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読書メモ・北丸雄二『愛と差別と友情とLGBTQ+』(人々舎、2021年)
北丸雄二さんの『愛と差別と友情とLGBTQ+』(人々舎、2021年)を読んでいたら、こんな記述があった。
ソ連圏は男性同士が人前でキスをする習慣があった。1980年のモスクワ五輪では、ソ連の体操の選手が競技が終わるたびに、あるいは同僚選手が競技を終えるたびに、互いに近づいて抱き合って唇と唇を合わせてキスをするのだ。ところが、モスクワ五輪を機に、それがなくなった。オリンピックで他の世界に出遭った自国の文化が、別の視線を得て突然「意味」を変容させる。世界目線、というか欧米目線を知ったソ連の選手たちにとって、「兄弟のキス」の意味が突然、性的なものに変わってしまったのだ。なので不意に世界中継のテレビから彼らの抱擁と接吻がなくなった。
このような内容のことを書いた上で、次のように続けている。
「同様のことが一九八八年のソウル五輪でも起きました。それまで韓国では若い男の子同士が街なかでも手をつないで歩いていることは珍しくありませんでした。ところが韓国に世界の目が集まることで(あるいは「集まる」と意識したことで)、その風習は都市部で急速に消え去りました。男同士が手をつなぐことに(欧米の文脈での)性的な意味が付加されてしまったわけです」
このくだりを読んで、私は若い頃のことを思い出した。
私が大学院生だった1990年代前半頃のことである。私は、韓国から来た留学生のチューターをすることになった。留学生、といっても、僕よりも4~5歳年上の男性である。
年齢も年齢だし、日本で確実に結果を残して帰国してもらわないと、自分の国で就職をすることも難しいだろうと思い、かなり献身的にチューターの仕事をつとめた。
当然、その留学生は私に対して、たんなるチューターであることを越えて、友情を感じていたので、たまにお酒を飲みに行ったりすることがあったのだが、お店を出て、少し酔っ払いながら並んで歩いていると、不意に手をつないでくることがしばしばだった。
最初、私はちょっと面食らったが、後々、韓国では男性同士や女性同士が手をつなぐことは自然に行っていることだということをどこかで知り、なるほど、これがいわゆる韓国式なんだな、と合点がいったのだった。
北丸さんの本のこのくだりを読んで、この習慣が1988年のソウル五輪を契機に、都市部を中心に急速に消え去っていったことを知り、そうか、韓国でふつうに行われていたことが、五輪によって淘汰されてしまったのか、と、いささか感慨を抱かずにはいられなかった。1990年代前半にはまだその名残があり、その留学生は、若い頃に親しい者同士でしたように、私に手をつないできたのだろう。
五輪は多様性を認めるどころか、マジョリティの視線により、突然その国の風習を変異させるのだ。それは進歩なのか?それとも文化破壊なのか?