円空が蝦夷に来た頃の、松前の宗教観を「福山町史」で見てみます。
蝦夷での宗教は、修験者達が社寺を創り、展開していった事が分かります。
前回記した松前城(福山館)下の寺町では、山岳信仰における神仏習合の名残が今も感じられました。
また、松前藩主は確かに、当時居城としていた徳山館に神明社(後の徳大大神宮)を、唐津内浜より遷宮しています。
※唐津内浜=松前道の駅を含む現在の松前町唐津。
ここで秋田や津軽から出稼ぎで来る漁民達により祀られていた伊勢堂を、徳山館に遷座したと「北海道神社庁」HPに書かれています。
松前には、修験者や漁民達が建てた神社がこんなにも祀られていた事が分かり、同時に藩が神社を建立していなかった事も分かります。
1669年のアイヌの蜂起(シャクシャインの戦い)の際、密偵として松前領内に潜入した津軽藩士の報告書『津軽一統志巻第十』があります。
そこには、熊石と亀田(斜線部分)では現地のアイヌ人と和人が混住していたことが記されています。
※円空の来た3年後の記録です。
円空は、この様な状況下で松前からスタートして熊石へ向かい歩きます。
こちらは、松前藩の歴史を記した『新羅之記録』に残る1400年代に築城された12の館跡です。上記の徳大神宮の裏山に残る大館も含まれいます。
大館は、1457年アイヌの蜂起(コシャマインの戦い)により陥ちます。
そこに松前藩主の先祖が1514年、上ノ国から移り、徳山館を築き拠点としていました。
※円空が来た1666年には、松前藩は幕府として認められ現在の松前城(福山館)の地に移り、60年が過ぎた頃です。
そこから円空は、北上します。
今回のYouTubeには、12館の他の2つの館跡も出てきますので、上図で円空の足取りを辿っていきたいと思いますが、続きは次回。
最後までお付き合い頂きありがとうございました。🙇