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倉敷・千秋座

このnoteで水道橋博士さんの『藝人春秋Diary』と『本業2024』のことを書いたら、ご本人が読んでくださり、X(旧Twitter)で取りあげてくださった。もともと自分の興味の赴くままに書いているだけで、だれに宣伝しているわけでもない文章がご本人に届くというのは、望外の喜びである。
Xのなかで水道橋博士さんが「これが文で交流する友達だ」と書いてくださり、文章を書くことにこだわっている私にとっては最高の褒め言葉だ。「本好きは他人の想い出も抱いて死ぬのだ」という言葉も、本好きにとっては嬉しい。
私はX(旧Twitter)をやっていないので、直接リプライを書いて感謝の気持ちを伝えられない。ここに書いてそれが届くのを祈るしかない。
水道橋博士さんはXの中で、『藝人春秋Diary』について書いた私のnoteに触れて、「倉敷の映画館の想い出を拾ってくれた書評は初めてかも。ありがたいです」と書いてくださった。
これにはちょっとした事情がある。

コロナ禍が始まった2020年から、ふとしたことがきっかけで、戦時中の高等女学生が書いた日記を読むというプロジェクトを立ち上げることになった。その女学生は倉敷に住んでいて、1941年から毎日欠かさず日記をつけていた。一日一日の出来事をかなり詳細に書いており、戦時下の倉敷の様子を生き生きと伝えていた。未公表の日記なので詳細は紹介できないが、ところどころに倉敷の生活圏の様子が書かれており、倉敷には20代の頃に1度しか訪れたことのない私にとっては、倉敷が馴染みの土地に思えてきて、その女学生の日常を追体験するような気持ちになった。
日記には、「千秋座で映画を観た」という記述が何カ所か登場する。観た映画のほとんどが戦意高揚の映画のようだった。その中には黒澤明監督の師匠にあたる山本嘉次郎監督の『ハワイ・マレー沖海戦』を観たという記述もあり、私も以前にDVDで観たことがあるので、そうか、千秋座では『ハワイ・マレー沖海戦』がかかっていたのか、と感慨深くなり、千秋座という映画館が次第に身近なものに感じられてきたのである。
『藝人春秋Diary』に出会ったのは、その日記のプロジェクトが続いていた2021年のことである。80年ほど前の戦時下に書かれた日記に登場する「千秋座」が、水道橋博士さんの想い出の映画館として語られていることに、私は不思議な縁を感じた。その不思議な縁に嬉しくなり、だれかにそのことを伝えたくて、日記のプロジェクトに参加していたみずき書林の岡田林太郎さんにメールを書いた。岡田林太郎さんは岡山の出身である。メールを送ると、さっそく返信をもらった。

「メール楽しく拝読しました。
岡山出身ですが、恥ずかしながら、
水道橋博士
甲本ヒロト
漫才師・千鳥
MEGUMI
前野朋哉
などなどが岡山・倉敷出身であることはまったく知りませんでした……。
(僕にとっては岡山は吉行淳之介と内田百閒の出身地で有名です)
千秋座のあったあたりは、観光地としていまも隆盛を誇るいわゆる美観地区とは違い、昔ながらのアーケード街で、いまは何とかテコ入れを図りつつ、なかなか難しい運営を迫られているあたりです。
僕の伯母も倉敷駅前の地下街で飲食店をやっていたことがありました。バブル期にはすごく繁盛していたのですが、その後、地下街もろともなくなりました。
余談ながら、愛媛松山の早坂暁先生の実家も芝居小屋・大正座を持っていて、やはり演芸場→映画館→消滅、という道を辿っていますね。
地方の演芸場に共通する末路でしょうか。
皆で行けるようになったら、美観地区だけでなく、古いアーケード街も歩いて、日記マップなど作れたらと夢想しています」

このメールの後半に脚本家の早坂暁さんのお名前が登場するが、岡田林太郎さんは「ひとり出版社」のみずき書林を立ち上げる前に勤めていた出版社で、早坂暁さんの著作集の出版を手がけたことがご縁で、長らくお付き合いがあったのだという。文中に出てくる愛媛松山の「大正座」については、早坂暁さん脚本の自伝的ドラマ「花へんろ -風の昭和日記-」(NHK)にその様子が描かれている。私も水道橋博士さんの「千秋座」のエピソードを読んで、「大正座」のことをすぐに連想した。あの女学生の日記がなければ、そして岡田林太郎さんがいなければ、倉敷の千秋座のことがこれほど心に刻まれることはなかっただろう。

岡田さんは昨年(2023年)の7月に若くして亡くなってしまい、「(コロナ禍が明けて)皆で行けるようになったら、美観地区だけでなく、古いアーケード街も歩いて、日記マップなど作れたら」という夢想は叶わなかった。しかしいずれ私がこの地を訪れることが、人生の伏線を回収することになるのだろう。いや、回収しなければならない。




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