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読書メモ・片岡千歳『古本屋 タンポポのあけくれ』(夏葉社、2023年、初出2004年)
職場の仕事部屋の本が廊下まで侵食し、早急に事態の改善が求められた。仕事部屋の中に置くことができれば問題ないのだが、そもそも仕事部屋も足の踏み場のないほど本で埋め尽くされている。
自宅もそうだ。「いいかげん片づけてよ!」と家族にさんざん言われ続けているが、なかなかはかどらない。
仕事部屋の方は、少しずつ断捨離を始めた。どうせこの先、自分の仕事が新たな展開を迎えることもないだろうし、必要かもと思ってむかし買った本が、これから役立つとも思われない。かといって捨てるのも忍びなく、職場の図書室にないものは職場に寄贈し、職場の図書室にある本は古書店に売ることにした。売ると言っても、二束三文にしかならないのだが、私としては、だれかがその本を手に取ってくれればそれに越したことはなく、はっきり言えばもう値段など付かなくてもいいのだという気持ちになっている。それでも空いた時間に断捨離作業をしているので、なかなか進まない。
いっそこれらの本を元手に古本屋を開きたいという気になってきた。先日、蔵書家の友人とそんな話題が出て、ブックカフェを開きたい、とか、ひとり(ふたり?)出版社を立ち上げたい、とか、夢は膨らんだ。
若い頃には、自分には無限の可能性があると思い込み、その野心に投入した燃料が本だった。だから本を手放すのは未練が残っていたのだが、最近はもうそんな野心などなくなってしまったので、ほんとうに必要な人に本を読んでもらうのがいちばんの幸福だと思うようになった。その手っ取り早い方法が、自分で古本屋を開業することなのではないかと。どこかのテナントを借りて、あまり利益を気にする必要もなく、なかば道楽でできるのではないかと、つい軽い気持ちで考えてしまう。だが、古書店を営んでいる人からは「ふざけるな!」ときっとお叱りを受けることだろう。
だから最近は本屋を開業する体験談の本とか、古本屋の店主の随筆を読んだりするようになった。『古本屋 タンポポのあけくれ』は、高知県の古本屋の店主をつとめた片岡千歳さんが書いた随筆である。出版社は夏葉社。相変わらず装丁と手触りが素晴らしい。しかしなによりこの随筆のすべてが味わい深い。ここに登場する人物とか、本のタイトルとか、私の知らないことは多いけれども、そんなことが些末な問題に思えるほど、この随筆は味わい深く、私を惹きつける。とくに店主の片岡千鶴さんとお客さんとの交流を読んでいると、心がじんわりとあたたかくなる。
時折書かれる持論についても、うなずくことばかりである。
「献呈署名本を売りに来る人は、くださった人への心遣いから、自分の名前のところをマジックで消したり、見返しを破ったりしている。
その本のためにも、マジックで消して汚したり、ページを破ったりしないで売りに出してほしいと、古本屋は思う。(略)せっかく献呈して下さったものを、売ったら悪い、と思っている人も多い。でも、もう読みもしないで、個人の書斎に死蔵するぐらいなら、古本屋という市場に出せば、新たな読者を見つけてもらえ、本のためにはうれしいことではないかと思う」(献呈署名本)
「もともと私は、読書感想文を夏休みの宿題にすることが気に入らない。
『自由な時間のたくさんある夏休みにできるだけたくさん図書館で本を読みなさい』だけではいけないのだろうか。(略)
一介の古本屋の私は、自分の子供たちの成長過程などから見て、読書感想文の宿題は、読書好きな子供を作らないと思う。本を読んだり感想文を書かなくてはいけないという重圧感が読書嫌いにしているようでならない」(「読書感想文」)
この「読書感想文」という随筆の最後には自身のエピソードも語られる。中学生になったばかりの頃に読んだ『ビルマの竪琴』を娘にやろうとして、
「私が菜絵(娘)ぐらいの時に読んで感動した本だけど、読んでみる?」
と言ったところ、
「お母さんと私は違うもの。私が読む本は自分で選ぶ」と一蹴されたという。考えてみればその通りだ。
「水のある所まで馬を連れて行くことはできるけれど、水を飲ませることはできない」(「読書感想文」)
という言葉は、教育のあらゆる場面に通底しているように思う。