読書メモ・永六輔『芸人たちの芸能史』(中公文庫、2024年、初出1969年5月)
永六輔『芸人たちの芸能史』は、2024年に中公文庫から復刊されたが、最初の刊行は1969年で、私が生まれた年にあたる。なので私にとっては同時代史とは言えないのだが、小学生の頃から早熟だった私は、エノケンとかエンタツ・アチャコといった芸人の名前はよく知っていた。おもにその知識は、TBSラジオやNHKラジオでパーソナリティーをつとめていた近石真介さんのラジオで学んだ。小学生の頃は近石真介さんのラジオ番組が好きだった。だから私にとっては、実は永六輔さんよりも近石真介さんの方がラジオのレジェンドだったりする。永六輔さんは晩年、近石真介さんとラジオで対談したが、永さんの近石さんに対するリスペクトに溢れた対談は、私にとっては宝物のようだった。
この本を読んで理解できる若者はいるのだろうか。いくらお笑い好きを自負する若者でも、ここまで芸人の歴史を辿ろうと考える人はいないだろう。この本は徹頭徹尾、永六輔さんからの目線で描いた芸能史で、言うなれば思索がそのまま本になっている。読んでいて最初は戸惑うが、読み進めているうちにその構成の妙にあらためて膝を打つ。
まず、本書の起点になるのは、昭和43年(1968)12月31日午後9時から行われた「第19回NHK紅白歌合戦」である。いまもこの大晦日の番組は続いているが、むかしは視聴率が80%を超えるお化け番組だったことを知っている若者は、どれだけいるだろうか。
永さんはこの日、この番組を見ていて、番組の進行にしたがってひとつひとつの場面が展開するごとに、永さんの芸能史への思索が喚起される、という体裁で語られていく、…と説明しても、説明が下手でなかなかわかりにくいだろう。こればかりは実際に手に取って読んでもらうほかないが、この構成がとても素晴らしいのである。
紅白歌合戦の番組進行から喚起される芸能史は、多岐の分野にわたり、一読すると近代以降の芸能史についての乱雑だが細やかな語りであることに気づかされる。
無粋だが、本書の各エッセイ(著者は「雑談」と言っているが)に説明的な副題をつけたくなった。それにより、この本がまさに「芸能史」であることが理解できるような気がしたからである。前者が本書の各エッセイのタイトル、後者が私が勝手につけた副題である。
「紅白歌合戦とあなた」→「『座』から劇場へ」
「歩きつづける芸人」→「芸能の誕生」
「プロとアマの差」→「プロ・アマスポーツの形成」
「体力の限界を踊る」→「洋舞の歴史」
「芸名、醜名、源氏名、筆名」→「芸名の歴史」
「漫才 吹きだまりの芸人達」→「漫才の歴史」
「只今より放送を開始します」→「放送局の歴史」
「二百万枚突破」→「レコードの歴史」
「ショウ・マスト・ゴォ・オン」→「ショウビジネスのはじまり」
「茶の間の芸者」→「芸者文化の衰退」
「オッペケヒャラリコノーエ」→「軍楽隊から洋楽バンドへ」
「毎度馬鹿馬鹿しいお笑いで」→「古典落語の継承」
「話芸家いろいろ」→「講釈師と話芸家」
「未来という名のショウ」→「未来のショウの考察」
「何が何して何とやら」→「浪曲から歌謡曲へ」
「電気活動大写真」→「活動写真から映画へ」
「新派、新劇、新国劇」→「新劇の系譜」
「踊り踊るなら」→「邦舞と邦楽の運命」
「良俗、常識、検閲」→「検閲と戦争」
「本家河原乞食」→「歌舞伎についての思索」
「ふるさとの歌まつり」→「民謡を受け継ぐ」
「清く、正しく、美しく」→「ミュージカルの成長」
「テレビがゆく」→「テレビ大道芸論」
「興行師次郎長」→「興行師からプロデューサーへ」
「五郎・十郎・三木のり平」→「喜劇と喜劇役者についての考察」
「万国衛生博覧会」→「見世物から博覧会へ」
「ヒットソングの系譜」→「歌謡曲と流行歌の系譜」
「”本紙独占緊急特報”」→「芸能人のスキャンダル」
「僕たちに祭りはあるか」→「祭りと芸能」
…と、書いていて疲れたが、私が勝手につけた説明的副題はあくまでも私にとっての備忘録である。しかしこれを見ると、ひとくちに芸能と言ってもさまざまなジャンルの芸能についてほとんど包括的に語っていることがわかる。そればかりではなく、それをとりまく劇場やテレビやレコードや放送局やプロデューサーといったハード面へのまなざしも忘れない。まさに包括的な芸能史である。
対象とする時代は1969年で止まっているが、実は本書が未来への予言の書であることも忘れてはならない。
「この、放送による無料の芸と、素人の芸が日本の芸に与えた影響は大きい。少なくとも芸というものに金を払うことが当然だった歴史が終わっているのである。そして、素人の芸に、玄人の芸にはない魅力があることを確認させ、素人時代といってもよい時代がきているのだ」(108頁)。
以前、芸人の上岡龍太郎さんが「テレビを見て面白いと感じるのは、素人が芸を見せるか、玄人が私生活を見せるかのどちらかである」という名言を残したが、この名言は永さんの言葉とも通じている。そしていまはその通りになっているではないか。
「僕は、テレビの報道を真実だと思わなかったことに誇りを持ったものである。テレビカメラを僕達の目だと思ってはいけないのだ。その意味で、ブラウン管にうつるものは見世物なのである」(172頁)
「…表現の自由ということに関して、体制側との摩擦は絶えない。そして、NHK組合委員長の上田哲は「テレビが危ない!」と説いて参議院議員に当選している。
「テレビが危ない!」ということは、将来テレビが凶器になる危険性があることである。
僕達はテレビにうつるものすべてを事実として認めてはいけない。事実と真実が対立することだってあるのだ」(233頁)
これはまさにいまのテレビの状況を言い当てていると思う。いや、テレビは実はむかしからそうで、視聴者はようやくそのことに気づきはじめたということなのかもしれない。