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読書メモ・第12回・東畑開人『心はどこへ消えた?』(文藝春秋、2021年)
全体は軽妙なエッセイで、さらりと読める文章なのだが、序文に書いてあることが、けっこう衝撃的だった。
「心理学には本当にたくさんの論文や本があって、理論や知識はあふれている。それなのに、どのテーマも現代の読者たちに響くようには到底思えなかった。この時代に切実な心の話とはなんなのか。まるでわからなかったのだ。
ヒントが欲しくて,新聞を読んだり、テレビを見たり、SNSを巡回したりもした。だけど、そこにあったのは、政治とか経済とかのとてつもなく大きな話ばかりで、心を描くための小さなエッセイで扱えるようなことではなかった。
おかしい。心が見つからない。心はどこへ消えた?」
少し読み進めると、こんなことも書いている。
「わからないことがあったときは、まず事典を引いて、定義を確認する。昔そう習ったし、学生にもそう教えているから、私も図書館に行って、心理学の専門的な事典を調べてみることにした。
すると、驚くべきことがわかった。心理学の事典にはそもそも『心』という項目が存在していなかったのだ。図書館に置いてあった事典をすべて見てみる。やっぱりどこにも『心』がない。おかしい。心はどこへ消えた?」
心理学の事典に『心』って項目がないというのは、かなり衝撃的ではないか、と、私はそう感じたのである。
著者が臨床心理学を志した年が、1999年。「かつて、つまり1999年以前には、心はキラキラと輝いていた」という。
「なにより臨床心理学は大人気だった。心の深層を語る本は一般書の棚でもよく売れていたし、事件が起こればメディアに臨床心理学者が呼ばれて、「心の闇が」云々と語っていた。大学の心理学科は高倍率で、「臨床心理士」という資格もできた。心の仕事が少しずつ社会に広がって行った時代だった。」
たしかにそうだ。私が大学生だった1980年代末から90年代にかけて、心理学は超人気の学科だった。
その後の時代の流れを著者はこう書いている。
「(略)かつてキラキラしていた心は、今ではほとんど人々の関心を集めることがなくなっていたのだ。
実際、心理学の本は専門書の棚にしか置かれなくなったし、事件が起きたときに語られるのは『心の闇』ではなく、『社会の歪み』だ。心理学科の人気は落ちて、定員割れの大学院もたくさん出てきた。『本当の自分』を見つけたとしても、『それで食っていけるの?』と身も蓋もないことを言われてしまう」
なるほど、これもなんとなくわかる。大学に勤めていた2000年代、やはり心理学コースは大人気だった。あまりに進学希望者が多くて、選抜みたいなことをしていたんじゃなかったかな。いまはどうなのだろう?著者が言うように、いま心理学科の人気が落ちているのだとすれば、その原因はなんだろう?私はなんとなく、2011年の東日本大震災が、その分かれ目になったのではないか、という気がするが、よくわからない。でもその頃から、時代は「心の季節」から「社会の季節」へ移っていったのではないだろうか。
私は昔から心理学の本を読むのが好きだったので、大学で心理学科が人気である現象もなんとなく理解できたが、心理学科に進む人たちに対しては、どちらかといえば冷静な目で見ていた節がある。
もし私が、心理学を学ぼうと思い、心理学科に進んだとしたら、おそらく失望したのではないか、という思いが、漠然とあった。心理学はそんな生やさしいものではない、心理学を学んだからといって、自分の心が癒やされるとか、他人の心がわかるといった、単純なものではないことも、心得ていたつもりである。
しかし一方で、この著者が述べるように、現代の読者の人の心に響かない心理学の研究があるというのも、事実のように思える。
いや、これは心理学に限らない。およそほとんどすべての学問は、現代に生きる人間の心を揺さぶるものでなくてはならないはずなのに、その「心」はどこへ行ったのだろう?
役に立つとか、立たないとかではない。問題を解決するとか、解決しないとかではない。心を揺さぶるか、揺さぶらないか、である。
心はどこへ消えた?という問いを、心理学の中だけにとどめてしまってはいけない。