忘れ得ぬ人々・第9回「ミーハー講師控室」(前編)

2012年のことだからいまから12年ほど前のこと、東京の大手カルチャースクールの講師を1回だけつとめることになった。都内の超高層ビル街の一角にある教室でである。
午後3時半から開始だが、少し早めに会場に着いた。担当のMさんにご挨拶して、講師控室に入る。都内でもいちばんの集客数をほこる教室だが、講師控室は意外と狭かった。講義の前の予習をしていると、おそらく私と同じ時間に講義をされる先生方が、その狭い控室に次々とやってくる。なかには、テレビによく出る「有名教授」もいた。
(さすが、大手のカルチャースクールは違うよなあ…)
だんだん緊張してきてトイレに行きたくなった。3時すぎにトイレに行って、控室に戻ってみると、その狭い控室のソファーに、ビックリするくらいオーラのある人が座っていた。
私は見てすぐ気がついた。
(…俳優の篠井英介さんだ!)
私の大好きなドラマ「すいか」(日本テレビ)で、性転換をした元人類学者、という役でゲスト出演していて、その回を何度も見ては、篠井さんの芝居に泣かされたものである。もう、自分の講義の準備どころではない。
(話しかけていいものだろうか…)
こんな機会は、めったにないのだ。
しかし、ああいうときって、全然勇気が出ないものである。すぐ近くにいるにもかかわらず、話しかけることなど、できるものではない。
講義の10分前になって、担当のMさんが控室にやってきた。
「先生、教室のプロジェクタの確認をしますので、いったん教室までお願いします」
Mさんに導かれ、控室を出て、教室に向かった。控室を出たとたん、私はMさんに聞いた。
「あのう…いま控室にいた方、俳優の篠井英介さんですよね」
「そうです。ご存じですか」
「ええ、そりゃあもう。大ファンですから」
「そうでしたか」
「篠井さんも、カルチャースクールの講師なんですか?」
「ええ。泉鏡花の小説の朗読をされていて、たしか今日が最終日です。先生と同じ時間を担当されていて、ちょうど教室は隣です。…そうだ、先生、もしよろしかったら、あとでご紹介しますよ」
「えええぇぇぇ!!」私はとたんに緊張した。「ご迷惑になりますから…」
「いえ、せっかくですし。これもなにかのご縁でしょうから」
プロジェクタの設定が終わり、講師控室に戻ると、すでに篠井さんはいなかった。
「ひとあし遅かったですね。もう篠井先生は教室に行かれたみたいです」とMさん。
残念!お話しするチャンスがなかったなあと、私はその隣の教室に向かった。(つづく)


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