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あとで読む・第54回・猪股忠『追跡 阿部次郎 校長排斥スト事件』(ブイツーソリューション、2021年)

前回のnoteで、柄にもなく阿部二郎の『三太郎の日記』を取りあげたのは理由がある。先月(2024年7月)、私がかつて住んでいた山形に仕事で訪れた際、山形市の老舗書店「八文字屋」に立ち寄ってみると、猪股忠『追跡 阿阿部次郎 校長排斥スト事件』という本が平積みされていて、そのタイトルを見てつい一目惚れをして買ってしまったからである。たとえていうならば、ペットショップに行って、かごの中のさまざまなワンちゃんを見ていたら、つい自分と目が合ってしまい、その途端に情が移ってしまった、という感覚と一緒である(本当か?)。

阿部次郎についての知識がまったくなかった私は、阿部次郎が山形県の庄内地方の出身で、荘内尋常中学校に入学し、その後山形県尋常中学校(のちの山形東高校)に転入した事実を初めて知った。つまり生粋の山形人なのである。そのことを前提にして、この本の「はじめに」を読んでみると、そこには広大な未知の世界が横たわっていることがわかるのである。

「(『三太郎の日記』の著者、あるいは大正教養主義の旗手としての阿部次郎が)旧制山形中学校(現・県立山形東高校)時代に校長排斥のストライキ(以下、スト)をリーダーの一人として決行し、その結果、放校処分を受けたことまで知っている人はほとんどいないのではないか」(「はじめに」)

いや知らない知らない!いきなり最初から謎の多すぎる展開である。「校長排斥スト事件」とはどういうものなのか?俄然興味がわいてくる。

「新制度の教育しか受けていない私には、つねに次のような疑問があった。それは ー阿部次郎(厳密には阿部次郎たち九人)は山形中学校を放校になったにもかかわらず、なぜ文部省認可の私立京北中学校にすんなりと途中編入できたのか- という疑問である。そしてこの疑問のあとには付随して、次郎は同校を卒業後、なぜ官立の一高に何の支障もなく進学することができたのか、という疑問がつづく」(「はじめに」)

こちらとしては知らない事実ばかりで、その知らない事実を前提に次々と疑問が展開される。こうなると、これらの謎のすべてを知りたいと思うのが人情というものである。

「よく考えて見ると本書は、狭義的には当時の日本の中学校史、とくに私立中学校史、個別的には当時の山形中学校史や京北中学校史にもなっているということである。ただし、あまり公にしたくないストに関連した話がメーンでもあるので、校史といっても、それは正史ではなく裏面史といった方が正しいだろう」(「はじめに」)

この一文にも痺れてしまった。当時の山形中学校や京北中学校の「正史」ですらよく知らないのに、いきなり「裏面史」にふれることができるというのがたまらない。たしかに私は、旧制中学がどのような学校なのかについて知らない。それは旧制高校についても同じである。いまの中学校や高校とは違うんだろうなということははっきりわかるのだけれど、若者たちにとって旧制中学や旧制高校がどのような存在だったのか、私はそれが知りたい。それを、阿部次郎の校長排斥スト事件という謎の事件を通じて学べるというのであれば、これほど興味深い切り口はないのではないか。

第一章を読み始めてみると、阿部次郎は荘内尋常中学校時代に、同学年の宮本和吉と親しくなった、と書いてある。宮本和吉とは、のちにカント哲学の研究と紹介に努めた人物だそうである。さらに2年後輩に伊藤吉之助がいて、彼ものちにカント哲学を学ぶようになる。阿部次郎、宮本和吉、伊藤吉之助の3人は東京帝国大学文科大学哲学科に学び、「庄内の哲学三羽烏」と称されるようになったという。
…まったく知らなかった。宮本和吉や伊藤吉之助という哲学者の名前も、そしてその2人が阿部次郎を含めて「庄内の哲学三羽烏」と呼ばれていたことも!哲学界では常識に属することなのだろうか?芸能人の知的水準を競う番組である「Qさま!!」あたりで「『庄内の哲学三羽烏』と言われたのは、阿部次郎と、あとの2人はだれ?」というクイズが出されたら、正解する人はどのくらいいるのだろう?
ことほどさように、この本には私のマニア心をくすぐるエピーソードがちりばめられているのではないかと愚考する。なにしろ私は、裏面史が大好物なのだ。

なお著者は、同年に同じ出版社から『追跡 藤村操 日光投瀑死事件』も上梓されている。こちらも激しく読みたい!


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