いつか観た映画・『PERFECT DAYS』(ヴィム・ヴェンダース監督、2023年、日独合作)再論
あるPodcast番組を聴いていたら、「フィクションのドラマには絶対出てこない日常生活」というテーマで2人の若いパーソナリティーが雑談している回があり、それがなかなか面白かった。
あたりまえすぎる日常はドラマの中では描かれないのではないか、という仮説をもとに、私たちの日常生活で、ドラマの本筋とは関係のないという理由でカットされる場面にはどんなものがあるかを、あれこれと出し合っていた。
たとえば、トイレに行って用を足す場面がそうだ。大勢で飲み会をしたりデートなどで映画を観たりするときに、トイレに行くのが日常生活ではあたりまえなのだが、ドラマではそんな場面を描くことはまずない。ドラマの本筋とは関係ないからである。
以下、歯を磨く場面とか、洗濯機に洗濯物を入れて洗濯をする場面とか、どこかに行くために電車で移動したり高速道路で移動したりする場面とか、駅で乗り換えをしたりする場面とか、階段を駆け上る場面とか、寝る前にベッドの上でスマホを見たりして小一時間ダラダラする場面とか、日常ではあたりまえの場面が、ドラマではすべてなきものとされているのである。
私はこの雑談を聞いていて、ある映画のことを思い出した。昨年(2023年)に公開されたヴィム・ヴェンダース監督・役所広司主演の映画『PERFECT DAYS』である。この映画については以前にも少し触れたが、この映画こそが、究極の日常生活映画である。
Podcast番組のパーソナリティーが、ドラマでは絶対に描かれないしてあげられた場面が、この映画ではしっかりと描かれている。というか、そういう場面しかない映画なのだ。
主人公(役所広司)は、早朝、毎日同じ時間に起きて、布団をたたみ、花に水をやり、朝食を作り、洗い物をして、歯を磨いて、身支度をして、アパートを出て、アパートの前にある自販機で缶コーヒーを買って、仕事用の軽ワゴンに乗り込み、缶コーヒーを飲み1970年代のロックをカセットで聴きながら高速道路を走り、作業場であるトイレに向かう。主人公は公共トイレの清掃員で、毎日同じ時間に公共トイレのいくつかを掃除する。昼は決まって、神社の境内のベンチに腰掛けてコンビニで買ったサンドイッチを食べながら、境内の木々のざわめきをカメラに収める。仕事が終わると銭湯に行き、行きつけのお店で食事をして、寝る前には小一時間ほど文庫本を読んでから眠りにつく。
休日は、コインランドリーで作業着を洗濯して、古本屋で100円の文庫本を買い、古本屋の店主とひと言ふた言会話を交わし、その文庫本を持って馴染みのスナックに行き、スナックのママとの会話を楽しむ。
映画ではこの変わらぬ日常生活をまるでタイムループしたかのように執拗に描くのだが、それを観ていた私はまったく飽きることがなかった。
それでもたまに、そのルーティンの日常生活を妨げるような非日常的なことが起こり、主人公の心はよい意味でも悪い意味でもかき乱される。ふつうのドラマであれば非日常な出来事ばかりが描かれ、日常生活は切り捨てられるのだが、この映画はまったく逆なのである。「逆に」だからこそ、時折起こる非日常的な出来事が特別な出来事のように感じられる。
私がこの映画を観て感じたのは、延々とくり返される日常生活を過ごしてこそ、時折起こる非日常の出来事がとりわけ愛しく感じられるのではないか、ということであった。
Podcast番組の中でも2人のパーソナリティーが、ドラマでカットされるような日常生活の場面こそが「逆に」、「自分がそこに存在している」という意味を持つ大切な時間なのではないか、という趣旨のことを語っていて、これはまさに映画『PERFECT DAYS』の本質にかかわるテーマではないかと、ひとり膝を打ったのである。