修験寺院の通称・呼称について
第1回の投稿で本山派修験寺院大徳院、第2回は、本山派修験寺院宝積坊の活動・寺院運営を検討した。
いずれも京都の本山派総本山聖護院を頂点する修験寺院である。住職が寺院名を称する、山伏の装束を着用、年行事職・僧位など地位を明示するためには、全て聖護院から補任・免許を受けるの必須になる。
山伏の装束着用・年行事職・僧位などの地位に関しては、今回の主題とは異なるので取り扱わない。
今回は、修験寺院の住職が寺院名を称するための過程を書いていく。
(1)寺院名を称するための過程
修験寺院の住職が地域で活動、寺院の内外に存在を示すため寺院名を決定する必要がある。今回は、本山派の例を挙げて説明する。その際、聖護院から、「坊号免許」、「院号免許」を免許料を納付した上で受給しなければならない。
私の研究テーマである笹井観音堂の配下寺院の所蔵文書を例に挙げると、住職達は、上洛して聖護院に免許申請した際、「坊号免許」・「院号免許」及び各種装束免許を一括で受給していることが殆どである。
寺院名関連の免許で「院号免許」は「坊号免許」より格上である。冒頭に記述した大徳院も「院号免許」を受給したからである。宝積坊も江戸期に入ってから「院号免許」を受給して宝積院を称した。
寺号免許受給後における住職の呼称は、「坊号また院号+法名」となり対外的な文書で署名したり呼称される。上記の寺院の住職を例とするなら、大徳院周応、宝積院源昌といった形になる。
修験寺院の歴代住職の墓石記銘を見ると、ほとんどの場合、僧位・住職名で刻まれているのが確認できる。
(2)「坊号・院号」免許は次代へ継承されるか
次に、寺院名の免許は歴代で継承されるかである。それは否である。修験寺院の所蔵文書で点数が多いのが「坊号免許」・「院号免許」である。理由としては、寺号免許は現住職が次代に継承した場合、新住職に就任した者は聖護院に改めて、免許申請をしなければならないからである。その時、僧位・各装束免許も一括で再度、受給した。江戸期に、幕府・藩から「宗門改」が毎年実施されるため、帰属先における職位(年行事職、役僧など)・僧位・各種免許・寺院縁起を住職は記述して寺社奉行宛に提出が義務付けられた。その時、同行寺院(先達・年行事職寺院の配下寺院)は、上官寺院から従属証明を申請の上、受給する場合もあった。また、本山派内部でも、上官寺院と補佐する役僧に対して由緒書や「山号・寺号改め」の提出を求められた。各部署からの提出命令に備える、対外明示証文として免許状は、位置づけられるので大切に保管された。万一、紛失しても再度、免許料を聖護院へ納付すれば発給された。
(3)多様だった「坊号」・「院号」
ここまで、寺院名の免許の取得過程と継承の是非を書いた。聖護院から寺号免許を受給して内外に存在を示すための必須の書状である。
また、住職が「坊号」または「院号」を称しても次代には継承されないのも確認した。
寺号免許が住職間で継承されないということは、個人で免許状を受給する形式を整えれば自由に寺院名を決定できた。
ここ例を挙げるのは、大徳院や写真で紹介した高萩院と懇意であった本山派修験寺院大宮寺である。大宮寺は、聖護院発給の免許状、笹井観音堂の配下一覧状に表記されるが、「坊号免許」・「院号免許」を聖護院から受給している。
高萩院教寛と懇意であった大宮寺良純の孫にあたる明純の免許状を例に挙げる。明純は「坊号」は梅本坊、「院号」は清浄院を称した。ただし。通称的に使用された大宮寺の寺号で免許状を受給しているのもあり、一定ではない。
さらに、大宮寺の免許状を見ていくと、坊号では行賢坊、行圓坊、院号では多門院、大宝院を称した住職もおり、称号は多様である。
加えて、他例を挙げると本山派先達修験寺院十玉院の配下寺院で埼玉県所沢市安松の本山派修験寺院玉宝院も多様な「坊号」・「院号」を称した。この寺院は、玉宝院を称する住職が多かったので文書も「玉宝院文書」と称される。十玉院の配下寺院の中では、埼玉県富士見市水子の本山派修験寺院般若院と並んで文書史料を多く所蔵している。
玉宝院は、坊号は玉宝坊・真浄坊、院号は、玉寿院・常住院・寿宝院を称した住職が存在した。
今回は、修験寺院の寺院名について触れた。現在、調査対象寺院はもちろんのこと、事例を探すため多くの修験寺院の所蔵文書に当たったり、実際に現物の古文書を調査して整理・検討している。古文書を整理したら、寺院の宛先や署名で同じ寺院でも「坊号」・「院号」が多様に存在しており、興味深いものがあった。
総本山聖護院から免許状を受給するのが必須としても寺院名は住職が決定しており、それが次代には継承されず、再度申請の上、称することになっていたのが、多様性の理由である。
修験寺院の場合、明治期の神仏分離令・修験道禁止令、廃仏毀釈などで史料が滅失・損失した経緯もあり、残りにくいという難点がある。修験寺院名だけが残り、史料が存在しないのも多々存在する。
その困難の中でも末裔の方が守り通したこと、地域連携によって史料が現存しているのもまた、事実であり誠ありがたいことなのである。現地のフィールドワークと史料の融合は、修験寺院調査で事実の隙間、往事の様子を知るために必須なのは他の調査と同じというのも記しておく。
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