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破壊された人格の回復
今日は少し思索を巡らしてみようと思う。
考えていくテーマは破壊された人格というものだ。
学校でのいじめ、職場でのパワハラ・モラハラ、家庭内での暴力・機能不全など、様々な環境的要因で人はいとも簡単に壊れていく。
私は学校でのいじめと機能不全の家族の中で育った生育歴があり、残念ながら、精神障害を患ってしまった。
苦しい中で、我慢していったせいで人格と価値観が破壊され尽くしてしまったのだ。
破壊された人格はどうなるのか?
壊れた器の欠片を全て集めて、接着剤やボンドで繋げても、繋ぎ目が現れて、元の見映えに戻ることは二度とない。
そして、今までのような耐久性もなく、すぐにまた欠片が剥がれてしまうこともある。
それと同じで、人格もどれだけ繋いで元の形に戻そうと思っても戻ることはない。
今までよりも壊れやすくなる。
これは私から出た考えではなく、統合失調症の症状の一例において、実際に脳科学で実証されている。
詳しくはこちらの記事にまとめてあるので、そちらをご覧いただきたい。
脳科学によって、精神障害の謎が解明されたいところだ。
人格が壊れていると思っている人に問いたい。
私たちは人格が破壊される前の「自分自身」を覚えているだろうか?
私はまったく覚えていない。
どんな性格をしていたのかも分からない。
私の中に存在するのは人格が壊れる前の記憶だけだ。
しかし、その記憶も人格が壊れてしまった後では破壊された人格の中でしか見ることはできない。
DVDの映画は見る度に見方が変わっていく。
人格が破壊される前は良いことに見えても、同じシーンを再生した時に、崩壊した人格で見た違うものに見えるのはよくあることだろう。
ところで、いじめをしてきた人の人生を気にすることはあるだろうか?
私にとっては学校で私をいじめてきた人間が今幸せだろうが、不幸だろうがどうでもいい。
ただ、私は救われたいのだ。
この現実、傷付いた心から棘が生えて、私が他人を傷付けてしまう現実からだ。
私はこの傷が癒やされない限り、みじめな人間に過ぎない。
しかしながら、過去の辛かった出来事を詳細に悪く言うことを誰でも見るところで言いたくはない。
「ソウ」というホラー映画のシリーズの中で、麻薬中毒者が「ジグソウ」という人物に拷問され、有刺鉄線に体が巻き込まれて、もがけばもがくほど棘が刺さって、体が絡まり死んでしまうシーンがあった。
私の場合、過去のことを延々と不特定多数が見る場で言い続けるのは、これと似ている。
過去を吐き出してもがけばもがくほど、私の心は拗れて傷付いていく、ある意味での自傷行為だ。
[ローマ人への手紙 7:24]
私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
人格が壊れたら何が残るだろうか?
そこには、空虚しかない。
だから私は、虚無主義が大好きだった。
[伝道者の書 1:2,3]
空の空。伝道者は言う。
空の空。すべては空。
日の下でどんなに労苦しても、
それが人に何の益になるだろうか。
心の中の空虚をなんとか埋めようとして、私たちは壊れた人格の上に、新たな人格を作ろうとする。
それは、壊れた人格を土台としているから、歪んだ形として生まれてしまう。
精神科用語で「認知の歪み」というのがある。
これこそ、精神疾患患者が一番認知できない病識である。
皆、どこかで「私は正しい」「私は傷付いている」と思っている。
そのような認識は被害妄想と強く繋がってしまうのだ。
つまり、相手にどれだけ良くされようとも、たった一回、相手がミスや地雷を踏んだだけで、心が歪んだ私たちは烈火の如く怒るのだ。
「許せない」
これこそが、破壊された人格の根っこに存在する悪魔的なものの棲家なのだ。
それは私だって同じで、相手の気持ちを考えることができない。
私には思い遣りが、愛がないのだ。
では、破壊された人格はどのようにして回復するのか。
残念ながら、全くの元通りになることは私はないと思っている。
しかし、新しい人格は作り上げることができるのだ。
先述した例えの中に、割れた器を挙げた。
私たちの存在は聖書で神にとって何だと言われているか、それは「土の器」である。
[イザヤ書 45:9]
ああ、自分を形造った方に抗議する者よ。
陶器は土の器の一つにすぎないのに、
粘土が自分を形造る者に言うだろうか。
「何を作るのか」とか
「あなたが作った物には手がついていない」と。
では、壊れた器はが新しくされるには何によってか。
キリストによってである。
[イザヤ書 53:4,5,6]
まことに、彼は私たちの病を負い、
私たちの痛みを担った。
それなのに、私たちは思った。
神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は私たちの背きのために刺され、
私たちの咎のために砕かれたのだ。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、
それぞれ自分勝手な道に向かって行った。
しかし、主は私たちすべての者の咎を
彼に負わせた。
キリストを信じて生き続けること。
これこそが、回復の道である。
キリストは私たちの病と、破壊された人格の憎悪という「罪」の贖いとなってくださったのだ。
私は自責感が強すぎて、何をやっても自分のせいにするので、もっと私を傷付けた人のせいにしても良いんじゃないかと言われている。
逆に、他責的な人もいるだろう。
自責も他責も、神の前では同じ「罪」である。
破壊された人格の辿る道は、「罪」だ。
そして、「罪」の報酬は「死」だ。
[ローマ人への手紙 6:23]
罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
だが、主を信じて生き抜いていくと、キリストにある永遠のいのちに辿り着く。
私たちは人格が破壊されたままではいけないのだ。
死んで葬られ、新しく生まれた人間として生きていくしかない。
こんなことを読んでいると、馬鹿馬鹿しく思えるかもしれないし、私が狂信者のように思えるかもしれない。
私はそれでいいと思っている。
しかし、私はイエス・キリストを信じて命を救われた。
きっと、イエス・キリストに出会えなかったならば、死んでいただろう。
生きていても、病気を何個も抱えて死んだような生き方をしていただろう。
私は虚無主義では生きていけなかったのだ。
創世記では、人間は神の像(かたち)に造られたと書かれている。
[創世記 1:26,27]
神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」
神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。
人間は神のかたち(像)として造られた。
これは、聖書の注釈にも書かれているが、文語訳聖書では単純に「像」と書いて「かたち」と読ませている。
だが、人間の堕落、原罪を犯したことによって、神の「像」を失ってしまった。
神の「像」を失った人間は、肉体と人格(魂・心)で生きるしかなくなった。
神の「かたち」は、常に神と共にあり、不滅の存在として生きていくことができるはずであった。
しかし私たちは、神の「かたち」を失い、朽ちる肉体と破壊可能な人格で生きるしかなくなったのだ。
[コリント人への手紙 第一 15:50]
兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
いちじくの木がオリーブの実をならすことはできず、ぶどうの木はいちじくを生やすことはできない。
[ヤコブの手紙 3:12]
私の兄弟たち。いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの実をならせたりすることができるでしょうか。塩水も甘い水を出すことはできません。
私たちが怒り、憎しみから来る罪を握りしめたまま、神に近付くことはできない。
つまり、私たちはキリストを信じ、罪を犯していない者のようではなく、罪人のかしらとして主の十字架の前にひれ伏し、神の「像」を取り戻さないと、どうあがいても良いものは生み出すことはできない。
だからこそ、人間に執着するのではなく、神に縋り付くマグダラのマリアの信仰を私たちは持つべきなのだ。
[ヨハネの福音書 20:11,12,13,14,15,16,17,18]
一方、マリアは墓の外にたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。
すると、白い衣を着た二人の御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、一人は頭のところに、一人は足のところに座っているのが見えた。
彼らはマリアに言った。「女の方、なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」
彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。そして、イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった。
イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、彼が園の管理人だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」
イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」とイエスに言った。
イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」
マグダラのマリアは行って、弟子たちに「私は主を見ました」と言い、主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。