NTRは悪か?
まず初めに、僕はNTRが嫌いだ。ヒロインが他の男に抱かれていると心臓の位置が下がるような心地がするし、寝取らせなんてもってのほかだ。NTRとは少し違うのかもしれないが、人生で初めてカラミザカリの広告を見た時は本当にムカついたし、今でも「あー、入った♡」というセリフは脳裏に焼き付いている。見る側の感情やキャラクターの行動の整合性を考えても、やっぱり純愛が一番だと思う。しかし、そんな僕の好き嫌いを抜きにして、NTRという行為についてよく考えると、善い行いだとまでは言えなくても、道徳的に悪と言われるほどの行為ではないんじゃないかと思った。その理由について書いていく。
僕たちがエロ漫画を読むときには自然と主人公の視点になって楽しむと思う。すると、自分と両思いだったはずのヒロインが他の男に取られてしまうNTRは道徳的に悪いものだという考えになるのが自然だが(NTRでダメージを受けない人はそもそもこの前提が違っていて、最初から寝取る側の視点に立っているのだと思う。)、これはあくまで物語に複数登場するキャラクターの一人の視点でしかない。なので、まずはヒロインの立場になってみてNTRというものについて考えてみる。
ヒロインが最後に主人公よりも寝取り男の方が良いと認めてしまうNTRでは多くの場合、寝取る側の方が主人公よりも男性的な魅力を持っているので、最終的な結果から見ると、ヒロインは自分をより満足させてくれる存在と出会えたことになる。この、ヒロインは幸せになっているという事実は、NTRの善悪を考える上で非常に重要になると思う。結果がヒロインにとってプラスだとすると、悪を見出しうるのはその過程だけということになる。そこでNTRの過程について考えてみると、多くの場合寝取り男は一回以上ヒロインの同意をほとんど得ずに無理やりセックスしている。悪だと見出せそうな絶好のポイントだが、この点の善悪について今一度検討してみる。ここで、寝取られることは最終的にヒロインにとってプラスである、ということを思い出すと、この点での善悪の判断はつまり「本人の同意を得ずに、最終的に本人にとって利益があるような行動をさせることは正しいか」ということになると思う。このようなシチュエーションは家庭や学校など日常のさまざまな場面で(特に自分で判断することがまだ難しいような年齢の子供に対して)よく見るが、そのときに僕たちが抱く感情とNTRに僕たちが抱く感情の違いについて、道徳の結果説と動機説の二つの立場から見てみようと思う。結果説、動機説とは、ある行動についての道徳的な判断を、その行動の結果によって行うか、それともその行動をした主体の目的によって行うか、という異なる二つの立場である。
まず結果説に基づいて考えてみると、上に書いたようにヒロインは寝取り男の行動の結果、より大きな幸福を得ているので、無理やりセックスをするという行為は善い行いだということになる。女の子が幸せになったのは結果論じゃないか、と思うかもしれないが、その結果について考えるのが結果説なので、この結論には問題はない。しかし、僕たちが通常持っている道徳的な価値観に合っていないのも事実である。学校や家庭で上のような行動の押し付けが道徳的に許されているのは、押し付ける側が子供の幸せを本当に願っているという動機説的な前提があることに依ると思うので、今度は動機説の立場から見てみたいと思う。これには寝取り男がどのような考えでその行動を起こしたのかが重要になってくるため、一度寝取る側の視点に立ってみたい。
ここでポイントとなるのは、大体において寝取る側は主人公やヒロインに対して積極的な悪意は持っていない、ということだ。その二人の仲を引き裂くことが目的というよりも、自分が快楽を得るために行動を起こす、ということがほとんどだと思う。なので、動機説でNTRの善悪について考える場合、重要になるポイントは、「人は、自分の快楽のためだったらどこまで他人に不利益を与えて良いか」ということになると思う。これによって寝取る側の動機が善であるか悪であるかが決定するからだ。この判断基準は人によってある程度幅があると思うが、僕が今回考えている条件と似ている例として考えたのが、学校の入学テストや会社の入社試験だ。これらにおいては、自分が合格するということは他人の枠を一つ奪うことと同じであるため、合格した人は自分が利益を得るために他人に不利益を与えている。しかし、入学テストのために努力することを悪だと思う人はいないだろう。これには競争の公平性が関係していると思う。環境や才能について考えるのは話が逸れるので一旦無視すると、入学試験や入社試験では、試験を受ける各人が公平に競争することができるということになっている。そこでより良い結果を出した人が選ばれるのは、(そもそも試験をするということの是非は置いておいて)道徳的にも正しいと思う。そこで、NTRにこの状況を当てはめてみると、恋愛においても一種の入学試験のようなものを考えることができる。つまり、ヒロインにとってより魅力的に感じた人が合格であり、それ以外の人が不合格であると考えると、寝取り男が行う、一見非道徳的な行動も、自分の魅力をアピールするための手段だと考えられる。現実においても、現在付き合っている人よりも魅力的な人に出会うというシチュエーションは容易に考えられるので、自由恋愛における競争の公平さというのは十分現実に即していると思うし、これは人を好きにならない権利(もしくは、与えられた分の好意を返さない権利)を保証する上で非常に大事だと思う。こう考えると、寝取り男は自分が持っている強みを最大限活かせる形でヒロインにアピールしただけであり、それをヒロインがより魅力的だと思っただけだと考えることができる。すると、公平な競争に勝利するための寝取り男の行動は悪とは言えないのではないだろうか。もちろん、ヒロインの気持ちを全く考えていないような男が人間的に正しいとは思わないが、入試とのアナロジーで考えると、今回の条件では寝取り男が自分の快楽のために行動することは動機説的にも悪ではないということになる。
しかし、寝取り男が道徳的に全く悪ではないか、と言われると当然そんなことはない。上にある「動機説的にも悪ではない」というのはあくまで自由恋愛において人の彼女を奪うこと、つまりNTRが悪ではないというだけで、ヒロインとの同意なくセックスをしたというのは当然動機説的にも、短期的な結果説的にも悪である。これはヒロインの視点で見た時の悪であり、NTR全体に対しての悪とはまた異なっていると思う。なぜなら、同意のないセックスを行わないでNTRをするというようなケースも考えられるからだ。
そのため、この文章の最終的な結論としては、NTR自体は悪ではないが、その過程で多くの場合行われる同意なきセックスは悪だということだ。しかし、最終的にヒロインの心が寝取り男に傾いてしまう場合、最初のセックスですら悪ではないと認識されてしまうことが考えられるので、そうなってしまうと主人公側の視点から寝取り男を悪だと断定することができなくなってしまう。我々弱者にできることは、このような事態にならないためにも、自分の持つ魅力をよく理解し、それを強めていくことと、そもそもNTR作品に触れないようにするということだけだ。