オトジェニック・寺尾紗穂『たよりないもののために』

寺尾紗穂さんのことについてふれた回の最後で、
あとで読む・第5回・寺尾紗穂『日本人が移民だったころ』(河出書房新社、2023年)|三上喜孝 (note.com)
「次の望みは、寺尾さんのコンサートに行ってみたいということである」と書いたら、その望みは案外と早く叶うことになった。数名の人に背中を押され、サントリーホールでのコンサートに行くことになったのである。
スマホで購入したチケットには整理券番号がついていて、開場の際には整理券の番号の順に入る仕組みらしい。ホールの中は自由席である。
入口で、気のよさそうなおじさんが、
「整理券番号180番から200番の方、こちらにお並びください!」
と、手際のよい客さばきをしている。
会場に入って席に座ると、開演直前に壇上で男性が前口上をした。見ると、
さっき入口にいた気のよさそうなおじさんではないか!
「あの方はこのコンサートを企画制作したジョー長岡さんですよ」
同行の方に教えられた。ジョー長岡さんは、寺尾さんのコンサートの製作をこれまで12回ほど担当してきているそうだ。会場の客さばきまで自身でおこなうとは、このコンサートにそうとうな愛情を注いでいる様子ががわかる。
「まるで執筆者と編集者の関係のようですね」
「そう言われればそうですね」
ジョー長岡さんの前口上のあと、さっそくコンサートが始まった。壇上にはピアノが1台。おもむろに寺尾さんが登場して、演奏と歌が始まる。
私は寺尾さんのソロアルバムは『御身』しか持っていないので、演奏している曲は初めて聴くものばかりだった。そのなかで寺尾さんがつぶやくように「次の曲は、植本一子さんの言葉がとてもよかったので、そこにメロディーをつけました」と語って歌った曲が、とくに私の胸に迫った。
写真家の植本一子さんの名は、武田砂鉄さんの本やラジオを通じて知った。2018年にパートナーであるラッパーのECDさんを進行性のがんで亡くしたことをあとになって知った(このときのことは、つい最近読んだダースレイダー『イル・コミュニケーション』の中でもふれられている)。作家の滝口悠生さんとの往復書簡『ひとりになること 花をおくるよ』(私家版、2022年)は佳品で、巻末に短い文章を寄せた武田砂鉄さんの補助線が泣かせる。
そんなこともあり、私はその曲に引き込まれていった。「あれは『孤独の惑星』ですよ」と同行の方から教えられた。コンサートの終了後、物販のスペースで「孤独の惑星」が入っているアルバム『たよりないもののために』を買った。気がつくと、演奏を終えたばかりの寺尾さんが物販のスペースに立ってサインをしていたので、私もサインをもらおうかなと思ったが、思いのほか長蛇の列だったので諦めた。
こんな素敵なコンサート、いつ以来だろう?と記憶をたどったら、ちょうど10年前、当時住んでいた山形市の文翔館(旧県庁)の議場ホールで、「矢野顕子、忌野清志郎を歌う」という矢野顕子さんのコンサートを聴きに行った以来だ。あのときも、この日と同じ、壇上にはピアノ1台だけが置かれていた。ピアノの音と澄んだ歌声が、響きわたっていた。

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