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発達×定型のクリティカルポイント②

発達障害者(以下発達)と定型発達者(以下定型)の相互理解や譲歩のために必要な指標を、最近明確に自覚した(というか今まで漠然と感じていたものをようやく言語化できた)ので記録しておこうと思う。

私が定義した指標は、大きく二つに区分される。

一つは「精神的許容」、もう一つは「物理的許容」である。

つまり、相互にこの二つの課題をクリアできれば、相互理解や譲歩や共存共栄が捗るのではないかという仮説である。

前回は「精神的許容」に言及した。

今回は「物理的許容」に言及する。

ちなみに前回の補足として、「精神的許容」という課題は基本的に発達&定型関わらず個々の「自分自身のメンタル管理」が主題であることを付け加えておく。

処罰欲求や承認欲求や報復感情は、基本的に「他者が存在してこそ発動するもの」なので、他者を制圧さえできれば(マウントさえできれば)我欲は高度に満たされる。しかしその我欲に従って行動すると、必ず善と悪、加害者と被害者、上と下のヒエラルキーなど序列や分断を生む。

これがいかん。

「人より優位でありたい」「人より価値ある自分でありたい」「自分が正しいはず」みたいな根源的な自己欲求とどこまで喧嘩できるかという話。

人間の大半は「自分が肯定されることで感情的に充足される稚拙な生き物」である。なので自己肯定や自己証明が行動原理である。

「自己否定(自分の感情やアイデンティティに対する否定)」をしたい人間なんてほとんどいない。私もそう。

でも、だからこそ自己肯定に基づく安直な欲求や感情に私は危機感を覚える。他者を否定して自分を肯定する前に、自己否定をいったん挟む。それは、感情や欲求などの我欲に溺れて生きる醜い生物にならないため(自他ともに幸福に生きるため)の私なりのリスクヘッジであり戦略である。

さて、精神的許容は基本的に「自分自身の問題や課題」であるのに対し、「物理的許容」は根本的に性質が異なる「自分自身では管理あるいは克服しがたい問題や課題」である。

物理的許容とは

物理的許容を司るのは「現社会のシステムそのもの」である。察しのいい方であればこの時点でご納得いただけるトピックだと思うが、もう少しわかりやすく解説したい。

カサンドラ体験を通して私が発達弟に対し「物理的に許容しがたい」と感じた典型例が、仕事上(に限らないが)における「契約(納期や約束事など)」の不履行である。

大体の仕事には納期がある。大半の人間は、社会活動を円滑に進行するために展望や計画を描きながら、約束や契約などのアポイントメントを行う。そして約束事に伴う社会的責任や義務の履行に向けてスケジューリングする。計画や予定を立ててタスクを設定し消化する。

Trelloのようなタスク&スケジュール管理と設計を、頭の中で自然と処理し実行している感じである。

ところが弟は基本的に納期や約束を守るのが難しく、最後は偽装工作までする始末であった。

「納期に向けて順調に進んでます」
「間に合います」

そう言いながら結局納期を落とす。

弟自身の死活問題となるような(彼にとって)重要な約束事まで忘れてしまう始末であった。

そんなわけで私は弟の尻ぬぐいをするために徹夜したり、最終的にはクライアントに頭を下げたり。それにつれてうちの事業への評価も下がる。私自身のパフォーマンスも当然下がる。「真に恐れるべきは有能な敵でなく無能な味方である」という言葉が何度も頭をよぎった。当時の私にとって弟のパフォーマンスは本当に脅威であった。

とはいえ、部下や後輩の尻ぬぐいをしたり責任を取ったりするのが上の務めだと思うところもあった(この方針の有効性はともかく常識的には)ので、私は弟の責任を追及しなかった。

補足すると、弟が明らかに怠慢こいてたら、私は職務怠慢による実損に対する責任を追及したと思う。でも、彼は彼なりに一所懸命にやっている様子が見てとれた。「兄貴にまた迷惑をかけてしまった……」といった調子で、彼自身が自分自身の成果に打ちひしがれているらしい動向を何度か見たことがあるのだ。まぁ主観的な評価ではあるが。

別に弟に限った話ではないが、「自分自身に打ちひしがれている誰かの姿」なんて私は見たくない。

ここが、私が弟に対し責任を追及しなかった(発達障害への理解を深めようと思った)一番の理由である。

とはいえ当時の私は発達障害への解像度が低かったから、彼の特性に対する有効策を持っていなかった。知識がなかったので、一般論や常識など「普通はこう」という杓子定規でしか弟を評価していなかったし、そのせいで対応も限定的だった。

だからうまくいかなかったわけだ。

弟との契約が十分に履行されないので「てめぇふざけんなよ」という感情はあった。これは古今東西、管理職連中が職場において普遍的に抱える課題だと思う。なので取り立てて違和感はない。

また、私は当時から弟に対する「ふざけんな」は「私自身の感情の問題」と意識的にも無意識的にも認識していた(課題の分離にはおそらく成功していた)ので、「精神的許容」はある程度達成されていたと思う。

余談になるが、そもそもカサンドラ症候群(という名の適応障害らしき状態)の真っただ中にあった当時に始めたこのnoteやマガジンのタイトルを「ぐっばいカサンドラ」と設定したのも、「自分の中のカサンドラ的な課題を克服したい=自分の中にあるカサンドラ要素にさよならしたい」という動機であった。「ぐっばいしたいよ、俺の中の悪しきカサンドラと」である。

しかしこの表題がたまに「くそったれのカサンドラの皆さん、さよなら~」というニュアンスと誤解されることがある。

まぁそりゃそうだよな。仮に「ぐっばい発達障害者」と銘打てば、「発達障害との決別を表明している人(つまりアンチ発達障害者)」と認識されやすいと思う。それと似たニュアンスで「ぐっばいカサンドラ」は「アンチカサンドラ」という誤解を招きやすいネーミングだったと思う。

ここは私の説明不足ではあったが、当時は対外的にいちいちそんな説明をしていられる状態ではなかったし、そもそも「中身を読んだら俺がどういうスタンスかわかるだろ」と思っていた。

今も昔も自分の悪い癖なのだけど、「見たらわかるだろ」といういわば「普通に考えたらわかるだろ」「常識的に考えたらわかるだろ」という思考から「説明を怠る」という傾向がある。私は言葉足らずだ。

さて、そんなわけで弟が実損を生む現状に対する「物理的許容」は達成されなかった。

家庭の場合、たとえば「我が子を事故の危険にさらす」みたいなケースになると思う。典型的には、車中に子どもを放置し熱中症で死亡させる悲しい事故だ。

「熱中症の健康被害および死亡リスクが高い季節に、車中に子どもを放置する?ありえんだろどうしたらそうなんの?」というのが私の感覚。

こういった悲しい事故を起こしてしまった親などは、それこそ「車中に子どもがいることをなぜ忘れてしまったんだろう?」「なぜ確認を怠ってしまったんだろう?」と自問自答し打ちひしがれている方が大半だと思う。なぜって、子どもを殺したいと思って車中に置き去りにするケースなんて皆無だろうから。大半は過失のはずだ(そう願っている)。

こうした事故の背景には、発達障害的な特性が絡んでいる気がすると個人的には思うところ。

もちろん「こういう事故を起こした大人はみんな発達障害者」と言っているわけではない。場合によっては定型も起こしかねない事案ではある。でも、客観的に評価すると「発達特性はこういう事故リスクの確率を上げかねんよね」とは思う。

まぁ、この言論が「発達障害者への差別を生むヘイトスピーチやろがい!」と指摘したくなる人もいるだろうとは予想する。「ヘイトスピーチの意図と前提がない」ということは明言しておきたい。

事業にしろ家庭にしろ、発達には「心理的にも物理的にも他者の安全の確保が困難」という一面があると思う。

事業の場合、適材適所や合理的配慮や柔軟な人事など流動的な環境整備で何とか克服できる課題だと思う。もちろん管理者にはそれなりの知見や知識や試行錯誤が求められるだろうが。

でも、家庭の場合(特に育児において)、パートナー(主にママ)がそこまで寛容なリソースを割けない現実も容易に想像できる。

ふろみ課題からもわかるように、「お風呂見てきて」というパートナーのオーダーに対し「マジで見てくるだけ」というムーブをかましがちな発達パートナーだとすればなおさら。

ここに、オーダーした人が期待する社会的責任や社会的利差益が十分に達成されない現実のすべてが詰まっているように思う。

「物理的許容」とはつまり「社会的責任や社会的義務の履行」なのだ。

そして「社会的責任や義務」を定義するのは、現行社会における慣習や常識であり「他者への安全保障」なのである。

納期や約束を守れない弟。

「あ、忘れてた」で何でもかんでも済ませられると思うんじゃねぇよバカかよ──と私は思っていたし今も思っちゃうところはある(思っちゃうのは私自身の課題であり弟の責任ではない。ちなみにこういう感情を言葉にしたこともない)。

彼や彼らの類は、常識で詰めようが「普通に考えたら」を説こうが、実際に「忘れちゃう」し「できない」ようだ。

つまりどうやら「納期を守らない」のではなく「納期を守れない」のだ。

「忘れちゃうから」とか「報連相などコミュニケーションに伴う心身の負担がでかいから」とか「失敗に対するトラウマゆえの忌避感があるから」とか「そもそもそういう能力を持っていない」など理由や原因は様々だろう。

最終的に私は「一般社会で設定している納期や常識の方をどうにかしなきゃならないんじゃない?」という方向に舵取りした。

それはある意味自分自身の常識に喧嘩を売る行為である。

これまでの「当たり前の常識的な定型社会に生きてきた自分を否定する行為」でもある。

否定したくない。だって物事は「責任(や約束や契約や常識)の履行」でうまく回るし、それが成立するからこその秩序であり共存共栄であり発展性のある社会活動なんだから。

「秩序」の重要性を身をもって知っているから、「無秩序(らしきもの)」に適応する動機が私をはじめとする大多数にはおそらくそもそもないのだ。

約束(社会的責任)が効力を持たない社会や人間関係ってどうなん?不毛すぎん?と当時は思っていた。

カサンドラ体験は、そんな自分に対し「実際はどうなのだろう?」という疑念や自問を持てたターニングポイントでもあった。

で、実際はどうなのかを知るためにシミュレーションもしたし検証もした(割とガチめに)。

詳細は省くが、その結果「あれ?社会的責任が過剰に追求されない生き方も悪くないかも?」と思った。私自身だけでなく、検証現場におけるスタッフの反応も伴っていた。なんならスタッフのパフォーマンスが向上したケースまである。

そこで遂に私は「過剰な社会的責任を個人に課す日本社会がどうかしているのかもしれない」と、より突っ込んだ疑念を持った。つまり「そんな日本社会に生きてきた自分自身の感覚をいよいよ本気で疑った」わけだ。

シンプルに「過剰な責任が日本人のQOLを下げている」と感じた。

育児に関していえば、核家族化して地域で子どもを育てることをやめてしまった我々自身の責任でもあるのではないか──と。あるいは介護問題でもいいかもしれない。

こういう紆余曲折や試行錯誤(あるいはもともとの生育や気性や嗜好も手伝い)の結果、私は「日本の現行社会への疑い」を確信するようになったわけである。

しかし、私がどういう気付きを得ようがどういう思想を持とうが、社会は変わってくれないし待ってもくれない。

じゃあもう「新しいモデルを作って、それが成立することを結果で証明&提示するしかなくね?」というシンプルな結論に帰結したのである。

「新しいモデル」とは何か。

少なくとも「現行日本社会で運用されている大半の価値観(主には東京の労働スタイル)ではない」を前提とし、典型的には「沖縄の独特な“ウチナータイム”」や「なんくるないさ~」の精神だと個人的には思っている。

わかりやすいモデルなので沖縄文化を挙げているが、ベトナムもそうだし意外と欧州や米国の一部やそれ以外の国もそう(特に田舎は)。逆に言うと「日本人ほどかっちりしている人種って世界にほとんどいない」のが現実だと感じるところ。

つまりグローバルに見ると、「営利活動の様式や慣習が体系的にも技術的にも高度に統一され、かつ個人に大きな社会的責任が問われる(高度がゆえに)歪なビジネスモデルが世界にはほとんどない=(良くも悪くも)日本人は世界的少数派」という現実を知っているか否かだと思う。

法律や条例や制度以前にそもそも国民性の話なのかもしれない。

このグローバルな現実を知らないと、日本に生まれて日本の慣習に則って生きてきた自分の常識を疑う──という精神性や知見はなかなか養われないと思う。

日本人はもう少し肩の力を抜いて生きた方がQOLが向上するだろう。交通機関の緻密なダイヤに依存しないライフスタイルやビジネスモデルやビジョンの獲得が急務である。

昔、どこかの企業が「スマイルゼロ円」とかやり出した時は、「バカの所業?」と本気で思った。スマイルしてもらいたきゃチップを払え──が世界基準だろ、と。日本って昔からこうだ。

チップも払わねぇ客がお客様根性で店員のスマイルを搾取できるビジネスモデルがスタンダードに設定されるような社会を、日本社会自身が作ってきやがったわけだ。日本人の気質をうまく捉えた姑息な(とはいえ合理的な)マーケティングだったと思う。「お客様は神様です」という格言らしきものをバカな消費者が曲解した背景なども影響しているのだろう。

つまり日本人的な社畜根性に付け入るようなマーケティングを、一昔前は大手企業が外資・日系に関わらず普通にやっていた。

交通ダイヤが乱れたら破綻する営利活動ってどうなん?って話。もっと言えば「ハンバーガーを食うのに店員の笑顔が必要か?」という話でもある。

「遅れた電車が悪い!お陰で損失を計上した!責任をとれ!」という他責的な思想が日本ではなぜか昔から蔓延している。

自己責任論もこれの亜種である。

いやいや、電車にしろバスにしろ船にしろ飛行機にしろ、そりゃ遅れることもあるだろ。お前は車を運転していて渋滞にはまったことないんかい、と。なぜ「交通機関は遅れない。遅れたらお前の責任」という設計がベースなん?っつー。

言い換えれば「人間は普通に約束を守る。守れなかったら守れない奴の責任(守れない特性であったとしても)」をベースに据えるのはリスキーじゃね?という話。その前提を再設計したら?と思う。

ダイヤがそうそう狂わない日本の交通インフラは確かに優秀である。すごいことだと思う。実現できてるの日本だけじゃんというくらいには秀逸。

その恵まれた境遇を「当たり前」と思ってしまう視野狭窄的な島国根性に課題がある。

というわけで、総括すると実は「精神的許容」と「物理的許容」は表裏一体で。

「電車のダイヤが乱れてむかつく」のは「精神的許容」の領域である。つまり「そんなことにむかついているお前自身の感情的あるいは管理能力の課題やんけ」だ。各々で精神修行をしたり経験値を積んだりして、むかつかずに済むように環境や自分をメンテナンスしましょうとしか言いようがない。

人生には思い通りにいかないことがたくさんあるし、むかつく奴もそれなりにいる。それが現実だ。その現実を上手に受け止めて処理しましょう(その方が自分自身も周りの人間も結果的に幸せになれる確率が高いから)という話。

一方、「電車のダイヤが乱れて損害が生まれました」は「物理的許容」の範疇である。

しかし「遅れた電車に責任を取らせよう」という思想は危険だ。そもそも「電車は遅れない」という前提の方にテコ入れしなきゃならん。つまり「電車は遅れるかもしれないものです」という前提の下、物事をプランニング&最適化しましょう、と。

交通機関の遅延トラブルにおいては、基本的にこのような前提で法律が運用されている。交通機関の遅延によって顧客が経済的損失を被った場合の賠償責任の争点は「過失か否か」と「契約内容」である。

気候や自然災害による交通機関の遅延の過失は法的に認められていないので、交通機関に賠償責任はない。あるいは旅客運送約款など、交通機関が定める契約条項で免責となる。

発達障害問題で考えると、まず「発達障害は過失か?」がスタートである。もちろん過失ではない。しかし我々定型は「いや過失やろがい。だって普通に考えたら誰でもできることをやらないんだから怠慢だろ。怠慢は過失!」というジャッジをしがち。半分は無知により。半分は感情的に。

なので「発達障害とはどういうものなのか」を知ることが我々の最初の物理的課題であり、「人により脳のシステムはこんなにも違う」という現実を受け入れるのも感情的課題としてある。

次に旅客運送約款のような「契約条項における責任」も争点ではある。交通機関がたとえば「仮に遅延したとしても責任は負いません。あなたが切符を購入した時点で当該契約に同意したものと見なします」という約款を掲げていたら、利用者は仮に交通機関の遅延により経済的損失を被っても文句は言えないし裁判でも勝てない。

障害者雇用に関して言えば、「あなたが障害者だったら契約を解除できるものとします」という約款を掲げること自体が不法行為にあたる(退職勧奨は認められている)ので、社会ルール的に論外である。

なので、日本社会は法的にも倫理的にも「多様性を早急にインストールしなければならない」という局面に差し掛かっているのだと思うところ。

というか、個人的には「多様性をインストールしよう」よりも、まずは「画一的な常識を捨てようか」みたいな、もう少しバカげたステージにあると感じてはいる。

「システムに依存しない戦略(システムが機能しなかった時に「他責で責任転嫁すればOK」みたいなバカみてぇな思考停止戦法)」をやめようか、という話である。

「納期を守れない発達が異常!」と糾弾して責任を追及するのは簡単だ。でも、その行為にどういうメリットがあるだろうか?おそらく損失を回収できないだろうし、処罰欲求を満たすだけの感情的なアクションになる可能性が高いと思う。これはもはや物理的許容でなく精神的許容の課題なんだな。

「納期を守れない発達とどう共存する?」という物理的許容の視点から考えると、一般的には「彼らも適応できるようなシステムを再構築しよう」となる。

「そもそも納期(ダイヤ)は緻密ではない。だって俺達人間だもの」みたいな、それこそウチナータイム的な思想である。

システムのアップデートに努めつつ、そもそも我々日本人はそろそろマジでこの思想をインストールするべきではないかと思うのだ。

現代はまさに「社会的責任の価値や評価」や「自己責任論の倫理的課題」を見直さなければならないタイミングに差し掛かっていると思う。

「子どもを熱中症で死亡させてしまう親」に対し、私を含め多くの人は「なんで?ありえない!親としての自覚が足りないし無責任だし子に対する愛情がない!」と感情的に抵抗してしまいがちだと思う。

でも、実際に「不本意にそういう結果を招いてしまう人間もいる」のもまた事実であるようだ。

とすれば、多数派の我々の急務は「感情的な課題は自分自身で処理して、物理的課題に取り組む冷静さ」を持つことではないだろうか。

感情的に反発したって自分自身の感情を発散できるだけで、物理的課題は何も解消されないのだから。究極的に言えば「てめぇの感情なんか知らねぇよ自分で処理せい」でいいとすら思う。それよりも物理的課題の達成が急務だ。物理的課題が達成されれば感情的課題との対峙なんて不要なのだから。

とはいえ、実際にこんなことを書いている私自身も、やはり「いや普通に考えたらそうはならんから、それはもうお前の怠慢であり大罪じゃん」と直情的に思ってしまいがちなタイプである。

だからこそ自分自身の感情的課題をそれなりに深刻に受け止めているし、物理的課題の達成の難しさも感じている。

いずれにしても、両者の課題の達成にエイムする意思や意識や視点を持つのが、発達障害者をはじめ自分と異なる感覚や価値観や慣習を持つ人間(たとえ定型同士であったとしても)の、より高度な調和や新しい秩序の創出に必要なスタンスだと私は思っている。

私自身、実践や実行ができているかどうかはまだわからん。でも、この二つの視点を常に意識しながら、これからも自分の感覚や人生をアップデートしていきたい。

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