修験寺院の祭祀執行事例の紹介
はじめに
現代において地域の祭りは一大イベントである。寺院、神社が主催元になっているのも多く賑わいを見せる。
地域の祭り執行は、疫病退散・五穀豊穣・商売繁盛・家内安全などの祈願目的もあり、山伏が導師を務めた事例もある。祭りにおける歌舞音曲は、祓いの意味がある。加えて、修験寺院において俳句・詩歌の会が開かれたのも娯楽に加えて宗教行為の意味合いが強かった。
本稿では、修験寺院調査で得られた山伏が導師を務めた祭祀事例を紹介するのをテーマとする。
(1)修験寺院の祭祀執行
筆者が修験寺院調査では寺院運営の様子、基本業務となる加持祈祷と密接な宗教行事の情報を得ることも多い。フィールドワーク、史料実見で山伏の医学製薬行為の実践を講演会で報告して研究の結実に繋がった。
本稿で扱う修験寺院は、埼玉県秩父市の本山派修験寺院今宮坊、同県富士見市の本山派修験寺院般若院、同県所沢市の本山派修験寺院大学院、本山派修験寺院竜蔵院、同県狭山市の本山派修験寺院宮本坊である。
①本山派修験寺院今宮坊
本山派修験寺院今宮坊は、本山派先達修験寺院山本坊配下寺院で正年行事職を務めた。
山本坊の役僧を務めた本山派修験寺院福寿寺が所蔵する、明和6年(1769)作成の「山本坊配下・年行事・同行覚」によると今宮坊は、最大の霞を有しており山伏39人を支配した。具体的な霞範囲は現在の西秩父一帯である。境内地の大宮郷を中心に皆野・横瀬・小鹿野・上吉田が記述される。
今宮坊は、市内の秩父神社との「水分神事」が現在でも執行されている。今宮坊住職だった塩谷家が宮司を務める今宮神社の説明によると「秩父神社でおこなわれる御田植神事に先立ち、武甲山からの水源をなす龍神池の水神を迎え、授与する神事。秩父神社から神職、伶人、神部(農民の代表者)たちからなる御神幸行列が当社を訪れ、「水乞い」を行う。当社の宮司から秩父神社の神職に、当社の龍神の御分霊を宿した『水麻(みずぬさ)』(八大龍王神の御神徳)として授ける。御神幸行列は、この水麻を奉斎して秩父神社に持ち帰る」とあり豊かな実りを祈る神事となる。
今宮神社宮司塩谷崇之先生から「今宮坊廣純が秩父神社宮司を兼任していた」、「秩父妙見の発祥地は神門寺(今宮坊配下寺院)」とのご教示をいただいた。
秩父神社は丹党武士で秩父市伏栗の中村行郷、秩父市岩田の岩田六郎が造営にあたるなど在地武士からの信仰が厚かった。
秩父神社の神職の方からは「参道では流鏑馬が執行され、井上家が代々、馬を用意した」とご教示いただいた。
今宮坊と秩父神社の祭祀を通じた関係は、地域の宗教者同士の連帯と宗教行事の継承を今に伝える事例になる。
②本山派修験寺院般若院
本山派修験寺院般若院は、本山派先達修験寺院十玉院配下寺院である。現在は、水宮神社として住職を務めた水宮家が宮司を務めている。
史料は「水宮三衛家文書」として伝わる。地域に住む人々から依頼を受けてお札授与、加持祈祷を執行した史料が含まれるほか、加持祈祷の次第書も多数存在する。
住職の般若院了諦は、上官の十玉院の大峯山入峰修行に同行して褒美を貰う、別当社を任されるなど関係が密接であった。
以前、宮司水宮亘先生から社殿内に安置される「役行者像」・「神輿」を実見させていただいた。神輿は、「祭りの出発点が神社で昭和の終わりまで地域の祭りで担がれていた」とご教示いただいた。
③本山派修験寺院大学院
本山派修験寺院大学院は、般若院と同じく十玉院配下寺院である。住職の金子家が天神社宮司を務める。
宮司の金子先生より「母屋の2階で神楽を舞っていた」とご教示をいただいた。大学院は同僚の本山派修験寺院玉宝院が所蔵する「玉宝院文書」で登場する以外、十玉院の史料では登場しない。ご教示で得られた祭祀関連の情報は山伏の活動を知る上で貴重である。
④本山派修験寺院竜蔵院
本山派修験寺院竜蔵院は、本山派先達修験寺院笹井観音堂配下寺院である。住職の竜蔵院義鳳が笹井観音堂役僧を務め上官とは密接な関係を築いた。
竜蔵院住職中家が糀谷八幡宮の宮司を務め中義之先生からは、多くのご教示をいただいた。
地域の旦那衆から時代を通じて厚い信仰を得た修験寺院であるのは多くの史料の存在から確認できる。
今宮神社と同様、修験寺院以来の神事を継承している。養蚕、五穀豊穣を祈願する目的の「流鏑馬神事」が例大祭で現在も執行される。
筆者も中先生から神事に掛ける情熱を直接聞いている、実際に見学して修験寺院以来の神事に触れられることに感激を覚えた。
⑤本山派修験寺院宮本院
本山派修験寺院宮本院は、竜蔵院と同じく笹井観音堂配下寺院である。住職を務めた宮本家が別当社だった柏原白鬚神社の宮司を務める。また、広瀬神社の兼任宮司である。
宮司の宮本先生から広瀬地域における神仏分離の実態をご教示いただいた。ご教示内容から同地に所在した本山派修験寺院正覚院を検討するのに必要な情報を得られ、正覚院境内地の確定にも繋がった。
宮本院は、柏原地区における獅子舞の導師を務めた。史料も名主で柏原鋳物師増田家が所蔵する史料で寺社奉行から獅子舞執行の許可を得るための文書が存在する。
文書1 安政6年(1859) 寺社役所宛 宮本院兼帯光学院・名主増田熊太郎・長谷川六之丞「獅子舞興行につき願書」
「一當村鎮守白髭大明神の社地において、来る二九日、例年実施の祭礼である木摺獅子興行をしたいので願書を提出いたします。右の願い通りに許可をいただければありがたき幸せに存じます。
柏原村
安政六年己未年九月 白髭神社別當
宮本院兼帯光學院
組頭栄次郎
同惣右衛門
名主 増田熊太郎
同長谷川六之丞
御役所」
同文書は、宮本院住職が兼ねる本山派修験寺院光学院と名主2名が獅子舞執行を寺社奉行所へ許可を申請した内容である。
狭山市教育委員会刊行『柏原獅子舞・柏原の祇園囃子 信立寺おめいこう・諏訪神社なすとりかえ』で文書が掲載される。獅子舞の練習が宮本院の土間で実施されるほか、当日の獅子舞執行次第も記述されている。獅子舞執行目的は五穀豊穣・疫病退散・雨乞いである。
柏原白髭神社は、吉田氏、増田氏と同じ柏原鋳物師神田氏・斎藤氏が奉納した御正体を所蔵する。記銘年代が天正18年(1590)・同19年(1591)・慶長16年(1611)とあり、中世まで遡って宮本院が地域の人々から信仰を受けたのが確認できる。御正体については、狭山市のウェブページで記銘の翻刻が掲載される。
史料1 「柏原白髭神社所蔵の柏原鋳物師鋳造の御正体」(狭山市のホームページ参照)
大日本国武州高麗郡柏原村住施主 神田市右衛門
于時天正十八年庚寅十二月廿一日 大工神田宮内
大日本国武州高麗郡柏原之村住吉田太郎左衛門
于時天正十八年庚寅十二月吉日 大工神田宮内
奉納武州高麗郡柏原村之住神田半十郎
于時天正十九年辛卯四月吉日 施主敬白
武州高麗郡柏原施主 神田図書助
天正十九年辛卯九月吉日 同大九
奉納武州高麗郡柏原之村斎藤二郎兵衛寄進也
慶長十六年辛亥二月十五日 敬白
宮本院が導師を務めた獅子舞は、地域の人々からの山伏への信頼と信仰が基礎となり、御正体の存在によって中世から築かれた関係だと言える。
さいごに
今回は、修験寺院の祭祀執行についてフィールドワーク、史料で得られたことを紹介した。山伏が執行した加持祈祷の内容は護摩を修すに留まらず、祭祀によっても完成した。加持祈祷の執行がより大きく顕れたのが地域での祭祀であり運営の確立と浸透を確認する場にもなったと言えよう。日常的には歌会、医療製薬行為によって加持祈祷の実効性を高める手段も運営基盤に直結したが祭祀執行は山伏にとってハレ舞台になっていた。山伏の必須教養・技能に「能説」・「声明」が『園城寺伝記』で列挙される。祭祀の執行で導師を山伏が務めるのは教養技能の実践機会であったのも確認しておきたい。
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