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円空、アイヌの道を行く!

円空は1666年、蝦夷に渡り松前から日本海側を北上し太田山でたくさんの彫仏をしました。
前回の話しはこちら☟

円空の約100年後に蝦夷を歩いた北海道の名付け親である松浦武四郎は、太田山をアイヌに案内して貰ったと記しています。
円空も太田山へはアイヌに案内して貰ったと推測します。

その理由として、
①太田山は未開の地、蝦夷地にあった。

当時の北海道はアイヌの住む蝦夷地と、松前藩領である和人地に分かれていました。

1600年代後半
『八雲町史』

1669年シャクシャインの乱の際に、密偵として松前藩領内に潜入した津軽藩士の報告『津軽一統志』の記録によると、
・蝦夷地の和人は15,000人程度。
・人口的にはアイヌ人の絶対優位。
・上口は熊石、下口は亀田まで和人と
 アイヌが混住。
とあります。
1666年松前から北上した円空は熊石で観音菩薩立像を彫仏しているので、記録の3年前ですが和人は居たと思われます。しかし更に北にある太田山までは未開の地、蝦夷地を歩かなくてはなりません。

②蝦夷地=アイヌの地は未開の地と言われますが"アイヌの道"があった。
(『アイヌの道 街道の日本史1』より)

例えば、
ル: 道の事。獣や人が踏みつけてできた道、渓流の中や藪の中を押し分けて通る道など。
ルベシベ: 山越え峠越えするにあたり、一番都合の良い中腹などの最短距離の道や、比較的緩やかな沢伝いの道。
サクル: 夏道。海沿いが歩けなくなると、川・沢筋を登り下りし内陸へ入る道。
マタル: 冬道。夏は歩けない川や湖の上を歩く道。穴熊猟などに用いる。

太田山洞窟内から見える帆越山

熊石から向かうと太田山の手前に帆越山がありますが岬のある海岸沿いは険しい崖が続き歩けない為、アイヌの道
=ルベシベを使ったと思われます。

円空が来た約100年後の1789年5月に蝦夷地を歩いた旅行家菅江真澄は、熊石と太田山の凡そ中間地点にある"ひらたない"(現在の久遠郡大成町字平浜)付近についてこう書いています。
「これから行くさきの山中には、周囲七、八寸(20センチ以上)もある太い虎杖(イタドリ)が道をふさいで高く茂り、羆(ひぐま)がすむといって行きかう人もまったくないので、ここの磯舟にのって行こうとした」
『えみしのさえき』八雲町史より

ヒグマの多い所での寝泊まりする場所も含めアイヌの案内が必要だったと推測します。

蝦夷に入ってから円空が彫仏した像の背銘で日付がわかる物は3体あります。
①松前藩筆頭家老にあてた像
 「寛文六丙午天六月吉日」
②小幌の岩屋で彫られた像
   「寛文六年丙午七月廿八日」
③内浦岳山麓で彫られた像
 「寛文六年丙午八月十一日」

小幌の岩屋

この史実を元に、当時の状況が書かれた記録や100年後に書かれた著書などで円空の足取りを推測するしかありません。

円空が来た当時、松前港が玄関口とされていた為スタート地点は松前だとしても、其処から南へ向うパターンも考えられます。
私達が北上したと推測したのは当時の蝦夷地には"金の道"⁈があったからです。

次回のYouTubeは松前から上ノ国までの円空を辿りたいと思います。
"金の道"については4作目になる予定です。

お読み頂きありがとうございました🙇


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