想像していなかった未来。自分はこの言葉が大好きだ。
(でいの興味深い深層心理 episode⑤)
今回のテーマは
「想像していなかった未来。自分はこの言葉が大好きだ。」
というお話です。
今日の午前中、あるSNSマーケティングの副業指導をされている東京の女性とLINE電話をする機会がありました。
そこで様々過去のことを語り内省していく中で気づいたことをエッセイにしました。
私は今は京都大学の学生で、合格までには高校3年間と1年間の浪人生活を送っていた。
当時は自分は正しいことをしていると感じて疑わなかった。
「第1志望はぶらさない」ことだって盲目的に正義だと信じ込んでいたし、巨額の投資をしてくれる親のために必死に勉強することも当たり前だと改めて考える機会すらなかった。
始まってから合格するまで、1日たりとも。往復2時間かけて予備校に行って10時間以上勉強しなかった日はないし、受験生活通して4000時間以上は没頭して勉強した。
合格できた自分は間違っていることなんてしてないと思ってた。
ただ、京大に入って気が付いたことは、
「はいようこそー。じゃあ、ここから何をする?」
という問いに苦しむ自分だった。
私はこの時、1つの恐ろしい事実に体が震えあがった。
人間が本当に恐怖を感じるのは
「今あなたが身を投じているものが【間違っているかもしれない】とふと考えた時」
だと。
受験は社会一般的に見て【間違っては】いないと考えていた。
そんな【誰かの決めた】価値観に自分はすがって安心して、
努力する自分はカッコいいなんていうある種空虚な自分に酔っていた。
「本当に何しても良いよ」という自由は実は苦しいもの。
何が「正しくて」何が「間違っていて」。
それすらも、そもそも世の中にそんな正解・不正解があるのかすらも教えてくれない。
何をしても自分の責任、どう使おうとも結果はすべて自分に降りかかってくる。
いつ、自分の中に「間違っているかも」という身の毛もよだつ疑念が生まれてくるかも分からない。
自分はその「なにか」を生まれてから遅くも19年後に初めて探しはじめた。
思えばそんな「なにか」にしたがって自分の人生を決めてきた瞬間なんてなかったのに。
みんなが当たり前にやっているからアルバイトを自分もやってみたり、
単位は取ったほうが良いものだからしっかり提出物もだして取ってみたり、
恋愛も若いころにしたほうが良いらしいから、好きな気持ちよりも社会的に成功してそうという名声を優先してお付き合いをしてみたり、
真面目に頑張る人はえらい。なんてよく言われる言葉があるから、しんどいことがあっても惰性で部活動に行ってみたり、
そんなことをすべてやってきた。
でも本当に大事なものは全然見つけられていなかった。
これまでやってきたことはすべて「誰かが」望んだもの。
「自分が」望んだもの、は何か1つでもやってきたのか?
本当に自分の人生を、【自分の】価値観で選択してきたことが1度でもあったか?
当然、就活は自分がどこにいるか分からないくらい辛いものになった。
【他の誰でもない、「あなたは」どう生きたいですか?】
就活の全てが詰まったこの問いに、私は一生答えることができなかった。
それも当然だろう、20数年間そんな意思で生きてこなかったのだから。
偏差値や京大生という、それ自体には何の価値もないけれどなぜか価値あるものとして人々は信じて疑わないものを盾にして、自分の内面とは何も対話してこなかったのだから。
自我なし共感八方美人マシーンでしかなかったのだから。
そんな状態で生きている自分は本当にロボットのようで、体はやらないと「いけない」ことをやっているのに頭ではどこかでブレーキをかけているような状態だった。
そしてそんな空虚な、せっかく与えられた人生に意味をもたらせていない自分は案の定、神様から罰を受けることになった。
「命に関わる」重傷だった。神様は死ぬ寸前まで脅しを施してきた。
「いい加減自分の為に生きなよ。」
そう神様から言われている気がした。
意味なんてないけどね。
けど、人は意味のない苦しみには耐えられないんだ。
自分はそういう人生を進もうと覚悟を決めた。
社会的な地位とか名声じゃなくて、そんな「誰かが決めた」人生じゃなくて、
自分の心のどこかが輝いて反応してくる、そんな人生の選択肢を取り続けようと決めた。
そして実際に、そんな人生を歩む行動を1歩取り始めることができた。
想像していなかった未来。
自分はこの言葉が大好きだ。
何か高い目標に向かって本気で努力し、そこに生じる様々な辛い出来事や葛藤、
自分自身の中の相剋の過程を経て、気がつけば自分の中に新たな感情が生まれている。
世界を見る新たな視点を経ている。予想外のとんでもない自分になっている。
そんな経験、どこかでしたことはありませんか?
京大に入るまで両親から+1年のチャンスをもらい努力し続け結果を勝ち取った時に自分が感動したのは、「京大合格」というものじゃなくて、
その過程で得た世界を見る新たな視点や価値観の広がりを得られたこと、
そしてその1年を費やさなければ出会えなかったに違いないかけがえのない仲間であった。
自分はずっとそれが欲しかったから動き続けてきた。
だから歩み続けられた。
人生で初めて身を投じるスポーツで死ぬほどもがき苦しみ続けた「先」に、
絶対面白い何かが待ってると信じて続けてきた。
だから、その過程で起こったことなんて、良いことも、悪いことも全て、
【その先にどんな人生が待っているのかな?】
【どんな自分になっていくのかな?】
を知るための手段すぎない。
そんなことを自分は人生を生きる指針にしているから、
この言葉は大好きだ。
実際、京大に入ってからは、当初考えていたような人生よりもむしろ、
沢山考え、沢山悩み、あるはずのない正解を自分がどこにいるか分からなくなるまで探す時間の方が長かった。
でもだからこそ、自分の心のどこかが輝いて反応してくる、そんな人生の選択肢を取り続けようと決めることができた。
でもだからこそ、生死をさまよう経験をすることができて、自分の世界観を変えることができた。
そんな思いもよらない人生を生きれていること、想像もしなかったような自分になれていることが本当に最高だし幸せなことだ。
私の中では、この「思いもよらない」という言葉を「人生の意味が増える、最大化される」と定義している。
思いもよらないほうが人生の見える意味は増えるよね!
予想もしていない現実は自分の人生の意味を豊かにしてくれるよね!
そんな人生は最高にファンタスティックで、楽しみで仕方がない!!
神様本当にありがとうございます。
私はこれからも、そんな人生を生きていく覚悟です。
長々とお付き合いいただきありがとうございました!!
本当に思いもよらない人生が続いています。
このnoteと出逢わせていただいたことだって、本当に偶然が重なったこと。
これからもどうぞ、よろしくお願いいたします。
この記事が、出逢った皆さんの人生に少しでも、1ミリでもプラスになることを願っております。
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