家族が揃うまでと酒癖最悪お父さん、ギャンブル依存症養父の話
はじめに
少しずつ少しずつ、大人になると子どもの頃は鮮明だった思い出や記憶が薄れていきます。記憶の鮮明なうちは思い出すだけで息が出来なくて悪夢にうなされて、精神が不安定になってしまっていました。
やっと冷静に思い出して考察することが出来るようになったのは今。冷静になるのに39歳じゃ遅すぎです。残酷。
虐待を受けていた記憶は薄れていけばその方が幸せですが、でも薄れていく記憶に、誰かに伝える事も出来なくなる焦りのようなものも生まれています。それにあの時どうしていたら良かったのだろうともよく考えます。一生納得のいく答えは出ないと思うんですが、どうしても考え込んでしまいます。
まずは自分用に思い出せる全てを人物ごとになるべく出来事の起きた時系列になるよう書き始めました。あまり言語化するのが辛い部分は省いています。いつかそこも書けたら誰かの何かの行動の参考になると思うのですが、今はまだ無理みたいです。素人が書くので無駄に長い文章で読みづらくなってしまいました。申し訳ないです。
親目線で「そうは言っても親も辛いのよ」でも、子の目線で「私ならこうやって状況を切り抜ける」でも、何でもいいのでちょびっと考えてもらえるキッカケになるといいなと思いながら、ここに記します。
もし身の回りで虐待を受けているかも?という子どもを見かけたら、虐待かどうか確信が持てなくても相談ダイアルに電話をしてあげてください。自分の子どもを大事にする自信がない、つい虐待をしてしまい悩んでいる大人の方も相談できるようです。他人に言葉にしてみる勇気も時には必要なのかもしれない。
電話は匿名で掛けることができます。
児童相談所虐待対応ダイヤル「189」(いちはやく)
生まれてから家族が揃うまで
生まれてすぐ
私が産まれて間も無く両親が離婚したそうです。
理由はお父さんが仕事をちゃんとしないからとのことです。
母に親権が渡ったものの経済的理由で、一番お金と世話がかかる時期だからとか色々な理由があって、私だけ母の親族の家に預けられます。
私の記憶は2歳くらいから始まっています。一番はじめの記憶は男の子二人と性別不明のもう一人子どもがいる家に寝泊まりしていて、いつも男の子に泣かされていたことと、生活の扱いに差別を感じ寂しい気持ちでした。とにかくあまり良い思い出はありません。母から聞いた話では預け先は何件か移動しているとのことでした。
児童養護施設
その後、児童養護施設に預けられます。
そんなに長くいなかったと思います。
児童養護施設では年上のお兄さんお姉さんが生活の身の回りのお世話を手伝ってくれた記憶、グループでワゴン車に乗って日帰りで湖か海(多分湖)に出掛けたことを覚えてます。
ある寮母さんに思いきり叱られたことがあり個人的に、その寮母さんのことを怖がっていました。でも夜中、泣いて寝れない時にその寮母さんが寝るまでついて居て、話しかけてくれていたか本を読んでくれた記憶もあります。夜寂しくて泣いても、寄り添ってくれた人はこの方が初めてだと思います。でも基本的には、施設では就寝前に毎晩大人が付ききりで居てくれたことはなかったと思います。
トイレとか歯を磨く洗面所も公立の小中学校みたいなゴツっとした感じでズラッと並んでいて、それでいて学校よりもう少し温かみを感じさせるような…上手く説明出来ないですが建物全体はそういう雰囲気でした。
当時35年以上も前だし、場所にもよるしもっとアットホームになったりしているのかな?
お父さんの実家に
間も無く、父方の祖父母の家に引き取られて祖父母と3人で暮らしました。お父さんとも頻繁にお父さんのアパートに寝泊まりに行ったり、色々な場所にも遊びに連れて行ってもらいました。メインの居住はおじいちゃん達の家で、週何回かお父さんと暮らす感じでしょうか。おじいちゃんもおばあちゃんも私が家に居れば喜んでくれていたし、お父さんも会えば嬉しそうにしてくれてました。
私にとってのいつも笑顔の温かい理想の家庭像はまさしくこれだと思っています。
祖父母の家に来てから保育園にも通い始めて、おばあちゃんか時々お父さんと一緒に通園していました。問題なくお友達もできました。
毎週水曜日だけは必ず保育園を休んで、朝一におばあちゃんの鍼灸院、その後電車でデパ地下などに行っておばあちゃんと買い物するのが恒例でした。今でもよく行った場所やお店は鮮明に覚えてます。
子どもから見ると鍼灸の針だらけのおばあちゃんを見て怖いと思っていました。案の定、いい子にしないと〜のおばあちゃんの決まり文句に採用されていました(;▽;)
恒例の買い物は楽しみでしたが、休むので通園手帳のカレンダーが埋まらず、皆勤賞になりません。毎月皆勤賞の子は大きなご褒美シール(金色)がもらえたのに、私はもらえないのは悲しかったです。
一回ご褒美シールの件でおじいちゃん達にグズった記憶があるけど、おばあちゃんは水曜日に私を休ませるのを止めたことはなかったです。でもおばあちゃんが一緒に出掛けることを楽しみにしてくれていたのかもと思うと、それは悪くなかったかなと思えるし、今では良い思い出です。
おばあちゃんに連れられて児童養護施設の寮母さんのところに挨拶にも行ってます。怖いと思っていた寮母さんとのまさかの再会。それから、また一人置いていかれるのでは?という不安から何度もおばあちゃんに確認の質問をした不安な記憶があります。寮母さんは会いに来てくれたことをとても喜んでくれました。当時は幼過ぎて何も思わなかったけど、ちゃんと寮母さん達にお礼を言いにいく機会をくれたおばあちゃん達に感謝しています。生涯でお世話になってお礼を言えたのは寮母さんだけです。他の方にはお礼を言えないままここまで生きてしまってますから…。
この日の帰り、敷地内に放し飼いにされている無駄吠えのすごいブルドッグを初めて間近で見て、トラウマになりました。ここから何年か犬が苦手になってしまい見かけただけで大泣きしてました。今ではいい思い出です。
敷地内で吠えてるだけで、襲われたり噛まれたわけじゃないんですけどね。でもそういう経験があって、今では犬の散歩に行く時は周囲の人との距離に気をつけるようにしています。
印象的な思い出
カップ麺は体に毒と言われ食べた事がなかったけど、ケンちゃんラーメンのシールと景品はどうしても欲しくて、CMを観て憧れていました。志村けんさんが大好きで志村けんさんのお嫁さんになると言うほど大ファンでした。私が食べれない代わりにおじいちゃんとおじいちゃんの会社の人の協力のもとシールが少しずつ集められて、景品交換に応募してバカ殿様のボールペンを2本ゲットした思い出は印象的です。確か、私宛の紙の封筒が来て、開けたらバカ殿のボールペンが入っていて。押すと腕がピコピコした気がします。シールは銀の削る部分があったと思います。おばあちゃんがケンちゃんラーメンを食べてるのを見てしまい、毒じゃないの?と聞いたら、大人は大丈夫とガバガバ理論を聞かされ、大人ってやっぱりすごいと思いました(笑)
お母さんという存在の認識
ここまでの時点で私は3歳前後までと記憶しています。
祖父母と暮らしはじめの頃は、お母さんとは大人の女性の事で、ごはんを作ったりお家にいる人みたいなざっくりした認識だったかも。だからおばあちゃんがお母さんくらいに思っていました。
おじいちゃんとおばあちゃん、お父さんが居て充分生活は満たされていたからか、母親がどうとか深く考えもしなかったし。だから保育園に通うようになっても周囲と比べたり違和感も感じたりすることなく、施設の頃と違って夜泣いたりした記憶もないです。
「ママ」からの贈り物
いつからかナチュラルに、おばあちゃんが時々「ママからだよ」と手紙を読んで聞かせてくれたり、贈り物の箱(中身はお菓子か絵本)を持ってきてくれるようになりました。はじめの頃は、おばあちゃんと一緒に箱を開けて中に詰まったたくさんのお菓子やら絵本に、ただただ単純に喜んでいました。
時々、絵本感覚であの手紙を読んでとおじいちゃん達にお願いして手紙を読み聞かせしてもらったのは覚えています。いつもおじいちゃんが読んでくれてました。おじいちゃん達は私のお願いに不快感を出さずに、私が手紙の話を聞きたいと言えばいくらでも読み聞かせてくれていました。
手紙か贈り物の箱を開けた時に、一度おばあちゃんが怖い声で「ママが迎えに来てもあやかは渡さないからね」と、少し怖い雰囲気に感じたことがありました。私は私が何か悪い事をしたから怒っているんだと思ったんです。だから許してほしくて「あやかはここからどこも行かない」と、おばあちゃんとゆびきりげんまんをしたことをはっきりと覚えています。
ある時おばあちゃんがママから電話だよと私に取り次いでくれて、初めて電話越しに「ママ」とお話ししました。電話自体も初めてだったかも。あやかです!と受話器に話すと「ママ」は泣いているようでした。私は心配して「いじめられてるの?大丈夫?」って聞きました。母はその後泣きながら喋っていたのは覚えてるんですが詳細は忘れてしまいました。
…顰蹙を買いそうですが、今ではこれが結構イラっとする思い出になっていて『自分で決めた選択の結果じゃろがい。何で一番被害を受けてる子どもを差し置いてあなたが先に泣いてんねん!泣きたいのはこっちですわ』と言ってやりたいです。※マイルドに表しましたが、もっと過激な感想を持っています。
母からの手紙や贈り物、電話。割と短期間のうちにたくさんあったんじゃないかと推測してます。時間感覚がなくてここの期間は曖昧です。母も一応親権を獲得した意地があったんでしょうか。手紙や贈り物をたくさん送ってきた事は、母の意地や罪滅ぼしだろうと推測してます。ずいぶん勝手だと思いますけどね。そんな物理的な欲より親と一緒に居られることの方がこの時期の子どもにとって大事だということに気付いて欲しかった。
少しずつ「ママ」という女性の存在に好奇心とか興味、疑問が生まれ、次第に私は「ママ」に会いたいと思うようになりました。
おじいちゃんもおばあちゃんもお父さんも私の事を尊重してくれていたんだなと今になって実感しています。私が「ママどうしてるかな」と言うたび対面が実現したのです。会いたい、気になるって聞く度、おじいちゃん達が裏で調整してくれてたんじゃないかと思うのです。言った事実と会えたタイミングを思い返すとそう思わずにいられません。
ターミナル駅の改札口近くで、初めて母と姉兄と会いました。背の小さなおばあちゃんをいつも見ていたので、「ママ」はすごく大きな女性に感じました(母165cmにヒールの靴も履く)。
姉のことは少し怖いけど頼れるお姉ちゃんって感じで。兄はお調子者で明るくて話しやすかった。
それから何回も駅で待ち合わせてお父さん抜きの対面をしました。母と兄が毎回お別れの時間に大泣きするのが、個人的には泣いてしまいそうになるし我慢が辛かったです。おばあちゃんのことを考えると泣けませんでした。
いつからか駅の待ち合わせ以外にも、現地集合解散のお父さん込みでの夕食会もするようになりました。お父さんもいる時は特に家族が揃ったようで嬉しかったです。
ふとした時に思い出すのですが、おじいちゃん達の素晴らしいところは、その後「どうだった?」と決して不機嫌になったり意地悪することなく母と会った時の話を聞いてくれて、また会えるよと言ってくれていたことです。
おばあちゃんは時々、母について文句を言っていたのですが、私から話だす時には母についての話も拒絶せずよく聞いてくれていたと思います。嫌いな人の話を我慢してくれていたと思うので、孫から嬉々として聞かされたのはかなり辛かったと思います。
5人で住むことに
私が母親に頻繁に会いたがっている。お父さんと母ときょうだいの5人で暮らしたがっている。…とおじいちゃん達から話を聞いて、母はお父さんとヨリを戻す決意をしたそうです。
家族で暮らしたがっていると言ったかな?未だ記憶が出てこないけど何かの拍子にそう言ったのかもしれません…?
お父さんと母は同じ職場に就職をしたらしいです。そして私が4歳近い頃にほんの僅かな期間、5人家族として社宅のマンションで生活をしました。
しかし、それもあっという間に破綻してしまいました。両親が致命的な夫婦げんかをしてしまい急に終わってしまったのです。今思えばすぐに破綻するのは明らかでした。
最後の夫婦げんかは私にとって特別な日の真夜中に起きたこと、声と音だけですが実際に聞いてしまったので、今でも忘れられません。
そんな夜が明けて、その日の昼過ぎに知らないおじさん=養父と初めて会い、そのまま新5人生活が始まりました。
お父さんの生死は不明、養父はすでに亡くなっています。
ボンボン育ちで酒癖の悪いお父さん
私には優しいお父さん
私のお父さんは私にとっては常に優しくて、いつもどこに行くにも一緒に連れて行ってくれて、常に私優先で、毎日抱っこや肩車をしてくれる本当に優しいお父さんでした。
児童養護施設では孤独で寂しくて夜眠れず泣いてぐずった記憶が何回分かあります。寮母さんもお姉さんお兄さんもみんな優しく励ましてくれて悪い生活ではありませんでした。今でも感謝をしていますが、とにかくなんだか寂しかったです。そんな時、お父さんと祖父母は私を迎えに来てくれて、その後何不自由なく生活させてくれ、様々なものを与えてくれた神様のような光の存在だったので、例えお父さんがどんな悪人であったとしても、私にとって永遠に優しい人間なのです。
母と姉兄の3人と合流する前(3歳過ぎ4歳前)に、お父さんの運転する車で夢の国に連れて行ってもらった記憶があり、今でも大事な思い出になっています。シンデレラ城のライティングの不気味さと花火の爆音に怯えてギャン泣きでした(^_^;)
ボンボン育ちのお父さん
私にはとても優しいお父さんでしたが、家族で暮らし始めても仕事はせずプラプラしていました。
母曰く、母は毎日のように会社からお父さんが真面目に仕事へ来ない事を注意を受けていたようです。同じ職場に就職したから仕方ないけど気まずかった。だけど社宅のためにも、我慢してクビにならない限りはと思って仕事を続けたそうです。
そもそもお父さんの家はリゾート開発などで成功している資産家でした。故にお父さんのお金の感覚がバグっていたというのはあったかもしれません。お父さんはまともに仕事をした事もないようでした。
酒癖が悪すぎるお父さん
お酒を飲むとお父さんと母はご近所迷惑じゃないかと思うような夫婦げんかをよくしていました。二人とも売り言葉に買い言葉で、すぐ怒鳴り合いの取っ組み合いの激しいケンカをしてました。
姉はすごく気の強い性格です。そしてお父さん(と言うか母の周辺の男性全員)を敵視しており、母を庇うのでよく夫婦げんかに巻き込まれていました(という印象)。兄も子供心に仲良くしてほしい願いがあって、やめてと仲裁に入ろうとして巻き込まれて大泣きしていました(という印象)。
そういうシーンを含め私から見て、お父さんは姉兄の二人を大事に思っていなかった気がしてなりません。そういうのも母は許せなかっただろうし、夫婦げんかの原因の一因だったのかなと思います。
私は姉兄に「あっちの部屋にいなさい」と隔離されたので夫婦げんかのフィールドには居ることはほとんどありませんでした。でもやっぱりケンカによい感情などありませんでした。
4歳の誕生日会、突然のお別れ
私からすると突然始まったお父さん、母、姉、兄との生活ですが、終わりも突然でした。
私が4歳になった日、お誕生日パーティーをしてくれました。
メンバーは私が懐いているお父さんのお友達のおじさん1人、両親が留守する時に子守をしてくれた(ご近所さん?)おばさん夫婦2組、私たち家族の計10人でした。プレゼントも貰いました。
その日の夜は嬉しすぎて、なかなか眠れませんでした。
3歳過ぎ4歳までの期間に起きた嬉しい事
・家族が揃ったこと
・家族で暮らせるようになったこと
・お誕生日会を開いてくれたこと
興奮して眠れない真夜中、お父さんと母の夫婦げんかが聞こえてきました。割と聞き慣れていたのでじっと我慢していたのですが、いつもより激しく物が飛んで割れる音と殴り合っているような音がしてました。当時はただ音に恐怖して震えてました。隣に寝ている姉も兄もぐっすりで起きそうになく…一人で不安でした。
お父さんの荒々しい声が子ども部屋に近づき、母の声や物音も近づく。今度は子ども部屋の前で騒ぎをはじめる。すぐそこで大人が怒鳴りあっている。子どもが起きていると怒られるからと布団の中で寝なきゃ寝なきゃと思いました。だけど恐怖の方が上で、寝れる訳がありません。布団の中で声だけは抑えなきゃと声を出さずに、色々な思いが混乱してぐしゃぐしゃに泣いて震えました。
お父さんが「あやかは俺が連れて行く」、母は「絶対渡さない」というやり取りの後、また怒鳴りあっていました。恐ろしく鈍い重たい音がボクンと一回したあと、お父さんの一言(なんて言ったか覚えていない)、玄関が勢いよく閉まった音があり、その後母のすすり泣く声が聞こえました。
気付いたら朝になっていました。
ギャンブル依存症になった養父
お父さんと交代で養父と暮らし始める
お父さんが出て行った日の夜が明けて、いつの間にか眠っていて目が覚めたら朝でした。
姉も兄もいつも起こしてくれるのにこの日は違い、すでに部屋に居ませんでした。
リビングに行くと、泣いている母と、励ましてる様子の姉、緊張感のない兄がニコニコテレビの前で座っていました。母は俯いて泣きっぱなし、姉が代わりにおはようと言ってくれました。兄はもしかして慰めるために道化を演じていたのかも。
何故だか元気に返事をしにくくて、子どもなりに今は大人しくしようと思いました。昨日の夜のことは言い出せず、黙っていました。4歳でもそんな空気じゃない事くらい分かるほど異様な暗い空気でした。
今もまだ家族の誰にもあの時起きてたこと、聞いてたことは言っていません。夫にも言ってません。
泣いていた母が「ごめんね、もうお父さんと暮らせないから」と顔を上げた時、片目の周りが真っ青になっているのを見ました。すごい色だったのですごく驚きました。何故?とまず思って、次にあの音と関係しているのは予測がついて。あの目の周りの色のインパクトがすごくて、あの母の目だけはずっと忘れられません。
姉が母からメモを受け取って、渋々な様子で電話をしはじめました。
母が兄に何か言っていて、それを聞いて兄は大喜びしているみたいでした。
姉が電話している間に母が立ち上がって、トーストを作ってくれました。
姉の電話の後、みんなでバタートーストだけで朝食を済ませました。
昼過ぎに見知らぬ男性が車で来ました。
姉は不機嫌そうに、男性とちょっと距離を取るように母にしっかりくっついて睨むように見ていて、その様子を見て私はこの男の人、怖い人なのか?と勝手に考えていました。急なことにどうしていいかわからないから、母のもっと後ろで離れてポツンと見てました。
兄はお父さん!と大喜びして、早速懐いてるようでした。というか、兄はこのおじさんを知っているんだなという風に見えました。まあ兄にとってお父さんなら、覚えていたらそうなりますよね。
見知らぬ男性は久しぶり、大きくなった、大丈夫か?と3人に声を掛けていて、最後に「こんにちは、はじめまして」と私に優しく声を掛けてくれました。
姉と兄はもしかしたら朝、母から説明を受けて誰が来るか知っていたのかもしれません。
初対面の挨拶の後、何も持たずにそのまま男性の車に乗って、すかいらーくでお昼を食べました。すかいらーくはよく通りかかって行ってみたいと思っていたのですが、行けたことのないお店だったので初めて行けて嬉しかったです。私はごはんの間、男性から色々面白おかしくおどけたような話を聞かされて、すっかり警戒を解かれていました。
すかいらーくに行った日から、家に戻る事なくとある場所のビジネスホテルに何日間かみんなで泊まりました。
男性もホテルによく来ていたので、5人で仮住まいという形だったんだと思います。
その後、ビジネスホテルからそう遠くない場所に男性がアパートを借りてくれて、男性との新5人家族生活が始まりました。
時期は不明ですが、母は正式にお父さんとの離婚の手続きをはじめており(お父さんと二回目の離婚らしい)、小学校に上がる前までに親権は母になります。苗字が変わり、男性が私の養父となりました。以後、養父と呼びます。
早速お金の問題で
これからは男性の事を『養父』と書きます。
アパートに引っ越して以降、養父のいない時間に、母からお父さんと呼びなさいと何度も言われました。でも抵抗がありお父さんと呼べずにいました。養父は「呼べる時が来たらでいいよ」と言ってくれました。母にはお父さんと呼べと言われるのに、どうしてもお父さんと呼べないのでテレビで聞いた『チャン』と呼んで誤魔化しました。
新5人生活は初めから怪しい雲行きでした。
夕方になると父が仕事から帰ってきて夕食をみんなで摂ります。その後、夫婦げんかか、母がお父さん関連をネタに私を怒鳴りつけるかのどちらかがほぼ毎日となりました。
夫婦げんかの原因は以前からある父の借金が原因みたいでした。ケンカが始まると、やっぱりお父さんの時と同じみたいに暴力があり、家族全員で騒いでました。殴る蹴るを見たりされるのはかなり堪えました。内心、おじいちゃん達と居たらこんな風にならなかったのにと思っても、簡単には口に出来ませんでした。
両親のケンカにならない日は母の怒りが私に向きました。「お前はおばあちゃんに顔が似ているから」から始まり、「お父さんのせいで人生をダメにされた」の類で責められ、「どっか行ってしまえ」「産まなきゃよかった」と言われていました。
ケンカが起きても起きなくても、私にとってはどちらも地獄でした。
本当に辛くて、ついおじいちゃん達の家に行きたいと泣いてしまうことがあり、そうすると母はさらに怒って、タウンページを開いてどの児童養護施設に行きたいか聞いてきました。その場にいる事が辛くて、適当に「ここでいい」と指差すと更に怒り、身体をゆすられたり、頭や尻、太もも、時に頬を叩かれて、正座を何時間も強制させられました。行きたい場所を示しても怒られる、例え施設は嫌だと言っても永遠にお父さんの事で責められる。どの答えを選んでも正解はないと幼くても理解していました。絶望でした。
この時はお昼は優しい母なので、母のことは嫌いじゃなかったです。でも夜になると豹変するので、その度に絶望してその度にお父さんが迎えにきてくれないかと願っていました。
他の家族は時々母を諌めてくれたけど、ほぼ意味がなく孤立無援でした。
養父、ギャンブル依存症の兆し
養父は自営業です。母と離婚後に糖尿病になったそうです。私の目からは、お酒は飲まないけど、食べる事が好きで食べたいと思うと気持ちを我慢出来ない人。未就学児みたいにわがままな人と映っていました。
母曰く、養父は糖尿病のせいであらゆることに制限が増えて、思い通りにならない事にイライラするようになったと。前に離婚した時より悪い方向に向かっていたそうです。
そして元々競馬と競艇が好きだったそうですが、再婚したら以前よりも大きな金額を賭けるほど、金銭的感覚が壊れてしまっていたそうです。
借金はあり得ない金額でどんどん膨らんでいったようでした。
養父はお酒は全く飲みませんが、暮らし始めてすぐに、夜は家族全員に当たり散らしたりして尋常じゃない騒ぎを毎日と言って良いほど起こしました。
母もすでにアルコール依存症の兆しがあり、夕食作りの時間にお酒を飲んで、夕食後に酔っているし、性格も似たもの同士なので養父と借金の話題をきっかけにほぼ毎日夫婦げんかをしていました。
ここまでで私の思い、考察、色々
今回はお父さん、養父に関して書かせていただきます。親の立場におられる方からは非難されそうですが、私の正直な意見を言わせてください。
私のお父さんは酒癖が悪くて、もしかしたらアルコール依存症に片足を突っ込んでいたのかなとも思えます。片足どころか依存症かも。
私に限っては、昼は頻繁に沢や清流釣り、ハイキング、花火大会など地域の催しなどあちこちに連れて行ってくれて、娘をかわいがっていた気持ちは嘘じゃなかったと思います。
まともに働いた経験もなくて、何不自由なく生まれ育ったであろうお父さんの事だから、娘は宇宙人のように理解不能な生き物だったんじゃないかなと思います。時には嫌になって、もういらないと思ったかも。でもおじいちゃん達の力も借りて、お父さんなりの子どもへの愛情表現も示してくれたと思っています。
4歳にも満たない子どもを連れて行くには危なかっただろと思う場所もありましたが、美しい景色や音、見たことのない木々や木の実、鳥、色々教えてくれて見せてくれました。これはねー、こうやって使えるんだよーなんて夫に教えると「田舎育ちってみんなそんなにサバイバル能力高いん?」と言われたりして、そうすると何故かお父さんに連れられたハイキングは無駄じゃなかったんだなぁなんて思ったりします。
私の夫には細かくお父さんの話をしていないのですが、夫から山にある管理釣り場の釣りに行きたいと言われました。川魚を釣りに行くだけなのに思い出したらどうしようとか不安もあったけど、試しに行ってみました。思い出は清流釣りだから管理釣り場とは全然違うけど、竿を投げた時に少し感慨深いものは感じました。母や養父のことを思い出す時の息苦しさがなかったんです、不思議だけど。周囲には子連れのお父さんなんかもいて、35年前の私もあんな風にお父さんを頼もしく思ったかもなと思い見ていました。釣った魚から針を取るのが難しくて、代わりに夫が取ってくれる姿を見て思うものがありました。自分はファザコンかとゾッとしましたが。無意識に自分の父親を追い求めている。それが数年前の出来事で、それから毎年一回は管理釣り場に釣りに行ってます。
お父さんが母、姉、兄に酷い扱いをしたのは正直許せないです。良心ある大人のすることじゃない。少なくとも年齢的にも子どもであった姉と兄にそういう態度を示すのは大きな間違いだと思う。ただ、連れ子だとそういうケースは多いみたいですよね。私も養父には愛されてるなんて感じませんでしたし。
私の幸せの絶頂は優しいおじいちゃん達の思い出と、いつも一緒に連れ歩いてくれたお父さんとの記憶までです。どうしても完璧じゃないお父さんを完璧なように美化してしまうきらいがあります。
お父さんを本気で悪く言えないこと、悪い部分を許してしまう。養父や母はすごく悪く感じるのにお父さんへの評価は甘い。正義とか公平性に欠けた自分の心に少々戸惑います。
お父さんに言いたいこと
施設に居た時、お父さんとおじいちゃんおばあちゃんが迎えに来てくれて初めて温かい普通の生活を送らせてくれて、本当に心が救われました。初めて温かい繋がりを感じて、今思えばあれが家族の絆だったんだろうなぁと感じております。お誕生日会以来、お父さんとは会っていませんが、私のことを思い出す瞬間が35年のうち1秒でもあってくれたらそれだけでいいと思っています。もし直接お話しする機会があったとしてもそれはしない方がお互いの為だとずっと昔から理解しています。遠巻きに無事を確認できたらと思う事はありますけどもそれもしない方が良いのだろうと心に決めております。どのような形でもどうか幸せでいてください。誰かを悲しませないでほしいなとは思います。短い時間でもかわいがってくれて本当にどうもありがとうございました。
養父は一見良い人でした。はじめの頃は会社の社員の人達からも頼られていたようだし、苦労して国家資格も取ったようで真面目で根性のある人と評価されて尊敬もされていたように感じました。
今でもその努力は並のことでないと尊敬します。普段は人当たりの良い人で通ってました。
夜の夫婦げんか以外は、時々養父が母に「お前、あやかにちょっと言い過ぎだぞ」と言ってくれたことがあったのを覚えています。それだけはありがたいと思っています。
でも段々人に嘘をついてまでお金を集めてギャンブルに使ってしまう人になり、とても理解出来ませんでした。私にもはっきりとダメな人とわかってしまったのはなぜだか辛かったです。養父は自分の状況に気付こうともせず省みる事なくどんどん酷くなっていきました。本人からも止めようとか、こんな事もうしないという自責の念も反省も見られず、死ぬまで借金とギャンブルが続きました。止めてもらいたくて私も何回か直接お願いしたり、夫婦げんかに入ってみたりしたのですが暴力で黙らせて解決するのみでした。
今思えばどこかでは間違いに気付いていたのだが、他人に痛いところを突かれて暴力で黙らせて自分を保つしかなかったのかなとも僅かに思えるようになりましたけど、それでも許される事ではないはずと思っています。
私が高校生の時、アルバイト先にまで借金を返してと言いに来る人がいて、すごく困りました。勝手に私のアルバイト代からツケにしてと平然と言う養父にも呆れてました(バイト先がツケを断ってくれた)。
一緒に過ごした思い出と言えば、小学校低学年のことで兄と一緒に競馬場か競艇場に連れて行ってもらった思い出しかありません。思い出話としては人に語るような楽しい思い出でもなくて、ただ興味のない賭場に連れて行かれただけという感想です。毎日のようにお金絡みの話の問題が起きて、土日になるとお金が飛ぶように消えてその度に両親やお金絡みの大人がケンカしてて。私が流れ弾のように殴られたり蹴られたり。養父との良い思い出なんて無いに等しいです。
家に取り立てや元社員が給料を払ってくれと言いにきたり、それが時に傷害事件になったりしました。玄関を壊されて家に侵入されたり、窓ガラスに投石されたり、命の危険も毎日感じていました。両親は都合が悪ければ車でどこかに消えればいいのですが、子どもは置き去りでした。借金取りにも親は出掛けていますと言うしかなく、私はこれが本気で怖かったし、親の勝手さにむかついてます。
養父の親族から私だけは部外者なので家に来るなと言われて、姉兄がお年玉をもらう姿を見て、どれだけ悲しくて傷付いたか。何よりそれについて親のどちらも何も言わずに、ずっと孤独のなか私だけが苦しくて理不尽だと思っていました。
正直に言うと、小学校中学年から両親なんて死ねばいいのにと毎日願っていました。施設に行けばいいと母が言った時は私も施設に居た時の方が数段マシだからそうしたいと本気で思っていました。あんな子どもの時代からいつか差し違えても良いから殺したいと思うほど追い詰められてました。自ら選んだわけじゃない苦しさを終わらせたかったし、それを私のせいと言わんばかりの両親がすごく憎かったんです。
大人になってあの頃の私と同じくらいの小学生を見ると自分が如何に心が真っ黒で異質な子どもだったか思い知ります。
自分の力だけでは何にも変えられなかった立場だったからこそ、養父には(母にも)気付いて欲しかったし助けて欲しかったのに。
養父を恨むというより、母を恨むべきだったのでしょうけど、私はどちらも同じくらい憎みます。本当に最低な大人の見本の一人として心に刻むことにしています。もう同じ時間は返ってこないから、先に進まなければただ虚しい事とわかっているけれど。
子どもにとって必要と思うこと
周りの大人に対して私が「求めていた」事です。逆に、今の私が心掛けていることです。私には子がいないため、子がいる家庭とは接する機会もなく、家庭環境が悪いと疑う子に出会っていないのは幸いなのかもしれません。気付かずにいることが良いこととも思えませんが。私が思った事であり、個人差があると思いますが必要と思う事を挙げていきます。
・いざという時の物理的な逃げ場
親の側にいることが子にとって一番と思い込まずに、児童福祉施設への逃げ込みや保護も周囲から促してほしかった。むしろ親の側にいることが苦痛で、誰か強い大人が間に入って止めてくれないだろうかと思っていた。逃げ場がなく荒れた家の中は安心出来なかった。自分が死ぬか親を殺すか追い詰められていた時期もあったけど逃げ場があって離れてみたら緩和出来たかもしれない。
・弱音を吐けるような心の拠り所
誰もみて見ぬふり、気付いてくれない事への不信感からかわいくない子どもに見える言動はあったと思う。それ故に更に孤立していったようにも感じる。家でこんな事されてると言えるだけでもいいと常々思っていたから。とにかくまず話したい、聞いてほしい。
・味方
SOSを出しても気づかれない、誰も助けてくれない。経済的に自立できないため逃げられなかった。親の言う通り全て私のせいなんだと心から信じて、自分だけ自分で責めてた。一人でも自分を肯定してくれる人がいたら救われただろうと思っている。
・愛情
他の子の話は些細なことでも羨ましいと思っていた。愛情の感じ無い親の側にいなきゃいけない事の方が離れて暮らすより苦痛だった。選べるなら私なら親のいない生活を選んだ。他人の愛情を受け取る事だって選択肢の一つだったはずなのに、日本ではまだ親と居ることが至上だと思われていないだろうか。
・愛情を感じる食事
温かみのある正常な食事は大事。会話のある食卓も大事だと思う。いつ暴力が始まるか緊張感のある食卓は強いストレスだった。苦痛でした。腐った食材、狂った味覚の酔っ払いの料理、不衛生なキッチン。異常だと思っても怒られてしまうからという理由で黙って食べなくてはならず、何度も体調不良になって危険だった。母が酔っていて食事を作らないと養父のために私が食事を作る(小3から)ということにも憤りや、文句を言われれば虚しさを感じていた。
・家族と共有できる思い出
旅行、日々の団らんなど皆が当たり前に楽しそうに話すのが羨ましいと思っていた。一時的にでもそういう時間や思い出があったら救われていただろうと思うから。どんな些細でも一緒に過ごした思い出を作ってあげてほしい。
・最低限養育できるお金
学費を滞納していると教職員に言われて子どもながらに申し訳なさと恥ずかしさでいっぱいになった。私の学資貯金(祖父母からの贈与)はギャンブルと酒に消え、自由な進学を阻まれた事で今もコンプがあるし、仕事探しには困っていることだってある。
・暴力、虐待が行なわれない環境
親の気分次第で精神的に追い詰める事、肉体的に殴る蹴る、家事をしなかったり、家事のほとんどを子に任せて出来を叱責する、不都合な時に家にいない事、学校で必要な物を最低限揃えない、食費として金だけ渡して済ます、も経験上暴力と虐待です。私は親の気分でという予知不能なところが精神的にきてた。
・親の迷惑行為を見ることのない環境
親の勝手や迷惑行為で、子が他人に対して過度に申し訳ないと思わせられたり萎縮させるのも精神的な虐待だと思ってます。実例だと、お金だけ渡されて美容室に行かされ、私も分からないからお任せカットで帰ってきたら親が美容室にとんでもないクレーム電話をしだした。私としては誰も悪くないし店員さんには申し訳なく思って自分を責めたし責任を感じたし心が痛かったです。そうなるならしっかり親が指示なりをすれば良いのにと思ったし、親の自分勝手さと、わざとクレーム入れるためにこんな事させたんじゃないかと思うほどの迷惑行為に今でもモヤっとします。いつも親のキチ⚪︎イ行為に後ろで罪悪感と責任を感じて居心地悪くしんどかったです。
・暴力を見ない環境
私に直接殴る蹴るというのはもちろんだけど、両親が互いに暴力を振るう姿を見せることもすごく嫌でした。子どもへの精神的暴力であり虐待に違い無いと思います。
・親が勝手に期待し(時に絶望し)叱責しない
突然、本人がしたいとも言っていないのに勝手に習い事をさせて才能が無いとか、上達が無いとなじったりする。または親の判断で習い事を強要するのに金銭的理由で突然止めさせて振り回す。これも期待に応えようとして疲れたり、自信をへし折られたり戸惑わされたり、正常な精神を保つのが難しかった。
・子どもを大人の言い訳にしない親
離婚をしないのはあなたの為、あなたがx歳になるまで離婚を我慢したなどの発言。結婚したのも出産したのも、離婚したのも大人の勝手な事情。「お前なんて産まなければ」発言は親が作り、産む判断があって子が存在しているだけであり、人生の選択に後悔するとしても子どもたちを理由にすることはできないし、子どもに言うのは筋違い。
・子どもでも福祉情報を受け取れる環境
異常な家庭環境や精神状態にいるのに子どもが自分から他者に救いを求めたり、自分から福祉情報を入手するのは無理でした。そもそも助けてくれるかもしれない場所があるとか想像も出来ないくらい狭い世界に取り残されている。もっとたくさんの人からの発信があったなら、と。助けてもらえそうな場所、手段が自分にもある可能性を知れるチャンスや環境が欲しかったです。
・外部圧力と強引な引き離し
これは本当に個人差がある難しい問題だと思うのですが、私は常に親から強引にでも引き離されたかったです。それしか完全で安全な逃げ方がないと思ってました。施設の生活の思い出があって抵抗がなかったからこそそう思ったのかもしれませんが、誰か強い大人が現れて無理矢理にでも私を施設に送ってくれないかなと願っていました。家族が居ない淋しさ含む様々なデメリットを天秤に架けても、親がいない方がメリットと思える子はいると思います。
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次回の記事は【アルコール依存症の母と姉と兄】について整理したいと思っています。
それから、子の意見無しに片親が親権を獲得してしまうこと、自立できない年頃の虐待の苦しみ、両親が依存症になったのは何故だと思うか子の私見、なども思っている事があるのでいつか一個ずつ書いていきたいと思ってます。
整理するのに時間がかかるかもしれませんが、更新した際はよろしくお願いします。
毒々しい文章を最後までお読みいただきありがとうございましたm(__)m