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いつか観た映画・黒澤明『素晴らしき日曜日』(1947年公開)

前回、「カメラに向かって役者が語りかける」という映画の話をしたが、黒澤明監督の初期の映画「素晴らしき日曜日」(1947年)の終盤のあたりで、役者がカメラに向かって語りかけるという場面があった。

主人公は貧しい恋人(沼沢薫、中北千枝子)。毎週日曜日にデートするのだが、お金がない。なけなしのお金で、週に1度しか会えない日曜日のデートをなんとか楽しもうとするのだが、その日は、ことごとく裏目に出る。
戯れに飛び入り参加した子どもたちの草野球で、男が打ったボールが饅頭屋に入り、弁償をする羽目になる。戦友が経営するキャバレーに行くと、乞食と間違われて冷たい仕打ちを受ける。日比谷音楽堂の「未完成交響楽」演奏会を聴きに行こうとチケット売り場に並ぶが、ダフ屋にチケットが買い占められ、高値で買わされようとしたことに抗議をすると、ボコボコにリンチされる。挙げ句の果てには、カフェでぼったくられて、ついにお金は底を尽いてしまう。
とんだ日曜日だ、と男は悲嘆に暮れる。それをなんとかなだめようとする女。
夜、2人は、再び音楽堂に向かう。演奏会はとっくに終わり、誰もいない音楽堂の舞台の上で、昼間に聴くはずだった「未完成交響楽」の気分に浸ろうと、男は指揮者のまねごとをはじめる。客席には恋人の女がひとり。
しかしやっぱりダメだ。テンションを上げようと思っても、自分のふがいなさに心がおれそうになる男。
そのとき、女は立ち上がって後ろを振り向き、誰もいない客席に向かって、…つまりカメラの向こう側にいる映画の観客に向かって、語りかけるのである。

「みなさん!お願いです!どうか拍手をしてやってください!みなさんの暖かいお心で、どうか励ましてやってください!お願いです!…世の中には、私たちみたいな貧乏な恋人がたくさんいます。そういう人たちのために…ひとかけらの夢も、一筋の希望も奪われがちなたくさんの可哀想な恋人たちのために、…世の中の冷たい風に、いつも凍えていなければならない、いじけがちな、ひがみがちな、貧しい恋人たちのために、どうか、みなさんの温かいお心で声援を送ってください!そして、私たちに美しい夢が描けるようにしてください!みなさんの温かい心だけがわれわれのいじけた心に翼を与えてくれるのです。夢を、希望を、力を与えてくれるのです。どうか拍手をしてやってください!お願いします、お願いします!」

このとき、実際に映画館で拍手が起きたのかどうかは、わからない。しかし女優がカメラに向かって観客に語りかけ、そして拍手を求めるという演出は、当時としてはかなり実験的な手法だったと思われる。
「素晴らしき日曜日」は、地味だが佳品である。脚本を書いたのは、植草圭之助。黒澤明とは小学校の同級生で、つまり幼いころから二人は親友だった。
植草圭之助は、「素晴らしき日曜日」」のほかにもう一つ、「酔いどれ天使」の脚本も書いている。この映画も名作である。黒澤明と仕事をしたのは、この2本だけである。この後、二人は決別する。

植草圭之助が書いた『わが青春の黒沢明』(文春文庫、1985年、原題『されど夜明けに』1978年)は、親友・黒沢明との友情と決別を叙情的な筆致で書いており、実に味わい深い本である。脚本家の目から見た黒沢明の実像を描いたものとしては、橋本忍『複眼の映像』(文春文庫)が白眉だが、植草のこの本も、それに並ぶ傑作だと思う。
植草圭之助が黒澤明と決別したあと、ちょうど入れ替わるように、今度は橋本忍が脚本家として黒澤明の作品に関わり、「生きる」「七人の侍」などの傑作を生み出す。その橋本忍も、やがて黒澤明と決別してしまう。
両者の本を読み比べてみると、もちろん筆致も個性も異なるが、脚本家のまなざしとはなるほどこういうものか、という脚本家特有の視点のようなものを感じ取ることができる。
植草圭之助と橋本忍という、黒澤明に深く関わった2人の脚本家の黒澤評伝は、いずれもそれ自体が映画の脚本であるかのような物語性を持っていて、実におもしろい。

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