生きるということ・死ぬということ:母の命日に思うこと

昨日で母が亡くなって丸11年が経った
家の前の桜が満開で、とても気持ちの良い日の夕方に
夫・子供・孫・兄姉・義母に見守られて、ずっと過ごした家で
母は64歳で息を引き取った
亡くなる最後の日まで病院に入院することなく家で一緒に過ごすことができた

母は58歳で癌が見つかり、すぐに手術を受けた。しかし、すでにリンパに転移しており、5年生存率は20%の宣告を受けた。
その後、母は64歳亡くなるまで、一度も入院することなく家で過ごした。

小学校から幼馴染で結婚した父と母。子供の私から見ても会話も多く仲の良い夫婦だった。
読書とバラを育てることが大好きだった母。それほど人付き合いが多くなかった母は、看護師の仕事をしながら、趣味の時間も大切にするとても自立した女性だった。
父は人付き合いも多く、思っていることを手紙や言葉にして伝えてくれるような男性。
一人で買い物に行きたい母にいつもついて行く父というような夫婦関係だった。

母の病気が分かってから、父は癌治療のあらゆる本と情報をかき集めた。自費診療でも、良いという治療があれば飛行機で受けにも行ったし、食事療法や毎晩のマッサージ、母のためにできることは何でもしていた。
手術後もしばらくは看護師として働いていた母。
抗がん剤治療の副作用で寝込むことはあったが、病気そのもので寝込むということは全くなく普段通りの生活を続けていた。母が5年生存率20%の宣告を受けながらも、それより長く生きることができたのは父のおかげだと思う。

看護師だった母は、癌という病気がどのように進行し、最期を迎えるのかはよく分かっていた。
4年ほどはいろいろな治療を続けていたが、ある時にもう治療は辞めにしたいと私たち家族に伝えた。父はできることがあれば、続けたいと言っていたが、結局は母の思いを尊重した。

私は東京で生活していたため、1歳の息子を連れて、実家の九州と東京を行ったり来たりしていた。まだ息子が小さく、私は仕事をしていなかったので、比較的自由で長期滞在もできたので、母が亡くなるまでにたくさんの時間を一緒に過ごすことができた。

母が息苦しさや痛みで寝て過ごすことが長くなったのは、亡くなる2ヶ月ほど前からだった。母はエンデイングノートを作っており、延命治療は一切望まないと意思表示をしていた。それには家族の同意も必要なため、私たちもサインをしていた。
葬儀は家族葬を希望し、自ら葬儀屋をいくつか周り、プランまで決めていた。
遺影に使う写真も撮りに行きたいというので、写真館で撮影もした。最後に棺で着る服も自分で決めたいというので、ネットで一緒にワンピースを選んだ。
私は、できるだけ母の希望通りにした。1日でも長く生きて欲しいと強く願っていた父は、母の準備に全て後ろ向きだったが、いつからか協力してくれるようになった。

母が、一旦東京に帰るように言ったので、心配しながらも東京に戻った。2日後くらいに母と
同じ県内に住む妹から「お母さんが、もう辛くなってきたらそろそろ眠りたいって言ってる。帰って来られる?」という電話があった。私はその日のうちに息子を連れて九州へ帰省した。

母は在宅看護を受けていたので、看護師さんや医師の先生と相談し、痛み止めの量を増やしてもらった。薬のせいで多少朦朧とすることはあったが、母は最後まで自分の足で歩きトイレにも行き、口から食事を取った。

母と一緒にいられる時間は1日もしくは数時間ということもわかっていたので、関東から母の兄や近くに住む親戚も家に集まった。まだ母には意識があったので、集まったみんなを見て喜んで泣いていた。

次第に意識がなくなり、あとは心臓が止まるのを待つという状態になった。看護師さんから痰の吸引方法を教えてもらっていたので、私たちは絡む痰を吸引した。
しかし、母は「心臓が丈夫過ぎてなかなか逝けなかったらどうしよう。」と笑いながら言ってた。延命治療も望んでいなかった。痰を吸引することは、母が望まないことをしているようで、泣きながら吸引し、積極的にはできなかった。
母の意識がなくなってからは、自宅にいる家族で交代で母の様子を見ていた。意識がなくなって丸1日が経った3月31日の夕方、それまでとは違う息遣いになったので、慌てて家にいた親戚家族を呼んだ。しばらくして母は息を引き取った。
母のことを大好きな全員で母を囲んで最期を見送ることができた。

亡くなった後は、妹と一緒に母の体を拭いた。母と同じ看護師をしていた妹と従姉妹が処置もしてくれた。みんなで母が選んだワンピースに着替えさせ、メイクをした。

母がしっかりと意思表示をしてくれたおかげで、私たちは最後まで母の希望に添うことができた。
母は最後まで意思を持って生きること、死ぬことをしっかりと見せてくれた。

母にはまだまだ生きていて欲しかったし、教えて欲しいこと話したいこと、一緒に行きたいところもたくさんあった。私が生まれてから母が亡くなるまでは、母が存在しない世界はなかった。母が存在しない世界がとても心細くも感じたし、本当に悲しかった。
ただ、闘病中の母と一緒に過ごし、母の気持ちはわかっていたので、延命治療で1分1秒でも長く一緒にいたいという全くなかったし、苦しむ母も見ていたので、心から感謝とお疲れ様という気持ちにもなった。

母のおかげで、自分がどのように生きてどのように最期を迎えたいかを考えるようになった。
家族や友人と一緒にご飯を食べること、話しをすること、散歩をすること、当たり前だと思っている日常がどんなに尊く大切なものなのかを知ることができた。
子育てでイライラしたり、夫と喧嘩したり、思うようにいかないこともたくさんあって泣いたり怒ったりする毎日で、時々この大切さを忘れてしまうこともあるけど、3月31日が来るたびに思い出すことができる。

昨日も満開の桜が咲く3月31日に母のことを想い、今ある自分の幸せに感謝することができた。


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