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村松に残る戦争の遺構を巡る
始めに~日常と戦争の傷跡~
2022年の2月24日にロシアのプーチン大統領はウクライナに軍を送り、「特別軍事作戦」を開始した。ウクライナ侵攻だ。
この侵攻はロシア側の想定よりも長期化し、現在も続いている。詳しい経緯や情報は上記の記事に詳しい。
戦争の傷跡が残るのは戦場だけではない。戦場から遠くにある一般市民が生活を営む所にもその傷跡、遺構が残っている。
たとえば、軍の駐屯地や官所、戦いに勝ったことを祝い、公園や広場に記念碑やモニュメントを設置する等が挙げられる。
記念碑やモニュメント等のオブジェにフォーカスすれば、ウクライナでは首都キーウで破壊したロシアの戦車を展示していることがよい例だろう。
そういったような雰囲気を形容するのであれば、お祭りムードと言ったところだろう。
戦争当事者の市民からしてみれば自分達の明日がかかっている。次の日には自分達の住む国が失くなるかもしれない。
そんな戦いに勝ったのであれば大いに祝うのも想像に固くない。しかしその栄華は、戦争が終わればたちまちそれは遺構、傷跡になる。
軍都と戦勝を祝う公園~五泉市愛宕 村松公園~
その遺構が多く残る土地として、新潟県五泉市愛宕、かつての村松町にフォーカスしたい。
村松はかつて、村松藩の城下町であり、外敵の侵入に備えるために、細く入り組んだ小路が設けられ、現在もその面影が垣間見える。
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商店街や道の各所には村松の歴史が書かれた看板が設置されており、それらを回りながら村松の歴史を堪能できる。
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村松の商店街の看板には「営所通り」と書かれている。この通りは後記する歩兵第30連隊兵営と外部との往来の便を図るため造られた道だ。
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営所通りをまっすぐ行った先には、愛宕小学校と村松体育館がある。
そこにかつての営所である、「兵営跡」が残されており、日清戦争に際して新設された歩兵第30連隊が兵営を設置し、その特需によって当時の村松は賑わいを見せたという。
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立て看板にはこう書かれている。
明治22年の日清戦争における軍備拡張により、歩兵第30聯隊が新設された。陸軍省が設置している中、村松町では町会で愛宕原の地4万坪を献上することを議決し、明治20年8月には村松に歩兵第30聯隊が設置されることが決定した。
施設の概要は、兵舎・練兵場・作業場・病院・射的場などが兵営敷地に建設された。そのほか、村松町では往来の便を図るため兵営門前から下町まで新道を建設した( 現在の学校町通り、当時は「営所通り」と呼ばれていた。)明治37年、日露両国(日本とロシア)は戦争状況に入り、村松の歩兵第30聯隊も出征した。 明治37年、日露両国(日本とロシア)は戦争状況に入り、村松の歩兵第30聯隊も出征した。 この日露戦争記念として造営されたのが村松記念公園である。
城下町として栄え、明治期には戦争特需で栄えた村松は、戦争と切っても切り離せない関係にあるのだ。その関係性が顕著に現れている場所が「村松公園」だ。
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この公園は、前記した歩兵第30連隊が、日露戦争に出兵した戦役記念として造られたことに由来する。こちらをご覧いただきたい。
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この庭園風に整備された、一見、何ら変わりもないただの池だが、Google Earthで見てみると『セイロ』と書かれていることが確認できる。
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ロシアに勝った事を祝して、公園を誘致する際池に『征露』と刻したのだ。この他にも、日章旗がレリーフされた灯籠や、機雷を傘に使った灯籠などが飾られている。
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このように、村松公園には戦争記念に関わる遺構が多く残っている。
後年には、遺骨が奉納されている忠霊塔や、忠魂碑が設けられている。
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このように、戦争から産まれたこの公園は哀悼の場としての側面も持っている。
しかし、これらのモニュメントは整備が行き届いていないためか、ひび割れを起こしている。
少年通信兵の慰霊碑~戦争犠牲者の記憶の継承と高齢化~
話を一旦兵営跡に戻そう。
兵営跡の立て看板には続けて、昭和18年に村松陸軍少年通信兵学校が創設されていたと書かれている。
旧陸軍との関係は終戦まで続き、終戦間際の昭和18年には、村松陸軍少年通信兵学校が開校され全国各地から少年兵が入校した。 昭和20年、終戦を迎え軍都村松の歴史に幕を閉じた。
村松陸軍少年通信兵学校とは、太平洋戦争末期に開校され、全国各地から少年兵が入校した。戦況が悪化し、早期卒業した11期生が南方戦線に出兵したが、輸送船が出向直後に攻撃を受け、312名が犠牲となった。
生き残った少年通信兵達や遺族、関係者により、犠牲になった少年通信兵たちの冥福とその記憶を後世に遺すために村松公園に少年通信兵を偲ぶ慰霊碑が建てられた。
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毎年10月10日には村松公園にて慰霊祭が開かれ、全国から元少年通信兵や元生徒、遺族ら関係者達が集まり、追悼していたが、その多くが高齢のため遠方から参列が難しい状況となっている。
地元有志による「慰霊碑を守る会」が発足され、慰霊碑の管理と少年通信兵と戦争の悲惨さを若い世代に伝えるべく活動していたが、会員の大半が70代を超える高齢者であるため、これからの活動の在り方を考えなければならなくなったという。
慰霊碑の回りを見渡すと、草が生い茂り、鬱蒼としていた。
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終わりに
冒頭で遺構を傷跡と例えたが、風化や劣化などの理由でこれらの遺構がいつまで残っているかは分からない。
遺構によっては早々に建て壊し、記憶ごと消え去られてしまうこともあり、慰霊碑など残された遺構は、イコンとしてそれらの記憶を忘れない、後世に受け継がせるための意味合いがあると私は思う。
村松には本記事では紹介していない、多くの遺構があるため、皆さんには是非巡ってみてほしい。
追伸
誤った情報や至らぬ点が御座いましたらご指摘お願いいたします。