忘れ得ぬ人々・第18回「SLOW hairworks」(後編)
(前回の続き)
それから1年後の2015年10月末。
行きつけの散髪屋さんでは、私の髪の担当はTさんに変わった。そのTさんが私に言った。
「Gさんのお店、紆余曲折あって、ついにオープンしたようですよ」
「そうですか!ついにオープンしましたか。1年かかりましたね」
「そうでしたね」
Gさん、というのは、以前この店で私の散髪を担当してくれた人である。まだ30代前半という若さで、独立を考え、家族ともども引っ越しをして、実家のある山形県S市でお店を開くことにしたという。
私は山形県に住んでいたころ、仕事でS市に何度も行ったことがあるので、もしオープンしたら、一度訪ねますよ、とGさんに約束したのだった。
もちろん、そんなものは口約束で、ふつうだったら誰もが社交辞令としてかたづける種類の約束である。
しかし、そうはいかないのが私の性分。
「Gさんのお店の連絡先、わかりますか?」私はTさんに聞いた。
「ええ。つい最近、オープンしたというお知らせのハガキが来ましたから。…まさか、本当に行かれるんですか?」
「ええ。ちょうど1カ月後に、山形県に出張の予定があるんですよ」
「そうでしたか。…Gさんから来たハガキ、コピーしましょうか?」
「お願いします」
「どうやら本気のようですね。もし行かれたら、Gさん、ビックリしますよ」
「本当に行けるかどうかはわかりませんけどね。…もし来月、私がこのお店に来なかったら、ははーん、さてはGさんのお店で散髪してもらったんだな、と思ってください」
「わかりました。結果を楽しみにしています」
…ということで、1カ月がたった。
出張の前日、電話をして予約を入れることにした。
「明日、カットをお願いしたいんですが」
「何時がよろしいですか?」
「朝イチの9時は、大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ」
「じゃあそれでお願いします」
「場所はおわかりですか?」
「ええ。なんとなくわかります。駅からは遠いですか?」
「歩くとちょっとかかりますね」
「わかりました。では明日、お願いします」
「お待ちしております」
この時点でGさんは、私が何者かを知らない。
その翌日。
朝8時頃に山形市のホテルを出て、バスに乗って45分かかって、S駅前のバス停に着いた。大雨だったので、タクシーで目的の散髪屋さんに向かい、着いたのが9時ちょっと過ぎである。
住宅地の中にたたずむ、とてもおしゃれな建物が、目的の散髪屋さんである。
「いらっしゃいませ」
「予約をしていた三上です」
「……」
「覚えてますか?以前、I市で散髪していただいた…」
「あ、あああぁぁぁぁ!!!三上さん!どうしてここに???」
「ついにオープンしたって聞いてね。それで、出張のついでに散髪してもらおうと寄ってみたんです」
「えええええぇぇぇぇぇ!!!」
Gさんはひどくビックリした様子だった。そりゃあそうだ。だって散髪をするために、千葉県から新幹線とバスを乗り継いではるばるやって来たんだもの。
Gさんは、私のことを完全に思い出してくれたようだった。
「前の店では、山形県の話で盛り上がりましたよねえ。で、僕がS市で散髪屋を開業するつもりだってお話ししたら、『オープンしたら行きますよ』と言ってくださった。でもまさか、本当に来てくださるとは…めちゃめちゃ嬉しいです」
「おしゃれなお店ですね」
「オープンにこぎ着けるまで、それはそれは大変でした」
散髪をしながらの話は、止めどもなく続いた。
実は、Gさんにはほんの数回しか、散髪をしてもらったことがない。
たぶん歩んできた道も、全然違う。
しかし、久しぶりに会った友人のように、なぜか話がはずんだ。
実にリラックスした2時間だった。
すべてが終わり、襟元についた髪の毛を払いながら、Gさんが言った。
「夢のような2時間でした。こんなことって、あるんですねぇ。この仕事を続けてて、ほんと、よかったなあ…。忘れずにはるばる訪ねてくれる人がいるなんて、こんな嬉しいことはありません」
「私も、来てよかったです」
「一緒に写真撮ってください」
「どうぞ」
Gさんの奥さんに、写真を撮ってもらった。
「駅まで車でお送りしますよ」とGさん。
「いいんですか?だっていま、営業時間でしょう?」
「大丈夫です。今日の予約は、三上さんだけですから」Gさんの奥さんが言った。
Gさんの奥さんに見送られ、Gさんの運転で駅に向かう。ほどなくして、駅に着いた。
車から降りると、私はあることに気づいた。
「あ!虹!」
雨上がりの空に、大きな虹が架かっていた。
「本当だ、虹ですね。…今日は記念日ですね」Gさんが言った。「また来てください」
「また来ますよ」
固い握手をして別れた。
あれから10年が経った。インターネットで検索すると、そのお店は健在のようだ。いまもGさん夫妻は奮闘していることだろう。山形で大雪のニュースが流れるたびに思い出す。次に訪れる機会はあるだろうか。