期は仕事をする必要すらなかった部署も存在した。しかしここ数年は会計不正に伴う監査法人の信頼失墜、グローバル化に伴う監査品質の向上化、サステナビリティを含む業務の多様化により量と質が同時に求められている。量は 『第一章:監査法人とリクルート』記載のとおり、供給される人材に限界があるため質を追求する必要がある。だが監査法人の経営層にこれらの状況をひっくり返す大胆な発想力や効果的な施策は期待できないため、付け焼き刃の施策と方針をひねり出しては現場を混乱に陥れる。その結果、管理者未満の者は毎月残業規制ギリギリまで、管理者以上は土日祝日まで働き続ける。久方ぶりに休暇をもらったとしても仕事から頭と心が離れることはなく、夢の中でも証憑突合か報告資料の作成をしている。
疲弊をした彼らの多くは休職や退職を選択し、人材の流出が加速する。鈍感でなければ経営層も事態を把握しているはずだ。しかし経営層は最後には、「俺たちの時代は、もっと苦労をした」「最近の若者は体力もなくメンタルも弱い」と高らかに宣い、自身の過去と経験、実績を肯定するのだ。
事例
休職、退職理由には、体力面、メンタル面の二側面がある。前者は体力に自信がある体育会系の者が仕事を引き受けられるだけ引き受けてしまった結果、過労でひっそりと倒れてしまいフェードアウトするケースが多い。後者は学生時代学業を真面目にこなしており、教師からの信頼も厚かったような人物が、メンタルをやられて失踪するケースが多い。彼らは各方面から降りかかる無理難題を治めようと試みるが「仕事が回ってくるのは期待されている証拠だ」「うまくいかないのは自分の能力の責任だ」「自分が我慢すれば事態は好転するはずだ」等と自分を追い込んでしまう。思考回路がショートし適切な判断ができなくなった結果、無自覚に潰れてしまい、事務所や現場に全く出社しなくなる者、繁忙期直前になり連絡が取れなくなる者、適切な引継ぎもせず退職を選択する者が発生する。
これらが発生すると、まず不足分をカバーしようと彼らがいた監査チームメンバーに負担がかかる。いなくなった者が主査だったり、案件を抱えている者であった場合は深刻である。膨大な資料やメールから何とか痕跡をたどり最低限前期通りの手続を試みるが大抵はうまくいかない。他の部署から人員を要請しようにも手が空いている者は特定のチームに所属していない厄介者しかいないため結局チーム内で完結させるしかない。言うまでもなく、他のクライアントとやり取りをしたり別チームの作業をしたりしなければならない中である。結果として、管理者含めまず体力面から疲弊してしまい、会社やチームメンバーへの対応も無意識に疎かになってしまう。そして監査計画通りに作業が進まずに鬱憤がたまりチーム自体の雰囲気も悪くなる。その雰囲気や負担はいずれクライアントにも伝わってしまいクライアントからの心証も悪くなる。クライアントから「チーム内の引継ぎはどうなっているのですか?」「〇〇さんが担当になってから我々の負担が増えてます」等と管理者を通じてクレームが入りメンタルが削られることもある。
彼らをかろうじて支えているのは、自身を成長させるやりがいや社会的意義だが【前提】記載の監査品質の向上やサステナビリティにもそれらは見いだせそうになく、金銭面のメリットも焼け石に水でしかない。やがて監査法人に見切りをつけ彼らのうち一人、また一人休職、退職を選択するのである。負のループの完成だ。
これらと似た状況が頻繁に発生していても監査法人の離職率、休職率は低位で推移しているといわれている。一体どのような操作をして数値をごまかしているのかは経営層のみぞ知る。
対処法
個人の力でできることは限られているが、負担を直接的・間接的に減らす方法はいくつかある。
1つ目は、重要性アプローチである。
監査の大前提である重要性アプローチは、自身の負担を減らすだけでなく、ひいては監査人としての成長にもつながる。監査計画をある程度コントロールできる立場である主査であれば積極的に余計な手続を減らしてしまえば良い。もちろん基準の確認と理由付けは必要である。主査でなくとも、「この手続きは必要ですか?」「他の監査チームではこのようなツールを使って効率化を図っています」等と提案をすればチームとして効率化の意識が高まり長い目で見れば負担も減るだろう。また重要性アプローチは仕事を割り当てる際にも役に立つ。例えば開示書類のチェックをする際、簡単な計算チェックや文言チェックはツールや部下に任せ、自分は新たに必要となる注記や全体の整合性にリソースを割くことが考えられる。仕事を難易度別に細分化して適切な者に割り当てる能力は今後多くの部下に指示する上で必要だ。優秀な管理者には自然と重要性アプローチは備わっているはずである。
2つ目は、適度な他責思考である。ここで大事なのは適度なという点である。過度にしてしまうと要注意人物として指名手配されてしまうからである。「十分な人材を配置しないパートナーの責任だ」「余計な施策ばかり打ち出す経営層や会計当局のせいだ」「使えない人材ばかり採用する役員の責任だ」等と心の中でつぶやくのが丁度良いだろう。特定されない範囲でSNSで愚痴をこぼすのも良い。とあるチームは「愚痴会」といった集まりを定期的に開催しチームや監査法人への不満を投げ合っているらしい。繁忙期になると怒鳴り声や不平不満が飛び交うのは監査法人の風物詩だが、この段階までたどり着いてしまったら退職してしまったほうが健全だ。
3つ目は、自分より状況が悪い者を見つけることである。あまり好ましい方法ではないが、一番簡単な方法である。ネットにも現実にも業界内外関わらず哀れな者が存在する。彼らを見て「彼らよりはましだ」等と慰めて傷を癒してみよう。ただ辺りを見渡して哀れな者が見つからない場合は自分が哀れな者である可能性がある。自分自身が哀れな者だと思われていることに気づいたら素直に退職したほうが良い。
休職や退職は決して悪ではない。休職や退職が当たり前となった業界と十分かつ適切な対策をしない法人が悪である。ただいくら追い込まれていたとしても、チームメンバーに連絡もせず姿を消す者は如何なものか。監査、会計業界は狭いので、禍根を残して監査法人を去った者の噂はすぐに広まってしまう。監査法人を去るのであれば引継ぎ資料だけ残して颯爽と姿を消したい。