備忘録:ソシュールの記号論における「記号」(と『消費社会の神話と構造』における記号の定義)
はじめに
私は先日「希哲会」におけるボードリヤール著『消費社会の神話と構造』の読書会に参加させていただいた。
その中で、本書でボードリヤールが使用していた「記号」という単語の意味がいまいちつかめなかったため、簡単であるがリサーチしてまとめてみた。「記号」といえば、言語学だけでなく、(それこそボードリヤールのように)文化や経済の分析にも使われる概念である。そこで、今回は、希哲会にてリサーチの成果として発表する予定のレジュメを、noteにも投稿しようと思う。本稿は完全に備忘録(もしくは「調べ学習」)的になってしまうが、次稿をなかなか書けていないなかで、つなぎというか、noteが三日坊主でないことの証明ということででご容赦頂きたい。
以下が発表レジュメの本文である。
「記号」とはなにか
前回読書会において、本書に頻繁に登場する「記号」が何であるかについて結論が出なかったので、簡単であるがリサーチしまとめようと思う。ネット記事にはなるが、田沼 正也氏の『エンジニアのための記号論入門ノート』がわかりやすくまとめていたので、その内容を抜粋していこうと思う。
記号表現(シニフィアン)と記号内容(シニフィエ)
この記事は、言語学者ソシュールの記号論をまとめている。まず、記号とはおおまかに、「なにかを意味しているもの」を指す。そして、記号は、実は2つの概念に分けられる。すなわち、記号表現(シニフィアン)と記号内容(シニフィエ)である。記号表現は、記号の取る形(下図でいう標識)である。記号内容は、記号が表す表現(下図でいう注意の内容)である。ここで大切なのは、「記号表現と記号内容の間に必然的なつながりはない」ということである(恣意性)。つまり、「ここへ5分以上車を止めてはいけません」ということを表す標識が、下図のものでなければならない理由はなにもない。
差異の中で機能する記号
また、ソシュールは、記号は「システム」、つまり記号の集合の中で機能を発揮すると主張した。信号を例に考えよう。青信号は、「注意して進め」を意味する記号表現である。しかし、青信号「だけ」の信号があったとしたら、それに実用性はあるだろうか?ないであろう。実際には、信号には「止まれるなら止まれ」を意味する黄色信号や「止まれ」を意味する赤信号もある。そして、青信号は、黄色信号や赤信号との差異により、真に意味を持つのである。このとき、信号の三色は集合的に一つのシステム(交通信号)を構築している。
もう一つの例を出せば、「走る」という単語は、それ単独では意味を為さない。「歩く」や「這う」との相対的な差によって、初めて意味を持つ(逆に「歩く」も「走る」などとの差により意味を持つ)。ソシュール的に考えれば、「走る」というのは「『歩く』より早い移動の仕方」と定義されるのである。
ボードリヤール『消費社会の神話と構造』における「記号」の意味
この本での「記号」の定義について、私は未だ確実な答えを持っていないが、一つの仮説を提示したいと思う。それは、記号とは、具体的には記号表現を指している。これは、ボードリヤールが「記号」や「モノ(記号と同義?)」と、「消費財」や「道具」を対比的に書いていることからわかる。そして、本書p19に「ドラッグストアのほうは(中略)ここでは、商品が様々な種類別に並べられているのではなくて、記号を―消費の対象としての記号の一部をなすあらゆる財を―混合する」とある。つまり、ボードリヤールが「記号」という言葉により意味していることは、「現代の消費社会では、人々は商品自体の有用性のために何かを購入するのではなく、『贅沢さ』や『安心』などの『記号内容』を得るために、『記号表現』たる商品を購入する(商品は、服であろうがスマホであろうがどれも同じ効果をもたらす)」ということではないだろうか。
以上までがレジュメ本文である。
おわりに
今回は、次作「AIの権利(仮称)」までつなぎとして、希哲会のために作っていたレジュメをほぼそのままペーストする形となった。ただ、「記号」は、それこそボードリヤールがしたように、言語だけでなく経済などの分析にも使われる概念であるので、ある程度の意義はあるであろうが。当に備忘録となったわけだが、少しでもなにかの役に立てば幸いである。
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