読書メモ・『山本周五郎戦中日記』(ハルキ文庫、2014年)
私がふだん愛聴しているラジオ番組やポッドキャスト番組では、なぜか「日記」が取り上げられることが多い。たまたまなのか、流行なのか…おそらく前者だろう。
アラサーの女性会社員2人が雑談をするポッドキャスト番組では、リスナーから寄せられた「日記」を読むというコーナーがある。この番組を聴くのは、パーソナリティーの二人と同世代の人たちが多いので、寄せられる日記も、必然的に同世代からの日記が多いようだ。
他人の日記でも、読んでみるとさまざまな思いが喚起される。ある回では、アラサーの男性から寄せられた過去10年ほどの日記が紹介され、メモ書きに近いような簡潔な内容であるにもかかわらず、パーソナリティーの二人の同時代体験とリンクしたらしく、他人の日記ながら話題が尽きることがなかった。
もうひとつ、私が愛聴している文化放送『SAYONARAシティボーイズ』では、シティボーイズの3人(大竹まこと、きたろう、斉木しげる)が、自分の書いた日記を自分で読み上げるというコーナーがある。ある回では、大竹まことさんがスーパーマーケットでいなり寿司を買ったことを詳細な筆致で書いた日記が紹介されたが、途中から斉木しげるさんがいなり寿司に関する蘊蓄を語りはじめ、大竹さんが「俺のいなり寿司の話を取るなよ!」とツッコミを入れたことが可笑しかった。日記は個人的なものでありながら、第三者にとっても自分の中の思考を喚起させる力を持っている。
…というむりやりな前置きはさておき。
『山本周五郎戦中日記』は、さながら原稿執筆日記である。日記は簡潔だが、そのときの心情がじつに率直に吐露されている。
原稿が思うように書けないことへの苦悶が語られていて、大作家でもそんなことがあるのか、と、救われる気持ちになる。
たとえば、昭和18年12月8日の日記。
「大東亜戦三周年の日である。四日から「にが虫」にかかっているが筆が進まない。今日も終日紙を汚しただけで終った。(中略)「にが虫」はついに失敗した。是はいかんぞと思っていると「侍豆府」もだめになった、一つつまずくと続くものである。やはりよく検討してから取りかからないと悪い」
「筆が進まない」という表現が、日記には何度も出てくる。
日記の中で、たびたび、自分に言い聞かせているような文章を書いている。
いちばん笑った、というか面白かったのは、昭和19年10月19日から21日にかけての日記である。
10月19日。
「己には仕事より他になにものも無し、強くなろう、勉強をしよう。
己は独りだ、これを忘れず仕事をしてゆこう。
神よ、この寂しさと孤独に
どうか耐えてゆかれますように。
今日までの己は自分を甘やかしすぎた。
己は今こそ身一つだ。
なんにもない。
浦安の茫屋(ぼうおく)にいた時の己に帰るのだ
なにも有(も)たぬがゆえに
すべてを有(も)つのだ。
仕事だ、仕事だ」
明らかに、仕事に向かうように自分を奮い立たせる文章である。
翌10月20日の日記。
「仕事せず。(中略)明日から仕事をしよう」
昨日の決意はどこへ行ったのか、「俺、明日から本気出す」と言っているのである。
さらにその翌日、10月21日の日記。
「やはり元気が出ない。気力が虚脱したようで、なにをする気持ちにもならない」
あれだけ、「仕事だ、仕事だ」と、日記に自分を奮い立たせる文章を書いたにもかかわらず、結局、2日間、やる気が出なかったのだ。
多くの傑作を量産する山本周五郎ですら、そうである。
私のような凡人が、何を恐れることがあろうか。