森茉莉への憧憬

憧れのひとは?と聞かれたら、私は森茉莉と答える。
森茉莉は、森鴎外の娘で生まれながらのお嬢様にして、晩年は貧乏暮らしの末孤独死という形でその生涯を終えた人間である。

これだけを聞くと、なんだか森茉莉=憧れのひとという等式は成り立たないように感じられるかもしれないが、それは森茉莉が不思議な魅力を放つ作家であることをしらないからだろう。

有名なエピソードに、黒柳徹子が彼女の部屋に訪れた際、ボロボロ貧乏アパートの中にはゴキブリがさっと走り、物が散乱した様で、その中で彼女は森茉莉からたった一本の瓶コーラでもてなされ、2人で分け合ったというのがある。がらんどうの冷蔵庫には、たった一本ビンのコーラがあっただけだから、家に招いたというのにそれだけのもてなししかできなかったらしい。

このエピソードからも、森茉莉の魅力は十分に伝わってくると、私は思う。森茉莉は美しい物好きだから、ボロアパートの床には、さぞ美しい物や彼女の趣味の物が乱雑に放り投げられていたのだろう。整頓をしようなんて、念頭にも置いたことがなく、ただただ美しいものとゴミが一緒くたに、ポンポン放置されていたのかもしれない。

冷蔵庫には、実用的な食材なんてなく、嗜好品のコカ・コーラのみ。まるで生活の実態がない、おもちゃ箱のような世界観だと思う。

戦後、没落しお嬢様としての生活が成り立たなくなった後も、彼女はどうしても庶民的に生きることができず、生粋のお嬢様気質のまま、ボロアパートで歪な貧乏暮らしを行っていたのだと思う。そういうのって、退廃的ですごく人を魅了する、憧れさせる生き方なんじゃないかと思う。

一生地に足をつけるとか、そんな発想は浮かばず、父との美しい記憶や森鴎外が自分の父であるという誇りとかいう、飯のタネにならないふわふわとした何かだけを頼りに生きていたのだと思うと、そのあまりの生活の実体のなさと浮世離れした感覚に圧倒される。

私の学生アパートも、4畳半と狭く、セルフネグレクトを疑われるぐらいゴミが散乱しているが、私のごみ部屋には哲学や美がない。森茉莉の乱雑さには美とかお嬢様の生まれの誇りとか、そういう彼女なりのスタイルが表れているが、一方私の乱雑さには美もなければ誇りもなく、ただ染みついた貧乏人の怠惰さと無趣味さゆえの無秩序と無教養が露呈するのみである。

森茉莉と私は対照的な人間だが、物にあふれた孤独で汚い貧乏アパート暮らしだからこそ、同じ境遇と違う世界観で生きる森茉莉という人間に、私は憧憬の念を抱くのだと思う。


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